第009話「伝説のゲンさん」

「ふう、ここまでくれば大丈夫だろう」


 公園の女子トイレに駆け込んだ俺は、個室の鍵をかけてようやく一息つく。さすがの公僕といえど、女子トイレの中までは追ってこれないはずだ。


 視線を少し下に向けると、二つの大きな膨らみが、俺の呼吸に合わせて上下していた。


 ……う~む、おっぱいというものは外から見る分には素晴らしいのだが、自分にあると結構邪魔だなこれ。ちょっと走っただけでぶるんぶるん揺れるし、服とこすれて痛いし……。


 下着が欲しいところだが、ゾンビで無一文の俺は最初から着ていた迷彩服しか持っていないのだ。


 その迷彩服もボタンが弾け飛んで悲惨な状態になっているし……。


「え~、それはヤバいでしょ~。彼氏かわいそ~」


「でも彼が悪いんだし仕方ないじゃない」


 拾った植物の繊維を紐状にして、ちまちまと迷彩服を補修していると、女子トイレの入り口付近から誰かの話し声が聞こえてきた。


 声の感じからして、若い女の子の二人組が入ってきたようだ。


「あっ、待って。今、股座からめっちゃあれが漏れてきた」


「ちょっとあんた下品すぎ。わざわざ言わなくていいから早く替えてきなよ」


「あー、うん。そうする」


 隣の個室に誰かが入ってくる音が聞こえてくる。


 しばらく待っていると、どうやら用は終わったようで、二人は楽しそうに談笑しながらトイレから出ていった。


 俺は素早く個室から出て、そのまま隣に移動すると、トイレの隅に隠されるように置かれている小さなゴミ箱をジッと見つめる。


「……」


 そして、ゴミ箱の中身を確認することなく、くるりと踵を返す。


 ふっ、漁るとでも思ったか? 俺は人間を辞めても理性あるゾンビだ。そのようなことしようはずがございません。


 最強無敵の美少女を志す身としては、そこに至る過程も美しくありたいものだ。超えてはならぬ一線というものもある。


 洗面台で顔を洗い、迷彩服を植物の紐でギュッと縛って応急処置を済ませると、俺はその場をあとにした。





「う、う~ん……少し臭ってきたかな?」


 俺が【神乳】を獲得してから一週間が経った。


 いつものようにダンボールハウスで目覚めた俺は、寝起きにくんくんと自分のにおいを嗅いでみる。


 最初はそこまで気にならない程度だったのだが、日を追うごとにどんどんにおいがきつくなってきているような気がする。


 まあ、いつも同じ迷彩服を着ているうえに、俺はなりかけといえどゾンビなので当然といえば当然なのだが……。


 それに、ゾンビになったことによって五感も鈍くなっているようで、実際には俺が思っている以上に臭くなっているのかもしれない。


 しかしもう6月だし、このまま夏を迎えるのは危険かもしれない。血を吸うどころか、悪臭で通報されてしまうぞ。


「ナユタちゃん、ちょっといいかい?」


 植物の葉を編んで作った簡易下着で大きな胸元を隠しながら、ばしゃばしゃと川の水で迷彩服を洗濯していると、後ろから声をかけられた。


「ゲンさん、どうかしたんですか?」


 真っ白な髪と顎鬚をたくわえた、仙人のような風格を持つ老人。ベテランホームレスのゲンさんである。


 いつも優しい笑顔で、ホームレスたちからも慕われている人格者だ。


 されど男、ということで最初は俺も警戒して近寄らないようにしていたのだが、この前河原で服を乾かしている最中に、俺の神乳を彼に見られてしまうというハプニングがあった。


 だが、彼はそんな俺のおっぱいを見ても一切動じず、すぐに後ろを向いて謝罪してくれたのだ。


 ゲンさん曰く、もう高齢なので下半身の元気が全くないらしく、若い娘の裸を見てもそういう気は一切起こらないらしい。


 あの神乳を生で拝んでなにもしてこないことを鑑みるに、おそらく真実なのだろう。


 というわけで今ではこうして気を許して、たまに話をする仲になっている。


「うん、ナユタちゃん女性用の服が欲しいってこの前言っていただろう? いくつか古着が手に入ったから、良かったらどうかなと思ってね」


 そう言うとゲンさんは持っていた紙袋を俺に手渡す。


「え!? いいんですか?」


「いいよいいよ。若い子、特に女の子のホームレスは滅多にいないし、女性服を必要としている人も、ここらでは殆どいないからねえ」


 うおぉぉぉーー! やったー! ゲンさん……なんて良い人なんだ。


 しかしなんでこんな人がホームレスなんてやってるんだろうな? なんか、右手の親指がないし……たぶん色々訳ありなんだろうけど……。


「ナユタちゃんは胸が大きいから、下着は少し小さいかもしれないけど、そこは我慢しておくれ。……あ、こんなこと言うと今じゃセクハラになるのかな?」


 ゲンさんが頭をかきながら、困ったような顔をして笑う。


 今の社会は色々厳しいからねー。女の子を下の名前で呼んじゃいけないとか、どこの街に住んでいるか聞くだけでもセクハラ扱いされることもあるらしい。


 ま、俺は元男だからそのへんは全然気にしないけどな!


「いえいえー、助かりますよー。ゲンさんありがとうございます!」


「うん、そんな歳でホームレスなんて、色々訳ありなんだろう。理由は聞かないけど、困ったことがあったらなんでも言ってくれよ」


 良い人だなー……。なんでも言ってくれってことだし、思い切ってお願いしてみようかな?


「じゃあ早速なんですけど、一つお願い聞いてもらってもいですか? ちょっとキモいとか、汚いとか言われそうで躊躇してたんですけど……」


「なんだろう? 怖いな。僕にできることなら協力するけど……」


 ゲンさんの顔が若干強張る。申し訳ないなと思いつつ、俺は意を決して自分の希望を伝えることにした。


「あの、血を一滴もらえないかと思いまして……。私、血が大好物なんですよ。これ言うとみんな変態とか気持ち悪いって引くんで、ずっと我慢してたんですけど……。ゲンさんならそんなこと言わないかなーと思って……」


「ああ……そういう嗜好の人がいるって話は聞いたことがあるね。でもこんな爺の血でいいのかい?」


「いいですいいです! 全然オッケーです!」


 美に関する長所を得るなら白ギャルアンナのような美少女の血が理想だが、くたびれたオッサンからも【快速ランナー】のように有用な長所を手に入れられたのだ。


 今はとにかく血を摂取して、どんな能力でもいいから手に入れておきたい。


「一滴でいいのかな? なら別に構わないよ」


「ほ、本当ですか!?」


「うん、ちょっと待っておくれよ。安全ピンを持ってくるから」


 ゲンさんは特に嫌がるような素振りも見せずに、快く了承してくれた。


 そしてダンボールハウスから安全ピンを持ってくると、自分の人差し指にぷすりと刺して、滴り落ちた血を俺の目の前に持ってくる。


 俺は彼の指の下に舌を持っていき、ポタリと垂れたそれを飲み込んだ。



《【いかさま師】を獲得しました》



 よっしゃーー! 新たな長所をゲットだぜ!


 いや……でも【いかさま師】ってなんだろう? 温厚なゲンさんからは想像もつかないような能力だが……。まあ、詳細を確認してみればいいか。


 心の中で【いかさま師】の項目をタップしてみる。




【名称】:いかさま師


【詳細】:昭和の時代。数々の賭場を荒らしまわった伝説のギャンブラーが持っていたとされる、奇跡のいかさま技術。これさえあれば、あらゆる人間を欺いて自らの望む結果を手に入れることができるだろう。




「…………」


 口を半開きにしたまま、絶句してゲンさんを見つめる。


 彼はニコニコと穏やかな笑みを浮かべたまま、俺の顔を優しく見ていた。


「どうかしたのかい? 血はもういいのかな?」


「え、ええ……あ、ありがとうございました」


 ちらりとゲンさんの親指のない右手を見る。


 人に歴史あり……というが、彼もきっとこの橋の下にたどり着くまで、色々壮絶な人生があったんだろうな……。


 俺は彼の過去に想いを馳せつつ、血を提供してくれたことへの感謝を伝えるのだった。

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