第108話「転生したら競走馬だった件③」
「風莉ちゃんって、本当に動物に好かれるのね」
「……え? そうかなぁ」
「そうよ。だって普通、ノラの猫ちゃんなんて人が近づいただけで逃げていっちゃうのものなのよ?」
私が初めてそのことに気がついたのは、幼稚園の先生の何気ない一言だった。園庭に迷い込んだ猫に手を舐められていた私を見た先生が、そう声をかけてきたのだ。
それまでも、散歩中の犬が私の足元でお腹を見せて寝転んできたり、近所の公園にいた野良猫が私の後をついてきて、そのまま家の中まで上がり込んできたことは何度もあったけれど、それが特別だと意識したことはなかった。
でも、思い返してみれば、確かに私は動物に好かれているのかもしれない。実際に先生が一歩近づいただけで、猫ちゃんは逃げてしまったし。
それを両親に話してみたら、「やっぱり他の人たちからもそう見えているのね」と、母は苦笑しながら私の頭を撫でた。どうやら母も前々から、私の動物に好かれる体質は普通のレベルではないと思っていたらしい。
それから両親は、私を動物と触れ合えるような施設やイベントに積極的に連れて行ってくれるようになり、私も自然と動物全般が大好きになっていった。
だって、こんなにもかわいくて自分に懐いてきてくれる存在を好きにならないわけがないでしょう?
そんな動物の中でも、私が一番大好きなのは馬だった。
大きな体に愛らしい瞳、そしてふさふさでもふもふの毛。初めてその広い背中に乗ったときの感動は、今でもはっきりと覚えている。
だからそんな私が、騎手になるために競馬学校に入ったのはある意味当然の流れだったのかもしれない。
そして、案の定とでも言えばいいのか、お馬さんたちは私に凄く懐いてくれて、私のために一生懸命走ってくれた。おかげで学校の成績も断トツでトップだったし、かわいいお馬さんにも囲まれる生活は、本当に楽しい日々だった。
順風満帆な学校生活、そしてデビュー。初騎乗で初勝利、そこからも順調に勝ち星を積み重ねて、このまま行けば年内にもGIに乗れるかも……なんて周囲にも言われ始めた矢先の、あの落馬事故。
私はちょっと擦りむいた程度だったけど、乗ってたお馬さんが……。
「……っ」
じわりと涙が込み上げてくる。
空中に投げ出された私を、お馬さんは自らの身体をクッションにして守ってくれた。
あのお馬さんが予後不良になったと聞いたときは、目の前が真っ暗になって、それからもうなにもやる気が起きなくて……。
レースに出走しなくなってから、主にお馬さんの調教のお手伝いをさせてもらっているけれど、今日も調教師さんに「もっとまじめに負荷をかけて乗ってくれよ!」と怒られてしまった。
でも、どうしても……お馬さんを本気で追うことが、鞭を打つことが、もう……私にはできない。
「はぁ……田舎に帰って実家の旅館を継ごうか――」
「オラァ!! もっと気合入れろ!! このウジ虫がッ!!」
『ヒ、ヒヒィィーーン!?』
私の呟きをかき消すように、厩舎の方から白馬がドタバタとこちらに向かって走って来た。
その背中には小柄な女の子が跨っており、これでもかというくらいビシバシと白馬のお尻を鞭で叩いている。
「ハイじゃなくて、返事はサーだ! もっと大声をだせ! そんなんでブルートランクスに勝てると思ってるのかっ!」
『ヒヒイイィィーン!!』
グルングルンと腕を大きく回転させて、風車ムチで容赦なく白馬のお尻を叩く少女。
す、凄い鞭振りのテクニックだ! 随分若く見えるけど、どこかの厩舎で調教助手をしている人なのかな?
……いやいや、でもいくらなんでも叩きすぎでしょ! 調教で風車ムチって、お馬さん壊れちゃうよ!
「ちょ、ちょっとあなた! やり過ぎです! お馬さんにそんな風に鞭を振るっちゃダメです!!」
私の声に、白馬と少女が止まってこちらを振り向く。
「……え? でもこいつ喜んでるし……」
「そ、そんなわけない――――あ、あれ?」
近寄ってみると、確かに白馬は妙に嬉しそうな顔をしながら、ヒヒンと荒い鼻息を漏らしていた。動物好きの私にはわかる……これは明らかに喜んでいる!
私が戸惑っていると、白馬の背中から少女がひらりと飛び降りた。
「ところで、あなたが"
「そ、そうですけど」
少女は「ふ~ん……」と、私を値踏みするような目でジロジロと眺める。
白馬もふんふんと私の顔を嗅ぎながら、なんだかそわそわした様子で目を輝かせている。股間を見ると何故か馬っけを出していた。
「こいつ、今度弥生賞に出走するんだけどさ、乗られるなら風莉さんがいいんだって。だからちょっと乗ってやってくんない?」
「……ごめんなさい、私……もう騎手を辞めようと思ってるんです」
少女に頭を下げる。申し訳ないけど、今の私はレースに乗れるような状態じゃない。
すると、私の言葉を聞いた少女は意外にもそっけない反応で、「へ~……そうなんだ」と興味なさそうに言うだけだった。
「じゃあ最後にこいつに調教つけてやってくんない? それくらいなら別にいいでしょ?」
「……まあ、それくらいなら」
うん……最後に、もうひと調教くらいなら。
そうしよう。この白馬に調教をつけて……それで騎手生活は終わりにする。
「よかったなー、シロスケ」
『ヒヒーンッ♪』
「こいつ、未勝利馬なのに弥生賞に出走しようなんて無謀なやつだからさ、思いっきり鍛えてやってよ」
「この子、未勝利馬なの!?」
未勝利馬で弥生賞って馬主はなにを考えているんだ……と思ったけど、私は騎手を辞めるんだし関係ないか……。それと今思い出したけど、この白馬ってトレセン内でもちょっと話題になってた暴れ馬だったような……。
おそるおそるシロスケと呼ばれた白馬に跨ると、その背中は大きくて暖かかった。噂に聞いていたような気難しい雰囲気は全くない。
「……行くよ」
『ヒヒーン!』
坂路のコースのスタートラインにシロスケを立たせて、手綱を握ってゆっくりと発進する。
パカラッ、パカラッと小気味いいリズムで駆け上がっていくシロスケ。風が頬に当たって気持ちいい。それに……シロスケもなんだかとても楽しそうだ。
……凄い。重心が全くブレないし、走りのフォームもとても綺麗。こんなに走るのが上手な子を、今まで見たことないかも……。この子、本当に未勝利馬なの?
でも――
「……手、抜いてるでしょ?」
『ヒ、ヒヒ~ン?』
とぼけた表情で私を見るシロスケ。
絶対に手を抜いてる! この子が本気で走れば、もっともっといいタイムが出るはずだ。……くっ、もっと手綱を押して……で、でも……もし怪我でもさせたら……。
私の脳裏に落馬事故がフラッシュバックする。
「こらー! シロスケ! 馬っけ出しながら走ってるんじゃない! 風莉さんも遠慮しないで、も~っと追い込んじゃって! そいつめちゃくちゃ頑丈だから!」
少女が坂路コースの脇を並走しながら声高に叫ぶ。
……って、あの娘は足速すぎでしょ! なんで馬と一緒のスピードで走れるの!?
でも、よく見たら本当に馬っけを出しながら走ってる……。ってことはまだまだ余裕があるって証拠だよね! よ~しっ!
「ほら、もっと頑張って!」
手綱を短く持って、ぐんと加速する。すると意外なほど素直に応じてくれるシロスケ。
――世界の全てが加速していく。
風も、音も、全てがゆっくりになっていくような不思議な感覚の中で、シロスケとの一体感がどんどん高まっていくのがわかった。
ああ、どうしよう! こんなに楽しいと感じたのはいつぶりだろう……。もっと走りたい……この子と一緒にどこまでも――
「シロスケ、あなたの本当の実力を見せて!」
『ヒヒヒヒィィーーン!!』
鞭をビシリッ、と一発入れると、彼はその顔に初めて闘志を宿した。
そして一気に加速するシロスケ。脚の回転はどんどん上がっていき、まるで羽根が生えたかのように軽々と坂を駆け上がっていく。
ああもうっ……もっと楽しみたいのに、もうゴールが近づいてきちゃった。
もっと……もっと走りたい! そんな私の想いとは裏腹に、シロスケはゴールラインを通り過ぎると徐々に減速していく。
そして完全に止まると、彼は私の方を向いてブルルッと鼻を鳴らした。その目はまだまだ走り足りないと言っているようで、思わず私も笑みがこぼれてしまう。
「お疲れ様。4F49秒0、トレセン内で今日断トツの一番時計だ。これなら弥生賞でも好勝負ができそうだな!」
いつの間にか坂路コースのゴール地点にいた少女が、ストップウォッチを見ながらうんうんと頷いている。
……凄いタイムだ。でも……私の感覚では、シロスケはまだこれ以上の走りができる気がする。
「それじゃあ風莉さん、調教ありがとな。シロスケに乗ってくれる騎手は別に探すとするよ」
「……あ」
少女に言われて、私はハッとした。
そうだった……シロスケに乗ってて忘れてたけど、もう騎手は辞めるんだった。
一人と一頭は私を置いて厩舎の方へとトコトコと歩いていく。その後ろ姿をぼーっと眺めていると、ふいに白馬がこちらを振り返る。
その目を見て……私は思わず駆け出した。
だけどそんな私の想いとは裏腹に、少女はシロスケの背中に乗ってそのまま走り出してしまう。
「待って! 行かないで! ま――あうっ!?」
慌てて追いかけようとして、足をもつれさせて転んでしまった。膝をしたたかに打ちつけてしまい、痛みですぐに立ち上がることができない。手も擦りむいたのか血が滲んでいる。
私、なにやってるんだろう……。もう騎手を辞めると決めたのに……。
「どうした? 騎手は辞めるんじゃなかったのか?」
顔を上げると、白馬に跨ったままの少女が私を見下ろしていた。
シロスケが『ヒヒン……』と心配そうに鳴き声を上げ、私の頬の辺りをぺろりと舐める。
思わず……涙がこぼれた。
「……デビュー前から、ずっと一緒に頑張ってきた子だったの」
「うん」
シロスケの首を撫でながら、ぽろぽろと思いの丈を少女にぶつける。彼女はただ静かに相槌を打って聞いてくれる。
「足元が弱い子でね、ポテンシャルはあったんだけど、デビューが遅れて……。ちょうど私の初騎乗のとき、一緒にデビューすることになってね」
3歳の3月、競走馬としてはとても遅いデビューだった。
でも、あの子は凄かった。初めてのレースで緊張でいっぱいだった私を勇気づけるように、力強い走りで私を勝たせてくれた。私なんてあの子に捕まっているだけ……そんなレースだった。
それからは、連戦連勝。
そして3戦3勝で迎えた、菊花賞トライアルの神戸新聞杯。このレースに勝てば、私もあの子も初めてのGIレースに出られる。その大事な一戦だった。
「……避けられない事故だったんだろう?」
「私がもっと上手く乗れてればあんなことにはならなかったっ!!」
少し出遅れて、最後方からいっきに加速して最終コーナーを回る。この手ごたえだと確実に差し切れるって確信していた。
そのとき、すぐ前にいた馬が転倒した。避けようとしたけど、とても避けられるタイミングじゃなくて……。
――私は空中に投げ出された。
「競走馬は過酷な環境で生きている。そいつもきっと理解してたさ、そういうことも起こり得るって」
「でもっ!!」
「そいつは最後にあんたを庇った。とても頭がよく、優しい馬だ。そしてそんな優しい馬が、あんたがこんなところをでうじうじしているのを見て喜ぶと思うか?」
「っ!!」
少女は白馬から降りて、私の目の前にしゃがみ込んだ。
そして血の滲んだ手を取り、ぺろりと舐めると、真っ直ぐに私を見つめてくる。
「あんたが乗らなくても、馬には誰かが乗るんだ。こいつを見てみろよ、俺やあんたには気を許してるが、他の人間が乗るとすぐに暴れ出しちまう。こんな問題児を助けられるのは、あんたくらいしかいないんだぜ?」
『ヒヒーン!!』
「……シロスケちゃん」
白馬は私の頬をぺろぺろと舐めると、地面に伏せて背中を差し出した。まるで、早く乗れと言っているかのように……。
私はシロスケの広い背中によじ登り、ギュッと抱きしめた。ふわふわの毛が気持ちいい……それに暖かい。
「もし、"もっと上手く乗れていれば"って後悔しているのなら、誰よりも上手く乗れるようになれよ。それこそ、どんな事故だって回避できるくらいにさ。きっとそいつも天国でそれを願ってるさ」
「う、うぅ……! あ、あぁぁぁぁぁぁ……!!」
涙が止まらない。ぼろぼろと流れ落ちる涙で、視界が歪んでしまう。
私はシロスケの首筋に顔を埋めて、泣きじゃくった。大きな声で、子供みたいにわんわんと声が枯れるまで泣き続けた――。
【名称】:けもサーの姫
【詳細】:もふもふした動物からやたら好かれる。ハードボイルドな一匹狼の野良犬も、金持ちに飼われている血統書付きのお猫様も、彼女が近づくと途端にメロメロになってお腹を見せてしまう。なお、爬虫類など体表が鱗で覆われている動物には効果が薄い模様。
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