裏表の日本

森本 晃次

第1話 政治主義

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年6月時点のものです。今回の話は、国防などの考えが含まれますが、あくまでも、話の内容は、フィクションであり、パラレルワールドの世界ですので、作者の意見とは必ずしも一致していないとお考えください。


 社会体制というのは、どの時代、どの世界においても、複数存在している。いくつかの体制がその世界には広がっていて、敵対していることもあれば、同盟を結んでいる場合もある。

 しかも、敵対しているからといって、ずっとそのままということもなく、利害関係によっては、結びつくこともあり、逆に、同盟を結んでいる国であっても、

「いつどうなるか分からない」

 ということで、国家は、人質を求めたりするのである。

 特に、日本の戦国時代などというと、同盟を結んでいても、裏切らない証拠に、まるで担保のごとく、

「人質を差し出す」

 ということを要求するということもあるではないか?

 社会生活の中において、

「人質」

 あるいは、

「政略結婚」

 などというのは、当たり前に行われていたりするというものだ。

 何しろ、日本の戦国時代といえば、正直、

「何でもありだ」

 と言える。

 たとえば、

「配下の者が、領主のいない間に、決起して、領土を奪い、自分がその土地の長となる」

 という、いわゆる、

「下克上」

 などというのがまかり通っているではないか。

 それも、本来なら、

「足利幕府」

 というものを中心とした、

「武家政治体制」

 というものが確立していたはずなのに、その幕府の力がなくなってくると、幕府から任命されたその土地の長の力も、

「名前だけ」

 というところもあったのかも知れない。

 三代将軍、足利義満が、必死になって足利幕府の力を決定的なものにしようと、最後には、

「帝の力」

 を欲したのも、そういうことであろう。

 幕府の、いや、

「将軍の力」

 といっても、絶対的なものだと言えないだろう。

 鎌倉時代のような、包茎制度に根を張った政治を行おうとしたが、本来なら、鎌倉幕府の興亡を勉強し、

「どうすれば、鎌倉幕府のようにならないか?」

 あるいは、

「鎌倉幕府のどこを見習えばいいのか?」

 ということも分かってくるというものである。

 鎌倉幕府の成立時というのは、

「絶対的カリスマとして、源氏の大将である、頼朝がいた」

 ということで、将軍の力は大きかったが、そもそも、頼朝というのが、粛清を行った。

 特に、子供には甘いが、御家人であれ、兄弟でも信じていなかったではないか。

 何と言っても、弟たち、

「義経」

「範頼」

 の二人を、

「義経は、勝手に朝廷から官位を授かった」

 ということ、

「範頼は、自分が鎌倉殿、つまり将軍になろうとした」

 ということで、二人とも、結果、死に追いやることになった。

 そして、その頼朝が、死んでしまうと、まだ未成年であった2代将軍頼家は、今度は、乳母である、

「比企一族の力が強くなることを恐れ、比企氏を謀略を持って、滅ぼしてしまい、頼家を、抹殺することになる」

 さらに、今度は、三代将軍実朝は、そもそも、まつりごとに興味がない。和歌ばかりを詠んで、将軍の器でないということから、北条氏が、力をもってきたのだが、今度は北条氏が、

「自分たちの権力をほしいままにしたい。それが、鎌倉の安定につながる」

 ということで、執権の北条義時は、相対する勢力をことごとく粛清していくのである。

「梶原景時」

「畠山重忠」

「父親である北条時政」

「和田義盛」

 と、有力御家人を片っ端から滅ぼして、北条の天下にしてしまったのである。

 それが鎌倉幕府の体制を決めることになった。

 しかし、そんな鎌倉幕府が100年ちょっとで滅びることになるのは、

「運が悪かった」

 というのもあっただろう。

 何と言っても、封建制度が、

「土地というものを、部下に保証し、その見返りに、武力と、納税という形でご奉公するのだ」

 という制度のことをいうのだ。

 しかも、

「歴史は繰り返す」

 という言葉があるが、

「歴史の教訓」

 というのは、あながち、無視できないものである。

 例えば、歴史に女性が介入して売ると、ロクなことはない。

 たとえば、持統天皇などのように、

「天武天皇の後継者には、誰もが認める、優秀な人物がいた」

 のであるが、天武天皇の皇后の持統天皇(当時はまだ、皇后であったが)、は、

「自分が生んだ息子が次の帝」

 ということで、策を弄して、その優秀な息子に、

「謀反の疑いあり」

 ということで、謀殺してしまった。

 という話もあった。

 また、日野富子と、淀君の場合は、よく似ている。

 日野富子である足利第8代将軍の義政に息子ができないということで、義政は、自分の弟に、将軍職を譲って、当時の管領を、その貢献にしたのだ。

 その時、間が悪いというか、富子が、男の子を産むことになる。

 当時の管領は、細川勝元で、江戸時代でいえば、老中のような感じだといってもいいかも知れない。

 だから、後ろに管領がいるということは、将軍といえども、簡単に手を出せないというわけだ。

 日野富子は、そこで、対立している

「山名持豊」

 に、

「息子の貢献人になってほしい」

 と頼み込んだ。

 もちろん、山名の方でも、それは願ったり叶ったりで、そうなることを読んでいたともいえるだろう。

 さらに、畠山氏の家督争いというのも絡んできて、

「将軍の後継者争い」

 だけではなく、各国の大名も、

「どちらかについて、京都を舞台に戦う」

 ということになったのだ。

 それを受けて、京都は、大混乱となり、1年もしないうちに、

「家も寺も燃えつきてしまう」

 というようなことになり、それが、11年も続くことになったのだ。

 これが、有名な、

「応仁の乱」

 というわけだ、

 応仁の乱の虚を突いて、本国を、守護大名が留守をしていることをいいことに、守護代であったり、国人と呼ばれる配下の連中が、謀反を起こし、次々に

「国主に取って変わる」

 ということになったのだ。

 それを、前述の、

「下克上」

 というのだ。

 そこから、

「戦国時代」

 というものが始まり、いわゆる、

「群雄割拠の時代」

 が始まるわけである。

 その時代に、秀吉の登場となるわけだが、その時、秀吉の側室であった、

「淀君」

 が、日野富子と同じような事件を引き起こすことになるのだ。

 こちらも、淀君から、強く言われてはいただろうが、

「後継者争い」

 というか、秀吉が、自分の息子に関白職を譲りたいということで、一度譲った甥の、秀次に、謀反の罪を着せて、秀次を追い落とすという、やり方とすれば、持統天皇の時と同じ方法であった。

 そんな時代から、最終的に徳川時代へと突入し、徳川時代が260年の天下泰平の時代を築いたのだが、実際には、財政不安の問題や、締め付けによる諸問題が山積みであったのは間違いない。

 そんな中、植民地時代を受けて、日本にも、外国からの食指が伸びることになってきた。

 それまでも、ロシアの船などが、外交にやってきたりしたが、

「我が国の交渉窓口は長崎なので、長崎に行ってくれ」

 ということで、ごまかしてきたが、それだけでうまくいかず、結局、アメリカの黒船の圧力に押され、アメリカと通商条約を結んだことから、諸外国とも、同じような条約を結ぶことになる。

 その交渉とは、いわゆる

「不平等条約」

 であり、日本は、決定的に不利な状態にあった。

 植民地となったわけではないが、独立国同士の条約としては、完全に上下関係ができているといっても過言ではないだろう。

 それが、結局、日本人には許しがたいということになり、世間では、

「幕府は弱腰だ」

 ということで、諸藩では、

「外国人打ち払い」

 ということで、

「攘夷」

 という考えが生まれたのだ。

 それは、幕府を見限って、

「尊王攘夷」

 というスローガンとなるのだが、当時の薩長は、それぞれ、外国から攻撃を受ける状態をつくってしまった。

 薩摩は、参勤交代の際に起こした、

「生麦事件」

 長州は、

「外国船打ち払い」

 というものの解禁とともに、関門海峡を行きかう船を、片っ端から砲撃したということなどで、その報復を受けることになり、外国の力を思い知ることになった。

 そこで、

「外国に逆らうことなど、とんでもないことだ」

 ということになった。

 そこで、薩長が考えたのが、

「幕府を倒して、天皇中心の時代を作り上げ、国家を守る」

 というような、

「尊王倒幕」

 という考えに移行していくのであった。

 もうすでに、幕府の力は、なきに等しかった。

 結局、政権を天皇に返還するという、

「大政奉還」

 が行われ、

「王政復古の大号令」

 と共に、明治新政府が立ち上がり、

「幕府を力でねじ伏せた」

 という、

「明治維新」

 となったのであった。

 いわゆる、

「幕末の動乱」

 から、軍事クーデターによっての革命で、新政府が樹立したといってもいいだろう。

 明治新政府のスローガンが、

「殖産興業」

「富国強兵」

 であった。

 殖産興業によって、産業を起こして、国を活性化させ、さらに、富国共栄で、国を富ませることと、海外からの侵略に備えて、自国軍を整備するということになるのだった。

 そのために、海外の技術をどんどん輸入して、ヨーロッパに追いつけ追い越せという状態だったのだ。

 その目的は言わずと知れた、

「不平等条約の解消」

 であり、

「他国からの侵略を食い止める」

 というものであった。

 そんな思いから、日本はいよいよ、対外戦争に突入することになる。

 元々、問題は、

「朝鮮半島」

 であった。

 明治政府のできた頃、西郷隆盛や、板垣退助などの意見として、

「征韓論」

 というのがあった。

「鎖国中の朝鮮を開国させ、朝鮮に侵攻する」

 というものであったが、

「今の日本には、他国を侵略するだけの力はない」

 ということで、大久保利通によって、西郷は失脚し、薩摩に帰ることになったのだ。

 要するに、

「殖産興業」

「富国強兵」

 というものの始まりである。

 だが、問題はロシアであった。

 ロシアの進出を阻止するという意味でも、朝鮮半島は、戦略的に重要な土地だった。

 当時の朝鮮は、鎖国中とはいえ、当時中国の王朝であった、

「清国」

 によって、支配されていた。

 その清国から、朝鮮は、

「冊封関係」

 つまりは、主従関係にあったということで、朝鮮への進出は、清国との緊張を高めるということでもあった、

 だが、日本はこれまで、忠実に、スローガンを守ってきたことで、

「清国と対等に話ができるくらいにまで成長していた」

 というのだ。

 朝鮮は、日本によって、強引に開国させられ、日本としては、

「あくまでも、朝鮮は独立国」

 という観点から、朝鮮を属国と捉えている清国を完全に敵視するようになったのだった。

 朝鮮半島の、2度に渡る軍事クーデターによって、日本の権益が圧倒的に少なくなったことで、

「日清の衝突は免れない」

 という状況に陥っていた。

 日本と清国は一触即発の状態から、戦争上に入り、あっという間に、日本の勝利ということになった。

 一応、対外戦争デビューであり、相手がいくら、

「手負いの獅子」

 という状態であったにも関わらず、結局、完膚なきまでに相手をやっつけ、

「日本の勝利」

 ということで、堂々と、

「講和条約に望む」

 ということになった。

 その時の賠償金などで、八幡製鉄所などの富国強兵のために必要な施設をつくったりしていた。

 さらに、遼東半島、南満州鉄道の一部を手に入れることができたのだが、遼東半島に関しては、ロシアを中心とした三国が、日本にたいして、

「遼東半島の返還」

 を促した。

 いわゆる、

「三国干渉」

 というものだ。

「今日本に、この三国と戦争を同時に開くだけの力があるわけではない」

 ということで、仕方なく、遼東半島を返却するに仕方がなかったのだ。

 要するにこの時のロシアの動きから、完全に、

「ロシアを仮想敵国とする」

 という考えが生まれてきたのだった。

 ロシアにとって、

「不凍港」

 と呼ばれる港の確保が最優先であった。

 満州地域であったり、アフガニスタンなどの国に侵攻するのも、その、

「不凍港」

 を求めてのことだった。

 しかも、ロシアは、日本に返還させた遼東半島にある旅順に、大要塞を築いて、日本の脅威を取り除こうとしているのだった。

 日本は、その後、ロシアとの関係は、悪くなる一方で、

「争いは必然的」

 ということになり、いよいよ、日露戦争が勃発することになった。

 さすがに今度は、日清戦争の時のようにはいかない。

 問題は、旅順と、ウラジオストックにあった、極東艦隊と、本国主力のバルチック艦隊が一緒になってせめてこられると、日本に勝ち目はないということだった。

 だから、まずは、

「旅順艦隊」

 の撃滅か、あるいは、きたる艦隊決戦のためには、

「旅順艦隊の足を止める」

 ということくらいしかないということであった。

 そこで、

「古い戦艦を座礁させる」

 という、

「旅順港閉塞作戦」

 というものが、計画されたが、失敗に終わったのであった。

 結局座礁させることができなかったので、旅順艦隊壊滅作戦に切り替わった。

 しかしそのために、旅順要塞を清涼する必要がある、

 要塞は、実に堅固にできていて、正攻法ではどうしようもない。

 かなりの犠牲を出して占領で来たのだが、

「旅順、あんな軍港一つが、日本の命取りになるのか」

 という伊藤博文の言葉として伝わっているのだが、元々、清国だった時の、日清戦争湯治であれば、

「一日で落とした」

 という弱小な土地だったのだ、

 それをロシアが一大要塞に作りあげたことで、

「東洋一の大要塞」

 と言われたものだった。

 そんな旅順要塞を撃滅したことで、日本が有利になった。

 旅順の裏から、旅順港に向けて、大砲を打つことで、旅順艦隊は、撃滅されたからであった。

 さらにもう一つ、日本にとって有利だったのは、イギリスとの、

「日英同盟」

 が結ばれていたことである。

 イギリスとしても、

「ロシアの南下政策を、何としてでも、阻止しないといけない」

 ということで、日本と同盟を結んだのも、当たり前のことだった。

 実際に、バルチック艦隊が、母国を出港し、日本にくるには、ヨーロッパを回って、さらにアフリカを抜けて、インド洋に入り、そこから、マレー沖を抜けて、北上するという経路になるのだが、日本としては、その間に、同盟国のイギリスから、

「ロシア船に、武器弾薬、食料などの補給をさせない」

 ということで、結果として、

「ボロボロの状態で、日本は迎え撃てばいい」

 というわけだ。

 結果として、

「日本海海戦は、半日という短い期間で、私有を決し、日本側の大勝利となった。

 陸軍の方も、多大な犠牲を払ったにもかかわらず、

「奉天回戦」

 において、勝利を収めることとなった。

 かねてより、和平交渉を側面下での交渉の席に、

「最高の形」

 でつくことができたのだ。

 実は、そのことが、それから40年後に起こった、

「大東亜戦争」

 の悲劇につながることになるのだ。

 日本は、日露戦争の勝利にて、

「満州鉄道の権益を得て、満州の一部を占拠することができたのだが、反日運動のもないから、虐待事件や、暗殺事件が後を絶えなかった」

 さらに、当時の日本本土では、

「東北地方の凶作」

 であったり、

「昭和恐慌」

 などと言われる不景気の時代だったことで、

「急激に増える人口をもはや支えることができない状態まで来ていた。

 そんなこともあり、日本は、謀略によって、

「満州事変」

 というものを、引き起こしたということになるのあろうが、

「それは致し方のないことである」

 と言わざるを得ないといえるだろう。

 それを、中国側が、国際連盟に提訴したことで、調査団が送られ、その結論は、

「満州事変は、日本の自作自演」

 ということになったのだった。

 結果投票は、満場一致に近い形で、満州国未承認」

 という形になったのだった。

 外相である松岡洋右は、それを不服として、

「国際連盟を脱退する」

 という暴挙に出たのだった。

 そこまではよかったのだが、今度は中国大陸に進出してくると、

「中国支配」

 というものをどこまで考えたかということである。

 さすがに列強に食い荒らされた中国を真剣に狙ったとは思えない。

 しかし、偶発的な事故と言われる、

「盧溝橋事件」

 を発端とし、中国側からの、抵抗であったり、さらに、日本人居留区への虐殺事件であったりと、

「容認できない」

 というところまで来てしまうと、

「徹底的に戦う」

 ということで、

「全面戦争」

 に突入したのだった。

 そんな中に起こった

「南京事件」

 というものがあったが、これは捏造されたという側面も大きい。

 そもそも、中国側の発表による被害者の数は、当時の、

「南京の人口」

 よりも多いという、矛盾した結果となり、

「墓穴を掘った」

 といってもいいかも知れない。

「戦後の、マスゴミによる、捏造説」

 というものが大きいが、結局、日本は、そのまま中国大陸の強大さから、

「迂闊に手を出せない」

 という状態になっていったのだ。

 結果として、日本の暴挙は、欧米列強への不満を買った。そのせいで、日本にたいして、

「鉄くずなどの輸出を禁止する」

 という、いわゆる、

「ABCD包囲網」

 というものができあがり、日本はその状態を打開するために、北部仏印、今のベトナムあたりに進出したのだ。

 だが、それはさらに欧米を怒らせ、今度は、

「石油の輸出、全面禁止」

 と打ち出したのだった。

 そうなると日本は、

「アメリカとの戦争も辞さず、自給自足の国家体制を築く」

 ということにするとしか思えない。

 日本では、外交交渉と並行し、戦争準備を着々と整えていた。

 そんな状態において、アメリカは、

「ハルノート」

 と呼ばれる内容を日本に突き付けてきた。

「中国大陸からの全面撤退」

 を中心とした内容で、

「明治維新状態にまでさかのぼってしまう」

 ということで、日本としては、まったく容認できないという内容だったのだ。

 結局、この、

「ハルノート」

 が、最後通牒ということになり、

「戦争は不可欠だ」

 ということになった。

 そこで、日本は、陸海において、海軍による、

「真珠湾攻撃」

 あるいは、陸軍による、

「マレー上陸作戦」

 というものが行われたのであった。

 そのどちらも、成功し、そこから、

「大東亜戦争」

 が起こったのだ。

「大東亜」

 というのは、東アジアのことであり、

「欧米列強に植民地化されたアジアを介抱する」

 というスローガンから、

「解放した後は、今度は、日本を中心とした、東アジアの共存のためのいわゆる、

大東亜共栄圏というものを建設する」

 というのが、その時の、

「大東亜戦争」

 における、

「大義名分」

 だったのだ。

 これに関しては、賛否両論はあるだろうが、少なくとも、当時のアジアは、欧米列強により、完全な植民地になっていたのだ。

 それを開放しようとしているのだから、少なくとも、

「間違ってはいない」

 ということであろう。

 日本の閣議で、シナ事変から始まるこの戦いを、

「大東亜戦争」

 ということに決定していたのを、わざわざ、

「太平洋戦争」

 などという欺瞞に満ちた名前にしてしまったのは、戦争後の実効支配をするうえで、

「日本の戦争を正当化させるものであり、連合国側からすれば、とても容認できるものではない」

 と言えるのではないだろうか?

 ただ、この戦争には、最初からのシナリオがあった。

「序盤で大きな勝利を得て、アメリカなどの国民が戦争に嫌悪し、アメリカの戦争継続意識を失くしてしまおう」

 というのが目的で、

「その時に、大日本帝国において、和平条約を持ち掛け、有利な状態において、講和条約を結ぶ」

 というのが、

「戦争継続のシナリオ」

 ということになるのだった。

 しかし、序盤で勝ちすぎたため、世論やマスコミが許すわけもなく、その作戦は、なくなってしまった。軍部でさえも、状況判断を見失っていたといってもいいだろう。

 当然のごとく、

「戦争の終わらせ方」

 を間違えたことで、結果は見えている。

 戦争にしても、他のことにしても、

「何かを終わらせるのは、始めることよりも、数倍きつい」

 というではないか。

 特に、よく言われるのは、結婚である。

「離婚は結婚する時よりも、数倍のエネルギーを必要とする」

 と言われるが、まさにその通りだ。

 戦争は、

「相手の首都に乗り込んで、完膚なきまでに相手を叩き潰さない限り、どこかで和平を申し入れるなどして、有利な条件で終わらせないと、終わらせるタイミングを見失うと、泥沼に嵌ってしまう」

 ということになるのだ。

 日本の場合は、何度か、

「戦争を終わらせる機会」

 というのを見失っている。

 最初は、シナ事変が始まるきっかけになった、

「盧溝橋事件」

 の和平とともに、終わればよかったはずだった。

 しかし、中国側からの、

「虐殺」

 であったり、

「執拗な攻撃」

 があったことで、戦闘継続しかなかったのだ。

 さらに、シナ事変に限っては、途中で、

「トラウトマン和平工作」

 というのがあった。

 これは、日本側が、最初、

「蒋介石が飲めるだけの条件」

 を示したことで、和平に対して一歩前進したのだが、

「南京占領」

 という状況に入ったことで、日本側が、

「少々厳しくしても、相手は飲むだろう」

 という甘い考えで、条件を厳しく変えてきた。

 それを見た蒋介石は、怒って、和平交渉は決裂することになったのだ。

 そして、いよいよ、

「米英蘭」

 に対して宣戦布告し、それと同時に、それまで宣戦布告していなかった中国も晴れて宣戦布告することで、中国も敵となり、

「シナ事変」

 が、

「日中戦争」

 という形になったのだ。

 それまでの中国との戦闘は、戦争ではなかったのだ。なぜなら、どちらの国からも、宣戦布告がされていないからで、実際には、

「戦争まではいっていない」

 という、

「事変」

 でしかなかったのだ。

 というのは、

「お互いに宣戦布告をしないようが、都合がよかった」

 からである。

 というのは、

「宣戦布告をするというのは、相手国に対してということもあるが、第三国に対してのものの意味が大きい」

 つまりは、

「第三国に、自分たちが戦闘状態にあることに対して、態度を示さなければならないからだ」

 同盟国などであれば、宣戦布告をするから分かるが、どちらかに支援するということであれば、その国は相手国からすれば、

「敵国とみなされても仕方がない」

 ということになる。

 だから、最近もあった、侵攻された国に対して、支援をし、さらに、相手国に経済制裁を加えながら、さらに、侵攻された国に武器供与までしようというのだから、これは、国際法上でいえば、

「侵攻された国を支援しているわけだから、相手国から敵視され、攻撃を受けても仕方はない」

 というわけだ、

 というのも、

「どちらにも属さない」

 ということであれば、速やかに、

「中立宣言」

 をしなければいけない。

 中立宣言をした国に対して、攻撃を加えれば、それは、国際法違反となるからである。

 ただ、その状態なので、

「中立国は、戦争を行っている国に加担してはいけない」

 というのは、当たり前のことであり、

 だからこそ、日本は、

「支援も経済制裁もしてはいけない」

 はずである。

 もっとも、経済制裁が国連決議であったりすればその限りではないが、そもそも常任理事国が、当事国なので、反対されることなので、

「国連決議」

 ということはありえない。

「ただ、この両国は、宣戦布告があったのだろうか?」

 していないのであれば、

「国家間の戦争ではない」

 ということなので、支援や、経済制裁は、戦争当事国に対してのことではないので、国際法に違反しているというわけではないだろう。

 そのあたりが難しそうだが、そんなことが問題ではなく、

「国民が収めた金が、政治家のメンツのために、海外に送られている」

 ということが問題であった。

「国民の誰も困っていない」

 ということであれば、

「人道支援」

 という関連から、お金を出すことに、それほど抵抗は感じないだろうが、今の時代は、数年前から続く、

「世界的なパンデミックのために、今でも苦しんでいる人がたくさんいる」

 のである。

 しかも、

「国が金を出したくないから」

 ということで、

「伝染病のレベル」

 というものを、

「2から5に引き下げたのである」

 こうなると今まで政府が出していた、

「治療費やワクチン代」

 さらには、宿泊利用代、生活必需品の支援など、なくなったりするではないか。

 それを思うと、

「海外にやる金をこっちにまわせば、また違った形になるだろう」

 ということである。

 そもそも、税金というのは、国民の血税なのだ。

 それを、縁もゆかりもない外人にやらなければいけないのか? 困っている日本人を見捨てて、外人に配らなければいけないのか?

 ということである。

 その理屈は、

「政治家が、外国に、いい顔をしたい」

 というだけのことではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「今の日本は腐っている」

 としか思えない。


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