第130話「逃走」

「ぜぇ……、ぜぇ……、はぁ……、はぁ……っ」


「ん……? まだ生きておるのか、吸血鬼とは存外しぶといもんじゃの」


 ……生きているのか? 俺はまだ生きてんのか?


 自分でも驚くほどのしぶとさだった。明らかに致命傷を負っているのに、まだ俺の命の灯火は消えていないらしい。


 視線を下ろすと、上着の内ポケットに入れていたチューブ状の入れ物が壊れ、中から赤い液体がポタポタとこぼれ落ちて俺の身体にかかっていた。


 ――赤ポーションだ。


 まだ知能を封印される前のミケノンに、たとえポーチの中に癒しの杖があっても、必ず一つは赤ポーションを携帯しろと口酸っぱく言われていたのだ。


 ……これのおかげで、なんとか一命を取りとめることができたのか。


 でも、全身が痛すぎて感覚もねぇし、それに再生が全然追い付かなくて、さっきからずっと血が止らねぇんだ……。まさに虫の息ってやつだ。


 気絶しそうな痛みに耐えながら、再生しかけの皮膚が剥がれるのも構わず、俺は無様に手足をバタつかせながら天獄から少しでも離れようと這いずる。


 だが、それも所詮は無駄な足掻きだ。


 天獄は急ぐ様子もなく、悠々とした足取りでゆっくりと歩み寄ってくると、地面に倒れ伏す俺の身体に、魔力を纏った足を振り落とした。


 ――バキ、ボキ、ベキベキッ!


「ぎゃぁ……っ! が……ぁぁ……!」


 左手、右手、左足、右足と、順番に踏みしめて骨を折っていく。それだけで、今にも切れそうだった意識が持っていかれそうになる。


 涙を滲ませ痛みに悶える俺を見下ろしながら、天獄は大鎌を上段に構えた。


「これでもう逃げられんの。さあ、その首を刎ねて終わりにしようかの」


 ああ……ちくしょう……。今度の今度こそ、本当に詰みだ……。


 もう回復アイテムもないし、手元に魔導具もなければ、起死回生のスキルもない。正真正銘、万策尽きた状態だ。ここからこの化け物に逆転する手なんて、どこにも残っちゃいねぇ……。


 ……ごめん、十七夜月。お前だけでも逃げ延びてくれ。


「んん? む……なんじゃ? 体が……」


「……?」


 死を覚悟した俺だったが、いつまでたっても刃が振り下ろされる気配がない。天獄は大鎌を構えたまま何故かぴくりとも動かずその場に立ち尽くしている。


 なにが起きているのかわからず困惑していると、天獄の背後からこっちに向かって全力で走ってくる十七夜月の姿が目に入った。


 ……は? なにやってんだよあいつ! まだ転移陣に入ってなかったのかよ!? 今すぐ逃げろ! 危ないからこっちに来るなって、さっき言っただろうが!?


 そんな心の叫びも空しく、十七夜月は俺の元まで辿り着くと、地面に横たわる俺の身体を抱き起こして転移陣の方まで連れていこうとする。


「……ば、馬鹿野郎。早く俺をここに置いて逃げろ……」


「大丈夫です! "影クナイ"をあいつの影に刺しましたから!」


「え?」


 十七夜月の言葉に思わず地面に目を向けると、ヒカリゴケに照らされて天獄の身体から伸びる影に、確かに黒いクナイが突き刺さっていた。


 急に天獄の動きが止まったのは、あれが原因だったのか!


「ミケノンが念のため私が持っておけって、渡してくれたんです。ブーツに仕込んでいたので、あれだけは没収されずに済みました」


「……あ、あいつ。また俺のポーチから勝手に魔導具を……」


 でも、手癖の悪い三毛猫のおかげで今回は助かった。天獄が再び動く前に、早くこの場から逃げなければ。


「本当は先輩が斬られる前に助けたかったのですが……。すみません、動きが早すぎてあいつが完全に止まるまで無理でした」


「いや、十分すぎるよ。心の底から助かった」


 十七夜月に肩を借りながら、転移陣の前までなんとか移動する。そして、最後の力を振り絞ってその中に飛び込もうとしたのだが――


「先輩危ない!」


 ――ドゴォォオンッ!!


 十七夜月が俺を抱いて横っ飛びした瞬間、それまで俺たちが立っていた場所を白い光のようなものが通り抜け、後ろの壁を吹き飛ばした。


 ガラガラと瓦礫が崩れる音が響き、転移陣はその中に埋まってしまう。


 後ろに目を向けると、天獄が右手に光を纏わせながら、それをこちらに向けて振ろうと構えているのが見えた。


 早すぎる! もう手が動かせるようになったのか! あれはコボルトを一撃で粉砕した衝撃波! まずい! 二発目がくる!?


「先輩、こっちへ!」


 十七夜月に引っ張られて、すぐ近くの細い通路へと飛び込む。


 その直後に、天獄の手から放たれた光の奔流が通路の入り口に着弾し、激しい轟音を響かせながら部屋に繋がる道を完全に閉ざしてしまった。


「逃げても無駄じゃぞ! その身体ではボスは倒せまい! ここに儂がいる限り外に出る手段はないぞ!」


「……くっ、あいつの全身が動き出す前に、とにかくここを離れましょう!」


「あ、ああ……」


 俺が十全の状態なら、これくらいの瓦礫は簡単に吹っ飛ばせるのだが、この状態では無理だ。それに戻っても天獄に殺されるだけだ。今はとにかく逃げるしかない。


 十七夜月の肩に掴まって、息も絶え絶えに折れた両足を必死に動かながら、俺はダンジョンの通路を進み始めた。







《グルルルルッ!!》


 先端に尖った石を取り付けた粗末な槍を持ったコボルトが、唸り声を上げてこちらに突進してくる。


 なんとか避けようとするが、怪我と疲労で足がもつれて思うように動けず、俺はその攻撃をまともに受けてしまった。


「ぐあぁぁぁぁーーッ!」


 石槍が左太ももに深々と突き刺さり、無様な悲鳴を上げながら地面に倒れ込む。


「先輩! この犬っころが!」


《ぎゃうんっ!》


 十七夜月がコボルトに体当たりを喰らわせると、奴は壁に叩きつけられて槍を手放した。その隙に彼女は俺を抱き起こすと、そのまま肩を貸す形で逃げるようにしてモンスターのいない方向に向かって進み出す。


 ……くそ、情けねぇ。コボルトごときに手も足もでないなんて。


 だけど血を失い過ぎた影響で、再生が全然進まないんだ。火傷も骨折も治らないし、傷口は塞がらず、未だに血がドクドクと流れ出ている。そして、そのせいで更に再生の速度が落ちるという悪循環だ。


「……十七夜月、いざとなったら俺を置いていけ。お前だけなら天獄も見逃してくれるかもしれない……」


「置いていけるわけないでしょう! ……それに、もう"影クナイ"を刺しちゃったから契約も失効しちゃってますし、たぶん無理ですよ」


「あ……」


 そうだ……俺を助けるために、十七夜月は影クナイを天獄の影に刺してしまったんだ。だから天獄はこいつを巻き込む可能性があったのに俺に衝撃波を放つことができた。


「ほら、掴まってください。もう弱気なことは言いっこなしですよ? ここで先輩がダウンしたら私まで共倒れになっちゃうんですから」


「……すまん。ありがとう、十七夜月」


 十七夜月に肩を借りながら、瀕死の身体を引きずって、コボルトに見つからないように息を潜めながら、俺たちはダンジョンの中を進む。


「先輩、私の血を飲んでください」


「でも……いや、そうだな。悪い、ちょっと貰う」


 この状況で、遠慮なんてしている余裕はない。俺は十七夜月の首筋を噛むと、そこから流れ出る血をゴクゴクと飲み始めた。


 ……ああ、なんて甘美なんだ。こんな美味い血は初めてだ。今まで飲んできたどんな血液よりも濃厚で芳醇な味わいに思わず恍惚とする。


 もっと飲みたい! この血を俺の体内に取り入れたい! そう本能が訴えかけてくるが――


「せ、先輩……! そろそろ、限界です。これ以上飲まれると私も倒れちゃいます」


「あっ……わ、悪い」


 ……なにをやってんだ俺は。今は十七夜月だよりなのに、その彼女を倒れさせるなんて、本末転倒じゃないか。


 だが、おかげで少しだけだが体力と再生力が回復した気がする。このままどこかでゆっくり休めば、なんとか動けるくらいにはなるかもしれない。


「それで、これからどうします? 私だけじゃ絶対ボスは倒せませんよ?」


「なんとかセーフティルームを見つけ出してそこで休もう。俺の体がある程度回復したら、星二のボスくらいなら倒せるはずだ」


 天獄はもうとっくに動けるようになっているはずだが、まだ俺たちを追ってくる気配はなかった。


 あの大部屋にはいくつもの通路があったので、別の通路から俺たちが戻って来て逃げないように見張っているのかもしれない。


 だが、転移陣を完全に埋め立てる、魔導具で完全武装した兵を再び呼び寄せるなどの対策を施してから、俺たちを追って来ることは十分に考えられる。


 なのでその間にセーフティルームに隠れ、奴が探しに来るギリギリのタイミングまで回復に専念して、ボスを倒して地上に戻る。これしかない。

 

 ボスを倒せば天獄も外に出てきてしまうが、公園内は人が大勢いるから、人ごみに紛れて逃げれば一般人を巻き込んでまでは襲ってはこないはずだ。


 あいつも立場ある身だし、いくら竜人になったからといって、大量の民間人を虐殺していきなり日本という国自体を敵に回すような真似はしない……と、思う。


「とにかく今は安全確保だ。十七夜月、すまないがもう少し肩を借りていてもいいか?」


「ええ、もちろん」


 たくさんの分岐路のある細道を、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと右往左往しながら、セーフティルームを探して彷徨う。


 チラリと十七夜月を見ると、彼女の顔色は悪く、額からは玉のような汗を流していた。俺という足手まといを肩に抱えながら、しかも貧血寸前の状態でモンスターの徘徊するダンジョンを歩き回るのは、相当に体力と精神力を使うのだろう。


「俺……本当にダメだな。今日は……お前に日頃の感謝の気持ちを示そうと思って、買い物に誘ったんだ。なのに、こんなことに巻き込んじまって。しかも、現在進行形で足も引っ張りまくってるし……」


「今さらですよ。先輩がダメダメのダメ人間なのは、学生時代から知ってますから」


「……ダメの数が少し多くねぇか?」


「そうですか? むしろ少ないくらいだと思いますけど。でも……私は先輩がダメ人間……いや、今は吸血鬼か。ダメ吸血鬼なのをわかって一緒にいるんですから。それでいいんです」


「うん……ありがとう」


「まったくもう……大丈夫なんですかね、この人は……。ミケノンも心配していましたが、私たちがいなくなった後もちゃんとやっていけるのか、ちょっと不安になってきましたよ……」


「……そんな未来のこと、わからないよ」


「そうですね……今はこの危機を乗り切らないとですね」


 コツコツと二人の足音がダンジョンに響く。


 それからしばらく無言の時間が続いたが、不思議と気まずさはなかった。


 ……普段一緒の家に暮らしているのに、こういった真面目な会話は今まで全然してこなかったな。


 俺もこいつも……自分から相手に踏み込むのが、なんだか気恥ずかしくて苦手なのだ。学生時代も、同じ部室で二人っきりなのに、ずっと無言で過ごすことも少なくなかった。でも……その時間は決して嫌ではなく、むしろ心地いいとさえ感じていた。


 じっと十七夜月の目を覗き込んでいると、彼女もこちらに顔を向けてくる。


「あ、あのさ……」


「どうしたんですか」


「前は……冗談交じりに言ったけど、もし俺が本気で――」


《グルルルッ!!》


《ガウッ!! ガウウッ!》


《ギャウ、ギャン!》


 俺が意を決して、前々から考えていたことを言おうとしたそのとき、前方の曲がり角から数体のコボルトが飛び出してきて、俺たちの前を塞いだ。


 そしてそれぞれが石のナイフや木の槍を構えながら、じりじりと距離を詰めてくる。後ろを振り向くと、そちらからもコボルトが数匹走ってくるのが見える。ここは一本道だ、逃げ場はない。


「強行突破します! 先輩、捕まってください!」


 十七夜月は両足が折れて素早い動きができない俺をお姫様抱っこすると、コボルトの群れに向かって突っ込んでいく。


 それを見たコボルトたちは、手に持った武器を前に突き出しながら、一斉に襲いかかってきた。


「ぐぅっ!?」


 石のナイフが十七夜月の脇腹に刺さり、槍が肩口の肉を貫く。が、彼女はそれを意に介さずに奴らに体当たりをして弾き飛ばすと、そのまま通路を突っ切っていく。


「大丈夫か十七夜月!」


「へ、平気です、これくらい!」


 後ろから追ってくるコボルトたちが木の槍を投擲してきたが、彼女は俺の小さな身体を守るようにギュッと抱きしめ、歯を喰いしばりながら走る速度を緩めない。


 そして……そこから右に左にと通路を曲がりながらしばらく進んだところで、ようやくセーフティルームと思わしき部屋が前方に見えてきた。


「や、やったぞ!」


「はあっ、はあっ……」


 転がり込むように部屋に逃げ込むと、十七夜月は俺を地面におろして壁に手を突いた。


 コボルトたちは、追ってはこない。いや、追ってこれないのか。……どうやら、なんとか逃げ切れたようだ。


「た、助かったぁ……。十七夜月、本当にありがとう。お前がいなけりゃ、俺は今日何回も死んでたよ」


「……」


「ん? おーい、十七夜月?」


 俺の呼びかけに彼女は返事をしない。俯いているせいで顔は見えないが、なんだか様子がおかしい。


 石造りの粗末なナイフや木の槍だったけど、あれに刺されたんだ。もしかしたら思ったより傷が深いのかもしれない。


「待ってろ、セーフティルームには必ず赤ポーションがあるんだ。今それを――」



 ――ドサリ



 ポーションを探そうと俺がテーブルに目を向けた瞬間、背後でなにかが床に落ちるような音がして振り返る。


 そこには、糸の切れた人形のようにぴくりとも動かずに倒れている十七夜月の姿があった――。

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