第2話 民主主義と社会主義
確かに、戦争は日本の敗戦で終わったが、ある意味、
「運がよかった」
というところもあるだろう。
もちろん、戦争中に、無差別爆撃などでたくさんの人が死んでしまったり、または、戦闘員と一緒に、
「玉砕して果てる」
ということになったりと、数々の悲劇が繰り返されてきた。
特攻隊などというものがあったりと、無数の悲劇が繰り返されるのが、戦争だといっても過言ではない。
そんな中で、敗戦を迎え、それまでの軍部や財閥が解体され、
「立憲君主国」
として、主権が天皇にあったものを、占領軍は、民主化を進めたのだ。
新しい日本の柱として言われることは、
「平和主義と、国民主権」
という意味での、民主化というものを進めることであった。
しかし、それまでの日本が、
「君主は天皇であり、天皇のために死ぬことは、美しいことだ」
という教育を受けてきたのだから、いきなり、主義主張が変わったとすれば、そこには混乱しかまっていないということであろう。
さらに、敗戦国が体制を解体することで、それまでの帝国主義であったり、ファシストというような、一種の独裁主義のようなものも亡くなっていった。
世界では、
「民主主義」
あるいは、
「資本主義体制」
と、
「社会主義」
あるいは、
「共産主義」
という二つの陣営に分かれることになるのだった。
戦時中は、ソ連が連合国だったので、争いはなかったが、実際に戦前であれば、資本主義はあからさまに、共産主義を敵対視していて、日本えいう、
「治安維持法」
などというもので、政治体制を国家が取り締まるという状態だったりしたことで、基本的に、
「社会主義、共産主義は敵だ」
ということになっていたのだ。
だから、戦前などに、多国籍軍を組織して、
「シベリア出兵」
などということも起こったのだった。
第二次世界大戦の終盤で、それまでドイツと戦争をしていたソ連がいきなり、極東に平易を集めて、
「満州に攻めこむ」
ということになった。
しかし、日本は、
「まさか、ソ連が国境を越えてせめてくるとは思っていなかった」
であろう。
もちろん、
「考えが甘い」
と言われれば、それまでだが、そもそも、ソ連は、日本と、
「不可侵条約」
を結んでいて、ソ連はそれを一方的に破って、攻めてきたのだった。
元々日本は、
「この戦争も何とかして終わらせなければ」
と、やっと事の重大さに気付き、ソ連に仲介を頼もうとしていたのだった。
しかし、実際には、そのだいぶ前の、
「カイロ会談」
だったか、
「ヤルタ会談」
であったか、アメリカは、ソ連に、
「しかるべき時期がくれば、日本に攻めこんでほしい」
と依頼をしていたのだ。
もちろん、ソ連が断るわけでゃない。
「時期ここに至れりとばかりに、今まで日本に取られていた領土を回復しよう」
と思ったとしても、それはそれで無理もないことであろう。
実際に、ソ連が満州国境から攻め込んできたということを聞いた時、政府首脳はどう感じただろうか?
戦争は、
「2発の原爆投下で終わった」
と思っている人が多いだろうが、実際には、
「ソ連の参戦」
で決まったといってもいい。
なぜなら、和平工作がならなかったとしても、
「不可侵条約を結んでいるわけなので、攻めてくるということはないだろう」
と、思っていたことだろう。
しかし、考えてみれば、
「不可侵条約」
など、片方が破れば、簡単に破れるということは、
「ヒトラーが、ソ連と結んだ不可侵条約を破り、独ソ戦に持ち込んだことで分かる」
というものであろう。
それを思うと、
「日本だって、どうして、ソ連をそこまで信じることができたというのだろう?」
というのは、分かり切ったことではないだろうか?
だから、日本が、この戦争を辞める、最大のきっかけは、
「原爆投下」
ではなく、
「ソ連の参戦だった」
といえるだろう。
何といっても、満州に攻めてきたのであれば、防ぎようがない。
かつては、
「天下無敵の関東軍」
と呼ばれていたが、その猛者たちも、すべて、南方戦線にいかされているのだから、関東軍が弱小化するのも当たり前というものだ。
ソ連が攻めてきた時、居留民を見捨てて逃げ出した兵も結構いたようなことを聞いている。
特にその混乱で、虐殺なども、かなり多かった。
「通化事件」
という虐殺事件もあった。
これは、ソ連軍の赤軍というよりも、
「中国の八路軍によるものだった」
ということであった。
結局そのまま、日本兵や、居留民は、シベリアに連れていかれての、強制労働をさせられたという理不尽なことも起こったのだ。
日本は負けたのだから、それに対して、何も言えない。日本が戦線を広げすぎたために、各地に、居留民が残ったり、兵士が残ったりしていた、彼らが復員してくると、日本国土のほとんどは、焦土と化しているので、
「生きる望みを失った」
ということで、自殺する人、自殺しないまでも、餓死してしまう人などが、後を絶えなかったことだろう。
それを思うと、
「あの時に生き残るには、犯罪を犯すくらいのことがなければ生き残れなかったことだろう」
というものだ。
闇市であったり、闇物資のブローカーなどでもない限り、生き残っていけなかったことだろう。
ハイパーインフレのために、お金がいくらあってもどうしようもない、
それが、敗戦後の混乱期だったのだ。
「物資が圧倒的に不足している」
だから、いくらお金があっても、売ってくれないということだ。
札束一握りあっても、一切れのパンも買えない。
などということがあったりしたくらいだ。
だから、比較的爆撃を免れた、
「田舎の農家」
などに、自分たちの家にある、家宝のようなものであったり、着物のようなものを持って、
「物々交換」
にて、物資を譲ってもらう。
ということをしに出掛けていたのだ。
だから、列車は、人が溢れんばかりになっていて、手すりにつかまりながら、落っこちそうな状態のまま、列車で田舎に向かうという人もいたくらいだ。
しかし、田舎に行っても、なかなか売ってくれなかったりする。
「これは、高級な着物で」
といっても。
「そんなもの、いっぱい皆が持ってくるからね。それっぽっちだったら、少しだけになっちゃうよ」
と言われるのがオチだったりした。
そうなると、
「闇物資」
に頼るしかない。
ということになる。
闇物資は、当局から、
「買ってはいけない」
と言われているようだが。そんなことを言っていては、
「死を待つばかり」
ということになるだろう。
実際に、中には、
「当局のいうことを守る」
ということで、闇物資には一切の手をつけず、結果、栄養失調で死んでしまったということもあったりしたのだ。
そのうちに、
「インフレの状態を少しでも緩和しよう」
ということで、討たれた政策が、
「新円の切り替え」
というものだった。
新円に切り替えたことで、今までの紙幣は紙屑になり、しかも、いくらたくさん持っていたとしても、新円に切り替えられるのは、上限がある。そうなると、
「お金を持っていれば持っていただけ、損だった」
ということになるのだ。
それが戦後の世界だったが、それでも、民主主義としての体裁は、次第に整っていき、
「新憲法」
の下で、新しい法律や、社会体制が築かれていった。
民主主義という、多数決で決議し、基本、
「自由な世界」
というものが、蔓延ることになる。
経済も、自由競争になることで、活性化されていて、力のある企業が勝ち残るという、今の世界の基礎がその時に出来上がっていたといっておいいだろう。
ただ、そんな民主主義にも、大きな問題があった。
「自由競争であるため、貧富の差が激しくなってくる」
ということ、
「多数決なので、少数派意見がなかなか通らない」
ということで、どうしても、保守的な考えが残ってしまうということになるのだ。
そのため、賄賂が横行したりすることで、
「民主主義にも限界がある」
と言われるようになったのだ。
民主主義というと、
「格差社会の増長」
「競争によって、倒産が増える」
「賄賂などの悪徳なものが横行する」
などということで、
「民主主義には、限界がある」
とされてきた。
そこで産まれてきたのが、
「マルクス」
を中心とした、社会主義、共産主義の考え方だった。
社会主義というのは、基本的に、
「すべて平等」
ということである。
そのため、労働者であったり、農民などが支持するのだ。
平等ということは、
「皆に、均等に報酬を与える」
ということで、
「そのために、企業の管理も、政府がやる」
という考え方である。
つまり、会社のすべてが、
「国営」
ということになり、自由競争というものは存在しない。
それによって、各社社会を失くすという考え方であった。
「資本主義、民主主義に対する対抗策」
ということであれば、筋は通っているが、これによって生まれるデメリットの方が、かなり激しいともいえるだろう。
「皆給料が同じということは、やってもやらなくても、給料は一緒。つまり、怠けものが増えるということだ」
さらに、
「怠け者が増えると、製品の改良などという創意工夫をしようとする人が少ないだろう」
といえるのではないか、
「一生懸命にやっても、同じ給料であれば、頑張るだけバカバカしい」
と言えるだろう。
さらには、
「すべてが国営となり、競争がなくなると、新製品開発が進まず、それでもやらせようとすると、国家権力による抑圧が憚るということになる」
と言える。
そうなると、社会主義というのは、自由競争で生まれる、
「切磋琢磨が生まれることはなく、要領のいいものが楽をできるということであろうか?」
と考えると、
「社会主義にも、結局、限界というものがあり、それは、民主主義よりも、ひどい結果をもたらす」
ということになる。
社会主義のように、国家が強いと、政府が国家を動かすということで、国家や政府に絶対的な独裁状態になるということでもある。
だから、ソ連のスターリンや、中華人民共和国の毛沢東のような、数百万という人民を、
「粛清する」
ということになるのだ。
「いうことを聞かない連中を、暗殺する」
というようなもので、粛清によって、国力が落ちるということも実際にはあったりする。
ソ連分が、一時期弱かったのは、それまでにスターリンが、
「めっちゃやたらに、粛清したからだ」
と言われるのだった。
そんな、国家において、粛清というのは、やはり、
「国家体制が、独裁国家になっている」
ということであろうか。
「社会主義国は、どうしても、政府が独裁であるために、どうしても、国家元首が狙われているという錯覚に陥る」
つまりは、粛清しなければ、国家元首の疑心暗鬼が消えず、どうすることもできないというわけだ。
そういえば、以前に読んだ本で、面白い話があった。
それは、ミステリーのようでも、SFのようでも、ホラーのようでもあった。
ミステリーとしては、最初に出てきたのが、
「政治体制」
の話からだった。
政治体制としては、いくつかの政治体制が、まるで、
「バトルロイヤル」
をしているような感じで、その体制は、まるで、二十世紀前半の、
「世界大戦」
の時代を描いているかのようだった。
時代関係なく存在しているのが、
「民主主義」であった。
そこに、全体主義ともいうべき、
「ファシスト主義」
と言われる、独裁主義の雰囲気があり、イタリアのように、
「かつての、ローマ帝国の華やかさを取り戻そう」
という思想、
あるいは、ナチスドイツのように、
「ドイツ民族のみが、世界の支配者たるべき」
という、極端な民族主義であったりする。
日本もどちらかというと、
「ナチスドイツ」
に近かったかも知れない。
満州国建国のスローガンとして、
「五族共和」
というようなスローガンがあった。
「満州人、漢民族、モンゴル民族、朝鮮人、そして日本人」
による、五つの民族による、
「共和」
ということである。
しかし、実際の満州国は、あくまでも、優秀なのは、日本人であり、他の民族は、日本人に仕えるという考えである。
しかし、それを表に出してしまうと、
「大東亜戦争」
のスローガンが壊れてしまう。
「東アジアから、欧米列強を負い出して、アジアに、巨大な大東亜による共栄圏を獲得する」
というのが、
「大東亜戦争」
の建前だ。
そそもそ、
「太平洋戦争」
という呼称もおかしい。
戦争は太平洋だけでなく、インドシナ、マレー、インドネシア、インド、ビルマ、タイ、カンボジアなどの東アジアであったり、何といっても、中国があるではないか?
極東国際軍事裁判において、その範囲を、
「満州事変建国のあたりにさかのぼって」
ということであるがら、1931年くらいから、1945までの15年、つまり、
「15年戦争」
と言われるあたりからであれば、満州も、戦場となるだろう。
そうなると、言えるとすれば、ハワイや、アリューシャン列島まで、戦線が拡大していることを考えると、
「環太平洋戦争」
といってもいいのではないだろうか?
でなければ、せめて、
「アジア太平洋戦争」
というべきであり、アメリカなどの、連合国の主張も、どこか辻褄が合っていない。
要するに、連合国は、
「ドイツや日本を悪者にして、本当の元になった事情を、隠し通そうとしているのだろう」
要するに、
「勝てば官軍」
なのである。
理想としている、
「民主主義」
という観念は立派なものであるが、実際に起こっていることとしては、
「ファシズム」
のようなものであり、その国も戦争に突入すると、国民に自由はなく、君主のために、
「死も辞さない」
ということであった。
日本の場合には、
「天皇」
という絶対的な存在があったが、その国には、大総統などものがいたのだ。
大統領よりも、数段権力は上であり、しかも、戦時であれば、その支配力は絶対だった。
日本においても、
「宣戦布告の詔」
というものの内容としては、まず、定型文のようなものがあり、その後で、国民や軍は、戦争完遂のために、最大の努力をするようなことを、国民に向けて書かれている。
この場合は、国民という言葉を使わずに、
「臣民」
という言葉を使っている。
「臣民」
というのは、
「普段は、国民として、憲法で守られた自由が保障されているが、戦争や災害などの、有事の際は、ある程度、自由が制限され、目的完遂のために、身を犠牲にするという場合の民のことをいうのだ」
ということであった。
つまり、立憲君主国というのは、
「普段は民主主義なのだが、有事となると、ある程度の自由が制限される」
たとえば、
「言論の自由」
「信仰の自由」
などがそうであろう。
「情報統制や、宗教団体に対しての弾圧のようなものがあっても仕方がない」
ということだ。
「戦争というのは、国家臣民が一丸とならないと、相手には勝てない」
ということであった。
元来、志願制であった
「軍への入隊」
というのも、
「戦争が厳しくなると、それまでは、免除されていた。大学生なども、強制入隊という形いなり、学徒出陣などということになるのだった」
さらに、戦局が悪くなり、追い詰められてくると、本来なら、
「降伏」
そればいいところを、徹底抗戦ということになると、今度は、
「命を軽んじる」
ということになる。
「カミカゼ特攻隊」
であったり、
「人間魚雷回天」
などというものであったり、
「戦陣訓」
にあるように、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
という言葉に沿うと、結果として出てくるのが、居留民をも巻き込んだ、
「全員死亡」
を前提とした、
「玉砕戦法」
であった。
国家として、どのように当たればいいのか?
実は情報統制と、
「天皇大権」
というものにより、国民に、戦争状況は正しく伝わっていない。
特にひどいのは、
「天皇大権」
という問題があったことが、戦争を泥沼に嵌めてしまったのだ。
「天皇大権」
というのは、大日本帝国憲法の、
「天皇」
の項の中にあるもので、
「統帥権」
と呼ばれるものだ。
そこには、
「天皇は、陸海軍を統帥す」
と書かれている。
つまり、
「天皇は、軍隊の長」
ということである。
もっといえば、
「軍隊は、天皇直轄であり。政府であろうとも、軍を掌握することはできない」
ということである。
陸軍であれば、
「参謀本部」。
海軍であれば、
「軍令部」
というものが存在し、そこが、戦争遂行を決断し、作戦なども、話し合われる、
戦時下においては、それぞれの参謀本部と軍令部が一緒になって、
「大本営」
というものを設立しているのだ。
つまり、
「大本営発表」
と呼ばれるものは、政府が出しているものではなく、軍が出しているものだ。
大本営というところは、作戦を立案したりするところなので、セキュリティもしっかいrしている。
もっといえば、
「戦争を始めるのは、天皇であるが、実際に外交交渉にて、戦争前夜に活躍するのは、政府である」
ということになる。
天皇は、そんな政府の意見を、
「御前会議」
という形で、政府会議で決まったことを上奏される。
そこで、戦争ということになれば、
「宣戦布告の詔」
が言い渡されるわけだが、この際、基本的に、
「天皇は政治に口を出してはいけない」
という、明治時代からの、慣習のようなものがあるのだが、それはきっと、
「軍に対して、絶対的な権力のある天皇が、政治にまで口出すようになると、いくら利権君主とはいえ、憲法の理念に関わることもあり、許されることではないのだろう」
実際に、かつて天皇が、直接政治に関わってしまったことで、内閣総辞職に追い込まれたこともあった。それが、
「田中義一内閣総辞職問題」
だったのだ。
当時、日本が権益のあった満州にて、軍閥の張作霖が乗った列車が、爆発し、張作霖は、爆死したということであったが、当時の首相であった、田中義一が、天皇に事情報告にいった時、
「首謀者には、確固たるバツを与えることになる」
と豪語していたのに、かなり経ってから、
「あの事件に関東軍は関与していない」
ということを報告したものだから、天皇の不信感を買った。
「お前のいうことはさっぱりわからん」
と言わせ、奥に引きこもってしまった。
側近に、
「やつのいうことは分からないので、自分は苛立っている」
ということを口にしたという話が、田中首相に伝わり、愕然とした首相は、1週間もしないうちに、
「田中内閣総辞職」
ということになった。
その時のことを昭和天皇は、かなり気にして、余計に政治には、
「関与しないようにしよう」
と感じるのであった。
だから、天皇が御前会議で発言したのも、一度きり、戦争遂行のための会議が行われていたが、すでに、沖縄も落ち、原爆投下、ソ連の参戦という状況においても、まだまだ徹底抗戦、
「一億火の玉だ」
などという宣伝文句のように、戦争遂行を真剣に考えている連中もいた。
そこで天皇は、
「自分はどうなってもいいから、日本民族の滅亡は避けなければいけない」
ということで、ポツダム宣言受諾の意思を伝えたのだ。
もっとも、これ以上の抵抗は、
「日本民族の滅亡」
というのは、誰が見ても明らかなことであった。
そんな戦争において、開戦時の首相である、東条英機は、すぐにジレンマに陥っていた。
戦争を始めたのは、天皇であり、戦争指導者ということであれば、他の国からみれば、首相ということになるだろう。
しかし、実際には、戦争指導どころか、
「政府の人間」
ということで、
「戦争の立案を行う軍部には、入り込めない」
のである。
元々陸軍出身の東条英機なので、
「陸軍軍人」
ということで知らされるべきなのだろうが、
「政府側の人間」
ということで、
「首相が、軍の作戦や、現状の勝ち負けなど、報告という形で上がってきてもいいはずであったりする」
これは、
「陸軍大臣と参謀総長を同時歴任できない」
ということになる。
これは、明文化されているわけではないが、慣習として、明治時代から受け継がれていることであった。
そのため、ジレンマに陥った東条は、苦肉の策として、天皇に上奏し、
「陸軍大臣と参謀総長の同時歴任」
というものをお願いするしかなかったのだ。
しかし、その頃には、
「戦争を止められない状況にある」
ということになっていた。
そんな状況において、戦局は、完全に連合軍側であった。
そんな状況において、
「戦闘が起これば、日本はかなりの被害を出し、撤退させられるのであった」
しかし、戦争によう戦果報告は、大本営であり、
「大本営発表」
なのだ。
つまりは、
「大本営発表」
というものが、いかにいい加減なものか、そんなことを知らない国民は、
「情報統制:
によって、目くらましに遭い、下手をすれば、
「自分たちの直属の長」
である、天皇すら、この惨状を知らなかったのかも知れない。
天皇は、政府に対しては、一切何も言わないが、軍に対してであれば、徹底的にいうことができる。
だから、226事件においても、クーデターが陸軍青年将校だということで、彼らの鎮圧には消極的だった。
だから、軍は彼らに同情的であったが、実際には天皇の怒りを買っていたのだ。
そもそも、殺されたのが、
「天皇の相談役」
といってもいい連中ばかりだったのだ。
しかも、天皇はこのクーデターの裏には、
「皇道派と統制派による権力争い」
といってもいいだろう。
そのことを分かっている天皇は、反乱軍に同情的であった軍首脳に対し、怒りをあらわにした。
「やつらは、私の大切な相談役を、敵対勢力だということで暗殺した反乱軍だ」
ということにしたのだ。
そもそも、軍隊の部隊というのは、
「天皇の軍隊であり、天皇の命令がなければ、勝手に動かすことはできない。
それは、
「天皇大権に対する越権行為である」
ということになる。
いわゆる
「統帥権干犯」
であるのだ。
天皇から、
「彼らは反乱軍だ」
ということで、天皇は、鎮圧に勤めることにした。
「お前たちがしないのなら、私が自ら指揮を執る」
というくらいの勢いだったのだ。
つまり、それだけ、天皇の力というのは、偉大なものであり。いかにも、
「天皇による軍に対しての権力は絶対なのだ」
ということである。
そんな226事件というものに象徴されるように、天皇は、軍部の直属の長であり、
「天皇しか名乗れない、大元帥」
という力があるのだった。
それでも、最後は、
「国家のため、自分はどうなっても」
といって、無条件降伏を受け入れたのだ。
無条件降伏を受け入れるということは、その国も運命は、戦勝国にある。
まずは、
「戦争犯罪人の処罰」
ということになるのだが、大日本帝国憲法の下では、政府が戦争に参加できないのだから、政府関係者をこのままでは裁くことはできない。
となると、戦争の範囲をぐっと遡った形にて、
「満州事変」
から始まったということにすれば、政府に対しても責任を負わせることができるということであった。
だから、文官と呼ばれる人も裁かれることになったのだが、実際に逮捕される前に、自ら命を絶って人もかなりいる。実際の処刑者が、七人であったが、本来なら、もっと増えていたことは確かだろう。
今回の戦争において、戦争犯罪人を裁くという意味で、一番の問題は、もちろん、
「天皇の戦争責任」
ということであった。
もちろん、憲法上でも、実際の流れであっても、天皇の戦争責任を逃れることはできないのかも知れない。
しかし、天皇を処罰してしまうと国民感情は大変なことになる。
しかも、
「極東国際軍事裁判」
において、ほとんどの証人、いや、すべてといってもいい人たちの口から、
「天皇の戦争責任を口にする人」
など、誰もいなかったのである。
そんな中において、
当時の最高司令長官であった、マッカーサーは天皇にも謁見して、その人柄に、
「天皇には戦争責任がないということにすれば、スムーズな占領政策を打つことができる」
ということであった。
そして、新憲法には、天皇というものを明記し、
「天皇は国民の象徴」
ということで、その存在を記したのだ。
ということは、戦争犯罪を問うことはできないということで、
「日本を平和な民主国家に生まれ変わらせる必要があったのだ」
と言えるだろう。
日本という国は、地理的な条件からしても、
「アジアの玄関口」
として、重要拠点である。
かつて、ペリーが日本にたいして、
「砲艦外交」
を行い、無理やりにでも開国させた理由が、またここのクローズアップされたということなのだ。
アメリカにとって、日本という国は、少なくとも、太平洋上での、物資補給国であり、さらに、アジア政策の、
「前線基地」
ということでもあるのだ。
特に、大東亜戦争後というものは、一見世界は平和になっているようだが、問題は山積みだった。
それぞれの国の処遇など考えていれば、
「何日あっても、大変である」
ということになる。
日本は比較的、問題にはならなかった。
マッカーサーを総司令官にして、
「やるべきことを、一つ一つこなしていけばいい」
しかし、他国はそうもいかない。
特にポーランド問題だったり、朝鮮半島や、ベルリンはそうもいかない。
第二次大戦勃発時の、ポーランド侵攻によって、国土がそのまま横に移動する形になったポーランドの
「国土復旧」
というのも問題で、
「朝鮮半島における、社会主義国であるソ連と、民主主義の代表であるアメリカとが、一触即発だった」
と言ってもいいだろう。
しかも、
「国連からの、委任統治などという、統治のやり方がしっくりしていなかったという理由からもあって。終戦後5年もしないうちに、南北がそれぞれ、主義の違う国家が分裂という形で出来上がったのだ」
といえるだろう。
さらに、ベルリンは、市内の途中で、社会主義と民主主義が争う形になり、プロパガンダ合戦などで、絶えず相手をけん制していた。
ソ連による、電気供給のストップなどということをして、相手国に逃げ込む市民を止めるのに必死だった。
しかし、最後には、そう簡単にいかず、最終的に、
「ベルリンの壁」
というもので、強制的に、民族を分けてしまうということである。
その頃から、
「社会主義」
と、
「民主主義」
による争いが、各国で起きていたのだ。
「社会主義国というのは、本当に、民主主義の限界から作られた、究極の政治体制なのだろうか?」
ということであった。
日本も、当時、再軍備を考える一部の集団や、
「戦争は終わった」
ということで、自由を感じている人、それぞれなのだろう。
民主主義を押し付けてきたアメリカの属国になることを恐れている人と、とにかく、戦争はダメで、平和を求めるという人との間で、日米安保理を巡っての学生運動に発展したりしたものだが、結局、日本はアメリカの属国に成り下がってしまった。
結局、押し付けられた平和憲法の下、日本は、
「戦争のない時代」
というものを過ごすことはできたが、結局は、アメリカの言いなりになり、
「軍隊が出せなければ、金を出せ」
という世界からの圧力で、
「金でしか、その存在をアピールすることができなくなった」
ということである。
だから、今のソーリなどは、国民が困っているのに、外国に金をやるようなことをするのだ。
それも、仕方なくではなく、自分が、
「外国にいい顔をしたい」
という理由だけでである。
まぁ、しょうがないといえばしょうがない。
「国民が選んだソーリ」
だからだ。
いくら他に入れる政党がないということであるから、選挙に行かなあったり、与党に入れるのだから、
「こんな男しか、ソーリになれるやつがいないのか?」
と思うと情けなくなるが、そういうことだというのであれば、
「しょせん、これこそが民主主義」
というものだ。
「あの時代に-おける大日本帝国と比較して、果たして今の時代、いい時代だと本当に言えるのだろうか?」
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