第一章 朝霧那由多編

第001話「俺氏、無職になる」

「おい、朝霧! この資料今日までに作っておけって言ったよな!」


 薄い頭をテカらせた中年上司が、俺――朝霧あさぎり那由多なゆたに向かって大げさに声を張り上げながら、デスクをバンッと叩いた。


「い、いえ部長……その資料は……」


「言い訳する気か! お前今年で三年目だろ! 一体いつまで学生気分でいるんだ! 自分が担当している仕事くらい責任もってやれ!」


 部長が額に血管を浮かべながらまくし立てる。


 俺に反論の隙を与えず、日頃のストレスを発散するかのように罵詈雑言をこれでもかといわんばかりにぶつけてきた。


「お、お言葉ですが部長! その仕事は自分が預かる……と先週おっしゃられていましたよね? 新入社員の篠原さんに、自分が作り方を教えるからと……」


 四月に入社したばかりの美人の新入社員篠原さん。彼女は部長のあまりのセクハラに耐えきれず、つい先日退社してしまった。


 その彼女に手取り足取り教えるつもりで俺から奪った仕事なのに、彼はすっかり忘れているようだ。


 部長は少し考えたあと「やべ……」とでも言いたげに一瞬顔をしかめたが、すぐに開き直ってまた怒鳴り始める。


「し、篠原くんは辞めてしまったんだから、お前が気を利かせてやっておくべきだろうが! 元はお前の仕事だったんだからな!」


 自分でやるなと指示したくせに、めちゃくちゃな理屈だ。


「お前明日休みだったな? ちゃんと今日中に仕上げとけよ!」


 だが、俺はそんなパワハラ部長に抗うだけの力など持ち合わせておらず、ただ「はい……」と小さく返事をすることしかできなかった。




「もう辞めてやる! あんな会社こっちから願い下げだ!」


 たっぷりと残業をして資料を作成し、家に帰って泥のように眠った翌日。俺は会社を辞める決心をした。


 部長はパワハラの常習犯だし、給料は安いし、今どき会社の飲み会 (料金は自腹で酔った上司のありがたいお話を延々と聞かされる会)なんてものが定期的に開催されるし、残業は多いし、休日に頻繁に仕事の電話がかかってくるし……。


 新卒だから二年は我慢したが、もう限界だ。これ以上あんな会社にどんな価値を見いだせというのか。


「思い立ったが吉日だ。早速退職の電話を入れてやる!」


 どうせ辞めるんだから、今まであのハゲに言いたくても言えなかった鬱憤をぶちまけてスッキリしてやろう。あのハゲが狼狽する様を見届けて笑ってやるぜ。


 少し緊張しながら、俺は受話器マークのアイコンをタップし、耳に押し当てた。


 プルルルル……という無機質な呼び出し音が何度か流れる。


 早く出てくれよ……とドキドキしていると、不意にガチャという音が鳴り、俺の心拍は急激に上がった。



『はい、こちら退職代行サービス"エンマン"でございます。退職代行のご依頼でしょうか?』



「は、はいぃ……。是非とも、お、お願いしたく……」


『かしこまりました。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。私どもにお任せいただければ、嫌な上司と直接やり取りすることなく円満に退職の手続きを完了させていただきますので』


「あ、ありがとうございます。よろしくお願いします……」


『では、お客様のお名前とお勤め先を――』


 ……


 ……


 ……


「ふう……。これでよし、と」


 今回だけは直接文句を言うのは勘弁してやろう。


 決して俺が部長に退職の旨を伝えるのが怖かったわけじゃない。


 俺の切れのあるトークが部長のメンタルをズタボロにして、あれ以上頭頂部の毛根が死滅してしまうと、さすがに後味が悪いからだ。あんなハゲにビビってなんかいないからな。


「それより、次の仕事を探さないとな」


 金なんてあっという間になくなってしまう。俺はそのときになってあたふたするような間抜けな男ではないのだ。


 ウェブの求人サイトにアクセスし、俺に相応しい仕事がないかスクロールしながら探していると……とある求人情報に目が止まった。


「……ん? ダンジョン探索一回で100万? ははっ、今どきダンジョンなんかに潜るアホがどこにいるんだよ」


 思わず鼻で笑ってしまう。こんな怪しい求人、誰も応募するわけがない。


 こんなものに釣られるのは、余程金に困ってる人間か、あるいは自殺志願者くらいだろう。



 ――この世界には、ダンジョンという摩訶不思議な空間が存在する。


 時は世紀末の1999年、突如として世界中に魔法陣のような謎の文様が出現した。


 文様は直径一メートルほどの大きさで、木、岩、ビルの壁面、更には一般家庭のタンスの裏などありとあらゆる場所に浮かび上がり、それに触れた人間は光とともに姿を消してしまい、次の瞬間には見たこともないような場所に立っていたというのだ。


 そこは異形の怪物がそこかしこを徘徊している、まるでゲームのような世界で、人々はその世界のことをダンジョンと呼ぶようになる。


 当初は多くの人間が興味本位でダンジョンに挑んだが、一年も経たないうちにそのようなことをする者は殆どいなくなった。


 理由は単純明快だ。中にいる異形の怪物――モンスターがあまりにも強すぎたからだ。


 ダンジョンの中に入った人間は、"スキル"という特殊能力に目覚める。


 だがそのスキルが、例えば小石を手を触れずに動かすとか、視力が二倍になるだとか、そんな微妙な能力ばかりなのだ。


 今のところチート級のスキルは一つも発見されていないし、しかもこれはダンジョンの中でしか発動できないときた。


 そして、ゲームのような世界だが、レベルやステータスといった概念は存在せず、苦労してモンスターを倒しても肉体やスキルが成長することはない。


 その上、どういうわけか武器類を持って魔法陣に触れるとダンジョンに入れないため、生身の体としょぼいスキルのみで熊や虎なんかよりも強いモンスターと戦わなければならず、大抵の人間はあっさりと命を落とす。


 ダンジョンのボスを倒せば、この世界には存在しない貴重なアイテムが手に入ったりもするが、命を懸けてまで挑むような場所ではない、というのが大衆の共通認識になったわけだ。


 魔法陣は人間しか通さないから、モンスターはダンジョンの中から出てこないし、今やどこの国でも半ば放置されているような状況だった。


 今では無法地帯であることを利用してあくどいことを考えているヤクザみたいな連中や、命知らずな動画配信者 (命知らずというかほぼ死ぬ)くらいしかダンジョンに入るような馬鹿はいない。



「こんな仕事、誰がやるっていうんだ? 俺にだけチート能力でもくれるなら話は別だがよー」


 まあ、どう考えてもホワイトカラーの俺には縁のない話だな。こんなもの見てないで早くちゃんとした仕事を探そう。


 そう思い再び求人検索に戻るが、結局めぼしいものは見つからなかった。


「はぁ……。少し休憩するか」


 椅子から立ち上がってベッドにダイブする。そしてそのままゴロゴロと転がりながらスマホをいじっていると、ふと新作ゲームの広告が目に入った。


 どうやら今日がちょうどサービス開始日で、スタートダッシュキャンペーンとして無料十連ガチャが引けるらしい。


「"異世界空戦記"ねぇ。ちょっとやってみるか? 気分転換になるかもしれないし」


 少しくらい現実逃避したって許されるだろう。明日から本気出せばなにも問題あるまい。


 俺は早速アプリをダウンロードして起動すると、特典の十連ガチャを引いてみた。







《あなたに対戦を申し込むプレイヤーが現れました。受諾しますか?》


 パソコンの画面に、対戦申請の通知が表示された。どうやら『伝説の七人レジェンズ』の第四席たるこのナユタ様に挑戦してくる無謀な輩がいるらしい。


「ふん、身の程知らずが。返り討ちにしてやるぜ」


 俺はマウスをクリックして、対戦の申し込みを受諾した。


 相手は全身を限定装備でガチガチに固めた、廃課金の戦士だった。だが、毎日18時間はログインしている俺の敵ではない。


《ぐ、ぐわあああーーっ! ば、馬鹿な!? ボーナスを全て費やして最強装備で固めた俺の攻撃が、全く通じないなんて……》


 一瞬で勝負が決まると、相手の戦士は絶望の悲鳴を上げた。


「ボーナスだと? 社会の歯車でしかないお前が、社会から解き放たれた俺と同じ土俵に立てるとでも思ったのか? 身の程を知れ」



:カッコいいこと言ってるようでただの無職じゃねーかw

:↑草

:課金戦士が一瞬で蒸発させられるとか、どんな廃人やねん……

:ナユタ強すぎワロタwww

:さすがは伝説の七人レジェンズの第四席様やで……

:こいつより上が三人もいるという事実w

:ナユタさん、俺だー! 結婚してくれー!



 俺と廃課金戦士の戦いを見守っていたギャラリーたちが、次々と称賛のコメントを書き込んでいる。


 ふっ、人気者は辛いぜ……。


 あれから二ヶ月、見事スタートダッシュを決めた俺は、無職の立場を利用して一日中ゲームに精を出していた。


 今ではゲーム内で『伝説の七人レジェンズ』なんて大仰な名前で呼ばれているプレイヤーの一人だ。


 クランのメンバーはみんな俺を崇め、敵は恐れをなして逃げていく。ネットの掲示板では『ナユタ強すぎワロタwww』なんて書き込みが日々飛び交っているほどだ。


「さて、今日のデイリークエストでもやるか――」


 ――ピンポ~ン。


 そう思いマウスに手を乗せようとした瞬間、不意に家のチャイムが鳴り、同時に扉がドンドンと叩かれた。


 一体誰だよ……とドアスコープから外の様子を覗き見ると、そこには小太りのおばちゃん――大家さんの姿があった。


 俺は恐る恐る扉を開けたが、大家さんの顔にいつもの温厚な表情はなく、怒りの形相で俺のことを睨みつけている。


「ちょっと朝霧さん! 今月のお家賃がまだ支払われないみたいだけど一体どういうことかしら?」


「あ、あー……それはその、えっと……」


 ソシャゲに課金しすぎて貯金が底をついてしまったなんて、口が裂けても言えるわけがない。


「とにかく、月末までに家賃払わなかったら出てってもらうからね!」


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 今月は少し厳しくて……!」


「今月ぅ? 会社を辞めたって風の噂で聞いたけど……?」


 くっ、もう情報が回っていたのか。まずい……。


「も、もうすぐ次の職場が見つかる予定なんです (大嘘)。だ、だからそれまでの間だけ待ってもらえませんか?」


「駄目よ! 若いんだから日雇いでもなんでもやれば、家賃くらいすぐに稼げるでしょう! とにかく期限は今月中! いいわね!」


 大家さんはそう言い切ると、バタンッと扉を閉めてドスドスと足音を立てながら去って行った。


「やべーぞ、どうしよう……」


 俺は冷や汗をダラダラと流しながら部屋の中をぐるぐると歩き回る。


 大家さんの言う通り、日雇いの仕事でもなんでもやるしかない。


 だが、日雇いの仕事なんて殆どが肉体労働だ。体力にあまり自信のない俺がやっていけるとは到底思えない。


 あたふたしながら必死にネットで求人サイトを検索していると、前にも一度見たことのある広告が俺の目に飛び込んできた。




『ダンジョン探索一回で100万! 未経験者歓迎! アットホームな職場です!』


 年齢、性別、国籍、経験不問

 業務内容:ダンジョンの探索の補助、荷物の運搬など

 給与:ダンジョンの探索一回につき100万 (日払い可)


・何度もダンジョン探索を成功させている会社だからこそ、初心者でも安心。

・装備レンタル無料。必要な道具は会社が貸し出します!

・業務の50%が運搬作業なので楽なお仕事です!

・あなたのスキルも無料で鑑定しちゃいます。もしかしたらあなたこそが激レアチートスキル持ちかも!?




 大勢の笑顔の若者たちがジャンプしている写真とともに、そんな謳い文句がデカデカと書かれている。


「…………」


 俺は謎の力に誘導されるかのように広告にカーソルを合わると、いつの間にかサイトの応募ボタンをクリックしていたのだった。

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