第3話 侵略
実は、この今の日本と、寸分変わらぬ体制の国がある。
その国は、
「本人たちには分かっていないが。絶えず他国からの侵略に怯えている」
という国であった。
というのは、この国の体制は、ある意味今の日本のようなところがあり、
「名目上、ほとんどの自由が許されている」
という国であった。
しかし、その実態は、よく分からない国だった。
確かに存在している国なのだが、情報も入ってこない。入ってくる情報としては、
「日本とよく似た国だ」
ということであり、
「その国のことは、アメリカとしか話をしてはいけない」
というのが、日米間で決められていたのだ。
つまりは、
「アメリカだけが、その国の存在を知っていて、日本には分からない」
そんな不可思議な国の存在を、アメリカはどうして、日本にだけしか言わないのか、政治家の中には、バカなやつもいて、
「さすがは、日本の同盟国。日本にだけ話をしてくれたということは、それだけ日本を信頼して、同盟国の中でも、一番の存在だと思っているのかも知れない」
と感じていた。
しかし、普通に考えればおかしいだろう。
そもそも、そんな国が存在しているとして、
「なぜアメリカだけが知っているのか?」
あるいは、
「なぜ、公表しようとしないのか?」
ということが不思議ではないか?
世界には、
「国際連合」
というものがあり、基本的に世界的な問題はそこで話し合われなければいけないわけで、
「アメリカだけが知っている」
というのは、おかしなものだったのだ。
しかし、不思議なことに、日本の政治家の誰もが、そのことを問題にしない。
「そっか、アメリカだけが知っている国が存在するのか。どんな国なんだろう?」
ということで、そんな国が存在していることを問題視する政治家はいなかったのだ。
これはアメリカ政府も分かっていることであり、たぶん、他の国も、似たようなことがあれば、
「日本という国が、どうのこうのというわけではなく、世界がすべて、そんな国だったんだ」
というのを、いまさらながらに知らされた人がいたのだ。
その人は、外務大臣の秘書をしている人で、
「本来なら、常識ともいえるそんなことを知らなかったというのが、自分でも、不思議に感じることだった」
のである。
だからといって、知らなかったのは、そのことだけで、他の事は、特に外交のことは、特化して知っているのは当たり前だが、他の一般常識に関しても、かなり幅広く、そして確実に覚えているのだった。
「天は二物をあたえず」
というが、
それだけ、常識的なことも知っているが、一つだけ、
「始めて聞いた」
というようなことは、
「人間なのだから、そんなこと、一つくらいあっても不思議のないことだ」
と他の人は笑っていうことだろう。
それを思うと、何となく、その理屈も分かる気がした。
彼の名前は、
「クロカワ」
という名前だった。
クロカワは、中学、高校、大学を、ほとんど首席で卒業するという、
「100年に一度の天才」
と言われた。
それこそ、
「末は博士か? 大臣か?」
と言われるだけの成績なのだが、この国においては、
「学校の成績が優秀だったからといって、トップになれるかどうか分からない」
のである。
察しのいい読者諸君は、この章に出てきた、
「日本」
という国は、今の日本ではない。
もちろん、
「限りなく、我々が知っている日本という国に近いのだが、先ほどのような、アメリカとの関係で、微妙に本当の日本と違うところがあるのだが、その溝は、果てしないものであろう」
ということなのは、ここまででも分かってくれることであろう。
つまりは、この世界は、一種の、
「パラレルワールド」
の世界であり、そこに、我々の世界と、ほぼ同じ世界が広がっていて、そこには、日本もあれば、アメリカもある。
我々の知っている国、すべてが存在するというわけである。
話がややこしくなったが、
「この世界では、日本と似たような国が存在していて、そのことは、まるで国家機密のようになっている」
ということであった。
後、アメリカから入ってきた情報とすると、
「その国は、ほとんどの自由を許されているが、その国は、基本、アメリカの属国だというのだ」
ということであった。
「まるで日本のよじゃないか?」
と、クロカワは感じていた。
「それにしても、地図上に乗ってこないというのは、どういうことなのだろう?」
世界地図を見ると、ほとんどの土地は、どこかの国に属している。中には。
「どこにも属していない土地がある」
というのも分かっているが、そこは、そもそも、どこにも属さない土地ということで、認知されている国である。
それを考えると、
「地図上で見えないところがあるのか?」
ということなのか、あるいは、
「我々と違った圧倒的な科学力を持った人種がいて、彼らは密かに、海底に、住めるような技術を持って、我々の知らない世界で、邪魔にならないように、密かに暮らしているのかも知れない」
とも考えられなくもないだろう。
そんなことを考えていると。
「この世界には、まだまだ知らないことって多いのかも知れない」
とおもい知らされた。
確かに、科学の発展は目覚ましく。
「今まで分からなかったことが、どんどん分かってくる」
あるいは、
「今まで、こうだと思っていたことが実は間違いで、本当に正しいのが何か?」
ということが、どんどん信憑性も確かなものであるというのが分かってくるのだった。
「そんな科学の進歩に、ついてこれないのは、むしろ、人間の方なのかも知れない」
そんなことを考えていると、
「自分が知らないことが、一つくらいあったとしても、それはしょうがないことではないのだろうか?」
と思えてくるのだった。
人間という世界は、
「人間というのは、万能ではない」
と誰もが思っている。
だから、AIであったり、ロボット、タイムマシンなどという、タイムトラベル系の、
「SF小説」
などを好んで読むのだ。
それは、見えないが、この世に存在している幽霊やお化けの類に、怖いくせに興味を持つという意味での、
「ホラー小説」
であったり、
「オカルト小説」
と呼ばれるものを好むのと同じことではないだろうか?
ただ、人間というのは、
「絶対に、人工知能や、電子頭脳ではできないことを、人間ならできている」
ということがある。
ただ、これは、人間だけに限ったことではなく、
「他の動物にも、できている」
ということがあるのだ。
ということは、
「AIというのは、人間どころか、人間以外の下等動物にもできることが、できないということもある」
ということになるのであろう。
というのは、
「ロボット開発」
と呼ばれるものであった。
ロボット工学においての、ロボット開発は、二つの大きなことで、問題になっていると言われている。
その一つが、
「ロボット工学三原則」
と呼ばれるもので、これはロボット開発において、人間にできないことをロボットがやってくれるという意味で、人間よりも、強くできているのは当たり前のことで、それだけに、人間に危害を加えないようにしないといけないということである。
それを昔から、
「フランケンシュタイン症候群」
と呼ばれている。
フランケンシュタインという博士が、理想の人間をつくろうとして、誤って、悪魔を作ってしまった」
という、SF小説だ。
つまり、ロボット開発において、
「決して人間に危害を加えないようにしないといけない」
という機能を組み込む必要がある。
それが、
「ロボット工学三原則」
というものだが、
それというのは、
「ロボットは、人間に危害を加えてはいけない」
「ロボットは人間のいうことを聞かなければならない」
「ロボットは自分の身は自分で守らなければならない」
というこれらが、ザッとした内容なのだが、問題は、これらの。
「優先順位」
であった。
たとえば、
「人間のいうことを聞かなければいけないということを最優先にしてしまうと、だったら、人を傷つけてもいいという命令も聞かなければならないことになる」
ということである。
しかし、基本は、
「人間に危害が加わってはいけないのだから、いくら命令でも、聴いてはいけない命令も存在することになる」
というわけだ。
「じゃあ、すべての優先順位の頂点は、人を傷つけてはいけないということになるのだろうか?」
それを考えると、そのあたりは、慎重にい考える必要があるということであろう。
これが、いわゆる、
「ロボット工学三原則」
という問題である。
そして、ロボット開発で問題となることとして、
「そもそも、ロボットが動かなければ、どうしようもない」
ということで、
ロボットの中に組み込まれたAIに、限界のようなものが存在するのではないか?」
ということで、理論上でも、
「不可能ではないか?」
と思えることが出てきたのだ。
それが、
「フレーム問題」
と呼ばれるもので、
この問題は、
「ロボットの思考範囲」
というものを考えた場合に考えられるものであり、
「例えば、ロボットの思考を考えた時、普通であれば、無限の可能性を考えてしまう」
ということである。
だとすれば、いくら、どんなに早く計算する機械であっても、基本的には、次の行動に辿り着けないということだ。
それを解消するには、
「出来事をそれぞれのパターン化してしまい、それをAIに判断させればいいのでは?」
という発想が生まれた。
それはまるで、
「フレーム」
という枠に当てはめるような感じなので、
「フレーム問題」
という風に言われたのだ。
しかし、よく考えてみると、これは不可能なことなのだ。
そもそもが、無限なのだから、そこからいくらパターン化して分けたとしても、結果は無限でしかない。
これは、数学の考え方でもそうではないか。
「無限からいくら割ったとしても、答えは、無限でしかない」
というわけである。
それこそ、
「マトリョシカ人形」
あるいは、
「合わせ鏡」
のようなものではないか?
ということになるのである。
マトリョシカも、合わせ鏡も、同じように、どんどん小さくはなっていくが、こちらも、ゼロになることはない、そこで出てくるのは、
「限りなくゼロに近いもの」
ということであり、
どんどん大きくなるものは、無限に行き着くが、どんどん小さくなっていくものは、決してゼロになることはなく、出てくるのが、
「限りなくゼロに近い」
という発想である。
このフレーム問題も、逆の発想から、
「限りなくゼロに近いもの」
というものを考えた時、
「この二つを考え合わせれば、
「ひょっとすると、フレーム問題を解決に導くことができるかも知れない」
と思っている人がいる。
実は、クロカワのいる、この世界だからできる発想であり、元々の世界では、発想としてはありえないということであった。
実はこの世界とクロカワの住んでいる世界とでは、この一点が違うのだ。
この違いがあることから、
「ちょっとした違いが、無限の距離を生んでいる。その無限の距離があることで、お互いに見ることができない世界」
といえるだろう。
しかし、その世界を、誰もが知っている世界だったりする。
そう、クロカワのいるこの世界は、
「そんな夢の世界」
だったのだ。
この世界を皆夢の世界と呼び、
「決して自分の意識としてしか存在していない世界だ」
と思っているのだが、果たしてそうなのだろうか?
夢の世界というのは、ある意味、自分たちの発想からかけ離れていることで、眠っているという瞬間でしか理解できていないので、夢というのは、
「眠っている時にしか見ることのできないものだ」
といえるだろう。
だから、こっちの世界で常識、当たり前のことだとして考えられていることは、ことごとく違うものに感じるということだ。
夢の中というのは、まず、
「時間の感覚」
というものが曖昧だったりする。
「時系列の順番」
そして、
「子供の頃のことをあっという間に見てしまう」
という感覚。
特に、
「夢というのは、目が覚める寸前の数秒間で見る」
と言われている。
それを、人間が持っている、潜在意識というものが、自分の眠っている時の意識と結びつくことで、
「自分の意識の中にあるものであれば、すべて、意識していることを、不思議な夢の世界に、誘うことができるのではないか?」
と考えることであった。
そんなことを考えていると、
「フレーム問題」
というものを人間が意識せずに解消できているのは、
「夢の世界を知っているからであろう」
ということだ。
動物にしても、
「本能からではないか?」
と思っていたが、この夢という説もあながちあり得ることだと思った。
「動物も夢を見る」
と言われているので、まさにその通りなのだろう。
クルカワは、友達に小説家がいて、その人の小説をよく読んでいた。
その人はSF作家で、もちろん、クロカワはもちろん、その作家も、
「自分が書いている小説は、フィクションだ」
と信じて疑わないし、その通りであった。
しかし、それはあくまでも、
「知らないで書いている」
ということであり、その話がまったくのフィクションではないということを知る由もなかった。
というのは、その友達の小説で、パラレルワールドが描かれていて、自分たちと同じ人間が存在しているという話であった。
しかも、その国は、
「自分たちと同じで、平和憲法を盾に、諸外国とは戦争をせずに、その代わり、守ってくれる国がある」
という設定まで同じだった。
だが、その国は、他の国から狙われているわけではなく、
「狙われているかのような、世界で生きている」
ということであった。
その国は、
「過去にも侵略されそうになっていて、実際に、他国から攻められたこともあったが、偶然なのか必然なのか、自然現象が助けてくれた」
という国であった。
だから、その国は、かの戦争でも、
「必ず、神のご加護があるんだ」
ということで、
「決して、相手に降伏などしない」
という心構えだった人が多かった。
もちろん、政治家にも、軍部にも、その裏で暗躍している人にとっては、
「この国を見捨てることはできない」
という考えから、本当に、国土が焦土となっても、戦争継続をしておいたことだろう。
しかも、国民も、そういう神格化した国という教育を受けてきたことで、戦争継続を望んでいた人も多いことだろう。
実際に、この国においても、
「かの戦争中」
は、
「治安維持法」
であったり、
「国家総動員法」
などという、平和な世界では考えられないような法律があったり、さらには、戦争中に、
「反戦」
であったり、
「宗教の布教」
などのことがあると、特高警察がやってきて、
「非国民」
ということで、
「拷問を受ける」
ということが、当たり前として言われる時代だったりした。
だが、
「本当にそんな拷問などが行われたのだろうか・」
確かに、治安維持法などという法律では、
「これからの、軍国主義下において、国家総動員でことに当たらないといけない時代に、それを妨げる思想であったり、他国からの諜報活動として、それに先導された、国家の主義とは違う連中が主導する国家体制の団体は、叩き潰さないといけない」
という状態というのも、当時の世界大戦前夜としては、
「当たり前にあることだ」
といってもいいだろう。
だが、日本は、それまでの教育として、
というよりも、
「教育というものが始まってからというのは、基本的に、まったく変わっていない」
といってもいい。
元々、徳川時代には、鎖国をしていて、その時代から、開国によって、
「国の体制をどうすればいいのか?」
ということを考え、
「尊王攘夷」
から、
「尊王倒幕」
へと動き、そこから先出来上がった。明治政府によって、諸外国の文化に触れ、
「殖産興業」
「富国強兵」
というものをスローガンに、大きくなっていったのだ。
その目的というのが、開国の際に、欧米列強と結ばされた、
「不平等条約」
の撤廃であった。
日本という国は、その不平等条約のせいで、
「植民地化」
は免れたが、それでも、
「劣等国」
というイメージはまだまだあり、
「アジアの小国」
として見られていたのだ。
それでも、
「日清戦争」
「日露戦争」
を経験することで、日本も、世界の大国に仲間入りすることで、
「世界を敵に回してしまった」
とも言えなくもない。
特に、昭和初期の、
「世界恐慌」
の時、アメリカなどの強国は、自分たちだけで、
「ブロック経済」
というものを築き、日本をはじめとする、ドイツ、イタリアなどの、国は、そこから弾き出されたことも、
「世界大戦の勃発」
ということに、拍車がかかったのであった。
日本は、結局、
「世界の情勢に大いなる影響を与えているという意味で、スケープゴートを握っているといってもいいのだろうが、どうしても、大国、強国というところにいたることはできないのである」
というのだ。
そんなことを考えていると、戦後の日本が、
「アメリカの属国」
になってしまったというのも分からなくもないことで、それを、しかも、アメリカの教育によって、
「日本はアメリカの核の傘に守られている」
ということを、正当化させられているに過ぎなかったのだ。
だから、今のこの国は、
「他国から侵略されることは決してない」
と思い込まされている。
戦争前は、その侵略を受けやすいのが日本という国で、
「アジアを統合して守らなければ、欧米列強に適うわけはない」
と思っていた。
だから、戦争をしてでも、
「アジアの開放」
というのが、その後においての、
「世界地図の中から、日本というものが、消滅しかねない」
という危機感を抱いていたことだろう。
「かの戦争の前と後とで、ここまで国に対しての考えが違うものか?」
と言えるだろう。
今であれば、
「愛国心」
というものは、
「一体どこに行ってしまったのだろう?」
ということになるのは、必定であろう。
やはりそれは、
「国を自分たちで守ろう」
という気概があるかないかというところの問題であろう。
それまでは、軍隊が存在し、国防ということを、自国だけではあできないので、これまでに侵略された東アジアの国を開放し、自分たちで独自の、
「共栄圏」
を造り、それを、
「防衛線」
とする考えは、十分にありであろう。
それを考えると、
「自分たちが受けてきた教育が、いかに押し付けられたものであったのか?」
ということが分かるというものだ。
確かに、連合国側から考えれば、
「アジアに軍国主義が蔓延るのは、厄介なことだ」
といえるだろう。
そもそも、戦後は、
「社会主義との二極化」
ということで、世界が二分されるということを分かっていたのだから、
「アジアの軍国化」
は許せないことだっただろう。
特に日本の軍国化だけは、阻止する必要があるので、絶対に、再軍備ができないような法律を作る必要があったのだ。
だから、日本は、世界で起こってきた。
「ソ連とアメリカによる、代理戦争と呼ばれたものには、直接的に関与はできないが、日本本土に置かれたアメリカ軍基地から、空母や戦艦が出撃していく」
ということであった。
とにかく、アメリカは、
「日本という国を、利用するだけ利用しよう」
ということであった。
「戦争は我々がやるのだから、その代わり、日本は、全面的に協力するのは当たり前のことだ」
ということで、日本の高度経済成長は、アメリカ資本にとっては脅威であったが、国としては、
「金を出させればいいんだ」
ということで、むしろありがたいことでもあった。
「戦争に使う資金を日本に賄わせる」
ということを考えると、同盟国として、守るのは当たり前のことである。
だから、他国から見れば、
「日本はアメリカの属国」
と見えることだろう。
「国土の安全を守ってやる代わりに、こっちのいうことは、まるで奴隷のように守ってもらおう」
という状態を、
「まるで封建主義のようではないか?」
と見て取る人もいるだろう。
そう、封建制度というのは、
「ご恩と奉公」
ということで成り立っている。それを思えば、日本とアメリカの関係は、まさに、封建制度の関係のようだ。
ということになると、アメリカが、
「領主」
ということになり、日本は、
「御家人や、土地を貰った農民」
と言えるだろう。
そこでは、きちっとした、
「主従関係」
というものが存在している。
そうでないと、封建制度の関係は、うまくいかなくなり、結局、
「群雄割拠の戦国時代」
に突入することになるのであった。
戦国時代に突入しそうになっても、相手に武器がなければ、それもかなわない。
あったとしても、
「最低限の国防のための戦力」
程度であれば、領主にとっては、痛くもかゆくもない。
それが、日本における天下泰平と言われた、
「徳川時代だった」
と言えるだろう。
「徳川時代というのは、何といっても、260年という長きにわたって、戦乱のなかった時代」
である。
平安時代にも、戦乱のない時代ではあったが。それは、
「貴族政治」
だった時代であり、まだ武士のような政権のない時代だったのだ。
それを思えば、徳川時代のような武家政治の中では、
「奇跡の時代だった」
と言えるのではないだろうか?
やはり、それだけの法律であったり、確固たる封建制度の理想が、育まれていたからではないだろうか。
もちろん、
「自由はなく、領主が強いという、絶対政権という時代だっただけに、うまく行っている時代は、政治的には、申し分のない時代だったということであろう」
そんな時代は、鎖国の時代だった。
アメリカも、結構日本のことを勉強しているようで、こちらの世界のアメリカが、日本をどのように扱うかということを考えていると、
「日本に、鎖国政策を打ちたてさせよう」
ということも考えていたようだ。
特に、
「日本には、貿易を行うことで、富を得るというやり方は、今に始まったことではなく、今までの国主というのが、そうやって伸びてきた」
ということが分かっている。
「完全な鎖国でなくとも、ある程度、貿易や、貿易ができる国を制限することで、日本が、下克上を起こすこともなく、他国の影響を受けることもないと考えると、これほど都合のいいことはない」
ということである。
それだけ日本という国は、
「アメリカの属国」
ということになっていた。
その発想を、アメリカも世界の先進国に印象付けてきたことで、
「日本を攻撃する」
という暴挙には出ることはできないと思っていて、さらには、
「侵略」
などできるはずもないと考えていたに違いない。
そんな日本が、
「属国になっている」
ということの本当の意味を知らないのは、
「当の本人である日本人しかいないだろう」
ということであった。
まさか、日本人は、政府がアメリカの国債を買わされている」
ということを知らないだろう。
知っているとすれば、さすがに、国民も黙っていない。これはある意味、日本政府の隠しておきたいことであったが、
「アメリカにとって、日本に国債を買わせるなどということは、朝飯前のことだった」
日本政府も、
「自分たちがアメリカの属国なのだ」
ということを分かっているからだ。
政治家というのは、
「従うのが、日本であれ、アメリカであれ、自分の立場が安泰であれば、それでいいのだ」
ということであった。
だから、この世界の日本の政治家というのは、
「一番愛国心がないのは誰か?」
と聞かれると、
「それは、政治家に他ならない」
ということであろう。
他の国民も確かに愛国心はない。
しかし、それは、
「国家間の事情というものを、ほとんど教育されていないし、マスゴミなどの情報も、あくまでも、政府によって、制限されている」
というものだった。
正直、憲法で定められている、
「自由、権利」
というものは、あくまでも、宗主国であるアメリカに都合よくできているというだけのことである。
しかも、
「平和憲法」
ということで、頑なに、平和主義のため、今は少し柔らかくなったが、自衛隊という軍隊が、
「戦争放棄」
の名の下で行動しているというのは、あくまでも、
「宗主国のアメリカのためのことだ」
ということに他ならないのだ。
そんな日本国にとっての最大の敵は、
「アメリカの敵だ」
といってもいいだろう。
そういう意味では、戦後において、完全なる敵というのは、アメリカだけではない、他の民主国家すべての敵であった、
「ソ連を中心とした社会主義国」
ということであった。
それらの国は、どんどん社会主義圏というものを増やしていく。
それを必死になって阻止しようということで起こった戦争が、
「ベトナム戦争」
だったのだ。
ソ連が、東南アジアで急速な社会主義国家圏を増やそうとした理由は、
「戦時中は、日本の支配下にあった国が、日本が破れることで、元々の宗主国が入ってくると、今度は、独立を目指して。ゲリラ戦などを中心とした独立戦争を引き起こし、どの独立を勝ち取っていった」
のである。
そんな独立を勝ち取った国は、統治も受けず、自分たちのかつての、搾取されない国になっていったのである。
それが、東南アジアを中心とした国々で、ベトナムもその中に入っていた。
そもそもベトナムというところは、インドシナと呼ばれていて、植民地時代には、
「フランス領」
だったのだ。
ドイツと同盟を結んでいた日本は、ドイツがフランスを席巻した時、フランス政府は国外に亡命し、ある意味、
「無血開城」
という形で、パリを占拠した。
政府がいなくなったので、ナチスは、そこに、
「ドイツの傀儡政権」
である、
「ヴィシー政権」
というものが存在したのだが、フランス政府とはいえ、基本的に、同盟国の傀儡政権ということで、日本が、
「北部仏印に侵攻する」
ということを、容認するのは当たり前のことだった。
だから、日本は、北部仏印に侵攻するのは、あくまでも、
「宗主国政府の許可を得て」
ということになり、この時は、国際連盟は抗議をすることはできても、国連としての制裁活動はできなかった。
だから、
「米英蘭中」
の四か国による、
「ABCD包囲網」
という形での経済制裁しかできなかったのだ。
それらの国は、東南アジアに権益を持っているということで、共通した正妻目的があったからなのだ。
しかも、それらの植民地にとって、
「いつ日本が攻めてくるか分からない状況で、宗主国に従うしかなかった」
というところであろう。
しかし、実際に日本が侵攻してくると、その大義名分が、
「大東亜共栄圏の建設」
ということであれば、
「うまくいけば、宗主国から独立できるかも知れない」
と考える。
そもそも、日本は、今までに格上の、
「清国」
であったり、
「ロシア」
などという大国に対して勝利しているではないか。
満州に展開する、
「関東軍」
というのも、天下無敵ということで、
「日本がいう、大東亜共栄圏という理想が叶えば、東南アジアは、欧米列強から侵略を受けることはなくなり、真の独立を勝ち取ることができるかも知れない」
ということで、
「日本を利用しよう」
と考えたところも少なくないだろう。
しかも、日本が侵攻してきた最初は、国民のほとんどは歓喜の声を挙げ、日本軍というものを、
「解放軍」
として受け入れたのだ。
政府がその気持ちに後押しされるというのも、無理もないことで、そういう意味で、
「日本における、最初の統治」
というのは、実に、うまく行ったといってもいいだろう。
しかし、そのうちに、その国家を、
「日本化しよう」
と考えるようになった。
いや、それが最初からの狙いで、それこそ、
「日本による植民地化」
ということに他ならない。
「自分たちが遊びたいのに、そいつらが居座っているから遊べない」
ということで、無理矢理に追い出して、そこにいた連中を開放したふりをして、自分たちに協力させようという考えなのであろう。
つまり、日本軍は、
「解放軍」
だったはずなのに、いつの間にか、
「占領軍」
となり、日本という国は、
「宗主国」
ということになっただけで、立場はまったく変わらなく、宗主国が変わっただけだ。
ということになるのだ。
かといって、日本と、それまでの宗主国との違いが歴然としていた。
欧州のかつての宗主国というのは、そこで採れる資源などだけを目的にしているので、国土をほとんど何もしなかったが、日本という国は、
まがりなりにも、
「大東亜共栄圏の建設」
という名目、さらには、
「共通の敵、欧米列強」
ということもあり、進んで、侵攻していった国のインフラを整備したのだ。
「占領地の日本化」
というのも、
「大東亜共栄圏の建設」
という意味で必要なことだったと考えれば、それはそれで悪くはないことだといえるのではないだろうか?
実際の植民地とされた方からすれば気に入らないであろうが、
「欧米列強よりはマシだ」
と思っていたことは間違いないだろう。
それを思うと、
「日本がやったことは、戦後の独立戦争においても、役に立った」
と言えるだろう。
宗主国が、再度支配下に納めようとしても、抵抗することができたのも、日本が置いていった武器であったり、現存している旧日本軍の兵士たちが、独立運動に参加したのである。
日本兵から、軍事訓練を受け、武器も揃っていて、やつらの知らないインフラ整備が行われているのだから、相手が苦戦するのは当たり前で、っそんな中でうまく講和に持ち込み、
「独立を勝ち取る」
という形にできたのだ。
それを考えると、
「日本がやってきた占領政策は、間違っていなかった」
といってもいいだろう。
今から思えば、あのまま大東亜共栄圏というものができていれば、
「世界地図」
というものは、まったく違った形になっていたのかも知れない。
と言えるだろう。
何といっても、東アジアのほとんどの国が、独立戦争を行って、独立を勝ち取ってきたのだ。
確かに、欧米列強は、それまでの世界大戦によって疲弊し、ボロボロの状態だったことで、植民地の運営が、
「国家の復興」
ということに不可欠だったということである。
しかし、相手も、
「そう何度も、繰り返し植民地化されることにいい加減腹が立つことだろう」
植民地時代と言われた時は、欧米に搾取され、世界大戦となると、今度は、日本が、
「アジアを開放する」
といって、植民地化したと思うと、今度は、その日本が負けたことで、元々の宗主国が、何事もなかったかのように、自国の復興のために利用されるのは、もうまっぴらごめんだといってもいいだろう。
ここまでくると、自ずと、独立戦争の機運は高まってきて、隣国も同じように、独立戦争を行うということで、一斉に宗主国に襲い掛かれば、いくら相手がかつての宗主国であったとしても、勝ち目はないだろう。
東南アジアの国々の独立派どんどん進み、最初の朝鮮半島から始まって、
「インドシナ、マレー、シンガポール、ビルマ、インド、インドネシア」
などという東南アジア系の国が独立していく。
アフリカも独立を勝ち取り、アラブでは、ロレンスの時代から続く協力体制が壊れ、イギリスによる、
「二枚舌外交」
が露呈し、
「アラブとユダヤの構想に発展し、今まだ解決していない、中東問題として、大いなる問題が、残っている」
ということであった。
そんな時代におけるアジアも、独立国家ができてくると、そこに対して、社会主義国が食指を延ばしてくるのは、ある意味、無理もないことだったといえるだろう。
そこから起こったのが、
「ベトナム戦争」
だったのだ。
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