第二章 踏切(fumikiri)

 明日の家庭科の時間にエプロンを縫うはずだった妹尾せのおあんずの赤い糸は、その役目からすたさっさと逃げ出して、つぼね鞠子まりこの右の手の甲にドクロマークを作っていた。


「どう杏ちゃん、かわいいでしょ?」

 そう言ってへらへらと笑いながらドクロを見せびらかす彼女が左手に持っているのは、杏の手縫い針だ。赤い糸を通じて、薄皮の下にあるドクロの刺繍と繋がっている。机の周りに散乱する、裁ちきりバサミ、チャコペン、まち針、針山、そしてそれらが入っていたはずのプラスチックの裁縫ケースも、全て杏のもの。きちんと机の中に仕舞っていたのだけれど、その机すらも鞠子の椅子になっている。

「ドクロなんて可愛くないわ」

 杏が素知らぬ顔で言うと、鞠子は微笑んで、「じゃあ、はーとにする。はーとはかわいいよね?」

 そう言って、鞠子が手縫い針を手前に引くと、彼女の右手からするすると一筆書きのドクロが零れ落ちた。そしてそのまま手の甲に針を突き刺し、チクチクとハートを作っていく。

「それ、どれくらいかかるの」

「うーん、一分くらい? わかんない」

 南の太陽は、教室の窓と垂直に日光を降らす。すると光は窓に差さず、灯りの点いていない教室に昼の薄暗がりを作った。青空の下の薄暗がりは、長い黒髪を持つ鞠子によく似合っていた。彼女の内側も、きっとこの教室とよく似合う薄暗がりだろう。


 時刻は十三時四十五分。昼休みが終わり、五限目が始まって十分が経過した。五限目は移動教室で、音楽の時間だ。なのにいつまでも音楽室に訪れない鞠子を訝しんだ教師が、杏に彼女を探しに向かわせた。


 杏はなんとなく言った。

「また、私?」

 するとクラスメイトの一人である九条千鶴ちづるが何でもない風な顔をして、「だって、杏は局さんのお世話係でしょ?」

 ウサギやニワトリのそれと同じように。まるで餌やりを忘れていたことを、親切に教えるように。千鶴は「お世話係」と言った。

 とても人に使っていい響きとは思えない。けれど、慣れとは恐ろしいもので、杏は「そうね」とだけ言って、教室に蜻蛉返りした。


 一分後には刺繍が終わる。

 裁縫セットの片づけに一分。音楽室は少し離れているので、それも加味して三分後、授業に戻らなくてはならない。

 めんどうくさいな、と杏は思う。音楽は好きじゃない。聞くだけなら、まだ堪えられる。しかし、自分で歌ったり、楽器を演奏したりというのは、どうにも肌が粟立ってしまう。きっと、小学二年生の時にピアノ教室から逃げ出したからだ。電話越しにピアノ教室の先生へ謝罪を繰り返す母親の姿は、杏に一種のトラウマのようなものを背負わせた。

 それ以来、杏は静寂を好むようになった。音楽よりも絵画が好きで、雨よりも晴れが好き。

 きっと、家の近くに踏切があるのも悪影響だった。家と空気が震え、睡眠を妨害される。杏の嫌な思い出は、たいていが騒音と共にある。

 そして静かな方へ、静かな方へと、社会に属するならば正気ではいられない生き方を選んだ杏は、最終的に鞠子を押し付けられた。鞠子もまた、社会的動物らしからぬ生き方をしていたのだ。


「……薔薇の方が可愛いわ」

 ハートマークが半分ほどできた頃、つい口をついて出てしまった。ハートマークよりも複雑で、時間のかかりそうなもの。彼女の相手をする手間、それによって生まれる無駄な時間こそが、お世話係の唯一の役得だ。彼女が関わると、誰もが「仕方ない」と言う。

 鞠子は杏の方に自らの静謐せいひつな顔を向けると相好を崩して、「確かに、ばらもかわいい」

 すると、また手の甲から赤い糸を引き抜いて、新しく刺繍を施していく。きっと、美しい薔薇の刺繍だ。すぐに元に戻せるという点で、タトゥーやピアスホールよりも人体への影響は少なそうに思えるが、恐らくそれらよりも不健全なお洒落。

 杏は、自らに手縫い針を突き立てようとは思わないが、鞠子の作るそれを見るのは好きだった。鞠子は手先が器用で、ドクロもハートも、薔薇すらもすいすいと作ってしまう。非凡な才能だ。将来はそれを活かして、アーティストや芸術家といった方面で活躍するのかもしれない。少なくとも、営業や事務仕事、接客なんていう──社会的な──仕事よりかは似合っている。


 杏はクラスメイトの適当な椅子に座ると、頬杖を突いて鞠子の様子を窺った。赤い薔薇が出来上がるのを待つためだ。それから少し考え事をすると立ち上がって、鞠子の二つ前の席に、椅子を反対にして座った。机を一つ挟んで対面する形だ。すると鞠子がこちらに向かって微笑みかけるので、「集中して」と言って適度に早い完成を促す。音楽の時間を休めるのは結構なことだが、罪悪感は拭えない。それこそズル休みをしたときの焦燥感に似ている。だから適度に、素早く。鞠子のせい、で自分が納得できる範囲で。

「窓開けてもいい?」

 杏は鞠子に問いかける。

「いいよー」

 針先から目を逸らさずに鞠子が答える。既に花柄とがくが出来上がっており、いよいよ花弁に取り掛かろうとしていた。

 窓を開ける。

 吹き込んだ五月中旬の風に、春の残り香は少ない。もうすぐ、梅雨が訪れる。梅雨前の空気は独特なを持っていて、とても好きにはなれない。一方で、鞠子は梅雨が好きらしい。具体的な理由は教えてくれなかったが、どうやらいつかの梅雨の日に、何かしらのをしたことがきっかけのようだ。


 それが何なのか、ほんの少しだけ興味がある。自己中心的で、他者からの干渉をほとんど寄せ付けない鞠子が、自らの好みを変えるほどの出会いを果たした。いったい、何と?

 梅雨についての話をしたのは去年の十月ごろ。つまり、今年は話を聞いてから初めての梅雨になる。正直なところ、ほんの少しだけ、梅雨が待ち遠しかった。それが杏にも訪れるという確証は全くないが、可能性があるのと無いのとでは、心の持ちようが全く違う。

「もう少しね……」

 杏は窓の外を見て、目を細めながら言った。青空が広く占める一方、先の方には分厚く白い雲が点々とあり、いずれの雨天を予感させる。

「うん、もう少し」

 杏はそれ聞いて、鞠子の右手を覗くと、そこには美しく花開いた深紅の薔薇が咲いていた。いつの間に、そんなに時間が経っていたのか。驚きながら時計に目をやる。時刻は十三時五十二分を指す。結局、そんなに時間は稼げなかった。


 杏はぐっと伸びをした。

「じゃあ、片付けをして、音楽室に行きましょう」

「えー、移動するのめんどい」

「義務教育だから仕方ないでしょ?」

「ぎむって何? 意味わかんない。頼んでない」

 また風が吹いた。薔薇の花弁から垂れる赤い糸が揺れる。

「頼むとか、そうゆうことじゃないの。呼吸と同じで、したくてすることじゃなくて、しないといけないことなのよ」

「私は、呼吸したくて呼吸してる。杏は違うの? 呼吸したくないの?」

「そういう意味じゃ……」

 否定の言葉が喉元まで出かかって、杏はそこで言葉にするのを止めた。代わりに、「呼吸は適切な例えじゃなかったわ」とだけ言って、裁縫セットを片付け始めた。その間、鞠子は床を這う杏に興味を示さず、自らが咲かせた薔薇に見惚れていた。


 杏は思う。

 鞠子とはとことん話が合わない。

 鞠子は杏の言葉を自分のいいように解釈し、杏もまた諦念でもってそれに合わせる。「もう少し」は刺繍ではなく梅雨のことだ。呼吸をしたい、したくないは話の趣旨じゃない。鞠子に近い席に座り直したことだって、彼女は微笑んだが、そんなことはどうでもよかった。たまたま、好きな男の子の席がそこだっただけだ。


 名前は宇井晴翔という。陸上部で、背はクラスで三番目に高い、優しい顔をした男の子だ。


 ☔︎☔︎☔︎


 晴翔に惚れた理由に、特別なエピソードはない。強いていえば、中学一年生の時、秋の運動会でクラス対抗リレーのアンカーを任された彼が、先行く三人をごぼう抜きし、見事に逆転勝利を収めたことだろう。杏はそれを側から見ていた大勢のうちの一人に過ぎなかった。

 その日から、杏の中で宇井晴翔という個人の輪郭が徐々に出来上がってきた。

 足が速い。

 背が高い。

 柔らかな顔。

 そして、どことなく達観したような大人びた態度。何かしらの通過儀礼を一足先に終えたような雰囲気が、彼にはあった。

 クラスメイトとしてではなく、恋愛対象として晴翔を観察すると、彼に少なからずの好意を抱いている女子が、やはり少なくない人数いることに気づく。

 一般的な中学生がモテるのに、財力はほとんど関係ない。あればモテるが、必須ではない。そして、晴翔は財力以外の魅力を多く備えていた。その一級品の釣り針に、杏はまんまと食らいつく。

 しかし、晴翔が竿を引くことはなかった。

晴翔がアプローチしていたのは、杏でもなければ、その他の好意を向けていた彼女たちでもない。

 豊臣雨音という、おさげ髪で、丸メガネをかけた、いつも気怠そうな子だ。雨音は杏や晴翔とは別のクラスだったが、晴翔はよく休み時間に彼女に会いに行っていた。一緒に帰るところを目撃したことも何度かある。特に雨の日に、一緒に帰っていたように思う。


 色々と意識する前はなんとも思わなかったが、二年生にあがる頃には明確に、嫉妬心が湧いた。


 もっと早くに出会っていれば! という感情は、見当違いであると分かっている。なんでも、二人は小学生の頃からの付き合いで、家も近いようだ。もしかしたら幼馴染なのかもしれない(小学五年生の時に雨音が引っ越してきたという噂もある)。一緒に帰るのは、その影響だろう。

 もちろんそれだけが、恋愛の決め手になるとは言わない。しかし少なくとも、雨音は一つか二つ有利な立場にいて、実際に晴翔の好意は彼女に向いている。

 ここからの逆転には、相応の努力が必要だろう。

 けれどそこに費やされるはずだった生命力は、鞠子に吸い尽くされて灰になった。

 お世話係の陰口が定着してきたのも、ちょうど秋の運動会のころだ。人混みが嫌いだからと、グラウンドの外に逃げようとする鞠子に終日付きまとい、なんとか学校に留めようとしていた様子が決定打となった。

 結局、晴翔の走りに目を奪われているうちに、逃げられてしまったのだけれど。


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 逃げ出した鞠子が向かったのは、男子野球部の部室だった。

 運動会は嫌いだ。見知らぬ大人たちに、疲れ、汗をかき、喘ぎ、暖かな息を吐くところなど見せたくない。同年代のそれらも見たくない。

 杏の言葉が頭に残る。

「学校に居さえすればいい」

 ああ、そうか。

 鞠子が学校から消えても、運動会が学校から消えても、結果は同じだ。

 そして、鞠子は学校に居なくては。

 杏がそう言ったから。


 鞠子は金属バットを手に取って、職員室に向かった。


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 杏が音楽室に入ると、教師が真っ先に「遅い!」と声を荒げたが、続いて入室した鞠子が、へらへらと笑いながら右手の薔薇を見せびらかすと押し黙った。彼女はそのまましばらく無言でいたが、千鶴から「先生」と呼ばれると、ハッとした様子で二人に早く座るよう命じた。

 きっと、鞠子に対するトラウマが刺激されたのだろう。

 二人の席は端の方にポツリとあった。二つ仲良く並んでいる。鞠子は小走りに奥の方へ座ると、杏はその隣に静かに着く。本来の席ではないはずだが、どうしてか鞠子のこととなると勝手な席替えも許されていた。

 教科書を開く。鞠子は当然のように持っていなかったので、机をくっつけて二人で見る。指定されたページには、滝廉太郎の『荒城の月』が載っていた。

 教師は、「せっかく全員がそろったので、もう一度聞きます」と言って、杏と鞠子にプリントを配った。プリントには長方形の記入欄が二つある。そして二人にだけ聞かせるようの小さな声で、「上の欄には、自分の感想を書いてください。下の欄には、何人かでグループを作って、そのお友達の感想を書いてください。あとでそれぞれのグループに、どんな感想があったのか聞きますから」

 周りを見渡すと、既に多くの人が自分の感想欄に何かしらを書いていたが、下はまだ空白だった。これからグループをつくる、というところで二人が到着したらしい。

 杏はそのまま、晴翔に目を向けた。端正、とはいえないまでも、十分に整った横顔だ。右の目の下に黒子があるな、なんて思う。朝には寝ぐせが飛び出していたが、いつの間にかといていたらしい。色々なところに目がいくのは、さっきの今で意識しているからだろう。晴翔の席に座ったこと。だから何だと言われれば押し黙るしかない。けれど中学生で、初恋なのだ。それだけでも、心音は煩くなる。


 すると、突然に『荒城の月』が流れ出し、杏はハッとして教科書に目を落とした。

 寂しげなメロディーに始まり、『春高楼の花の宴──』と、力強い女声が響く。

 仕方なく、集中して歌詞を追うが、意味はよく分からない。目で見ても、音で聞いてもだ。

この古めかしい言い回しを読み取るには、知識が足りないのだろう。それを得るための授業であり、さらにはあくまで感想であるから正解を導く必要もないと分かってはいるが、不正解と分かっていて書き込むのも気が引ける。

 結局、杏が何も書けないうちに、『荒城の月』は終わってしまった。

「さあ、グループを作って」と、教師が全体に促す。

 ああ、どうしよう、何も書けていないのに! そんな考えで固まっているうちに、周りはどんどんとグループを作る。

 そのうちに、杏は気づいた。別に何も書かなくてもいいと。

 どうせ、グループの相手は鞠子だ。彼女は感想など書かないし、それを共有するつもりもないだろう。

 案の定、杏は鞠子と二人きりのグループを作り、周りが『荒城の月』の話をする中、全く関係の無い話(最近、鞠子の母親の帰りが遅いとか、なのに父親は無関心だとか、そんな話)に終始した。教師も、わざわざこの問題児グループを晒上げて感想を聞こうとはしなかった。

 代わりに選ばれたのは、晴翔のいるグループだった。

 何名かが教科書の解説をそのまま写したような、とても中学生らしからぬ感想を残したが、晴翔は、「歌詞の意味はよく分からないけど、どこか寂し気な感じがした」と言った。

 それは杏の、言葉にできなかった感想そのものだった。

 ああ書けばよかったのか、と感心し、心酔し、

 この程度のきっかけでよいのだろうか、と自問自答する。別にいいだろう、とすぐに答えが返ってくる。諦念はすでに彼方に吹っ飛んだ。

 本気で、彼に、恋をする。

 その為には、枷を外さなくては。生命力を取り戻さなくては。

 杏はちらりと鞠子を見た。その右の手の甲にある、深紅の薔薇を。それを形作るのは、明日の家庭科で使うはずだったもの。

 杏の赤い糸は、鞠子に囚われている。


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 六月八日、例年とほとんど変わらない頃合いに、梅雨入りが発表された。

 けれど、もう杏に前ほどの興味はない。傘を毎日持って行かなきゃな、と思う程度。あとはうるさい雨音あまおとへの忌避感情か。

 元々、鞠子の体験したという奇跡に対して持っていた興味であったので、鞠子そのものへの関心が薄まれば、おのずとそちらも失せる。


 鞠子のお世話係を辞める。


 そう決意したのは、もう二週間以上も前だ。その間、行動を起こせなかったわけではない。杏の持つ粗末なコミュニケーション能力では、人を遠ざけることすらままならなかったのだ。


「今は、ちょっと時間がないから」と言えば、鞠子はいくらでも杏を待った。

「それはできない」と否定すれば、鞠子は簡単に従った。

「今日は話しかけてこないで」と遠ざければ、次の日に笑顔を向けてきた。

 鞠子は、杏に対しては比較的従順だった。それでいて、他の者には(教師や、親であろうとも)従わない。反発し、喚き、逃げ出す。その度に杏は駆り出され、結局は鞠子と関わることになる。

 杏は鞠子とは反対に、教師や親に従順だ。昔はもっと我儘に振舞っていた筈だが、中学生になってからはもっぱらこれだ。恐らく、ピアノ教室を休んだのが最後の反発だった。


 杏は作戦を変更することにした。

 徐々にフェードアウトしていくのではなく、一撃で、バッサリと関係を断つ。

 鞠子に長い時間はかけられない。中学生でいられる期間はあと二年も無く、晴翔と同じ高校に行けるとも限らない。恋人として一年間の季節のイベントを楽しむことや、そもそも恋人になる為の晴翔へのアプローチに必要な時間も加味して、少なくとも、梅雨のうちに離れるきっかけを作りたい。



「ねえ、鞠子、ちょっといい?」

「んー、なにー、杏ちゃん」

 黒板消しクリーナーを止めながら、鞠子は適当な調子で返事をする。

 時刻は十四時三十五分。

 掃除も終盤に差し掛かり、何名かのクラスメイトが机を元の位置に戻そうとして、その重量に喘いでいる。机の中には教科書やノートが詰まっており、加えて椅子も上に載せているので、それなりの重さがあるのだ。

 それでも、ほとんどの生徒がしっかりと持ち上げて机を運んでいた。果たして、「床を傷つけないように」なんて美化意識があるのかは定かではないが。


 鞠子の掃除当番は黒板だった。それはこだわりの強い彼女にはぴったりの仕事で、掃除の後にある六限目の授業では、いつも教師のチョーク捌きが活き活きとしている、ような気がする。

 とにかく、それほどに綺麗になる。消してはいけない今日の当番や、赤で書かれた連絡事項も全て消える。前に一度、注意したことがあるが無意味だった。彼女の所属するこの二年三組ならば、そういったことは各自で管理しなくてはならない。明日は三限目が国語から数学に変更。今日の当番は宇井晴翔と九条千鶴。


「ちょっと、ゴミを捨てに行くのに付いてきてくれない? ゴミ捨て場が外にあるから、傘で雨から守って欲しいの」

 杏はゴミ袋の口を閉じて、ぐいっと引っ張る。

 青いプラスチックのゴミ箱から引き抜いたビニール袋は、にわかに膨らんで、ずっしりとした重さを感じさせた。それでも、机(と教科書とノートと椅子)よりかは軽い。小柄な杏は机を下げるのもままならないので、こうして別の仕事を与えられている。

 二年三組の教室は、東校舎の二階にある。溜まったゴミを纏めておくゴミ捨て場は、中庭を挟んで鎮座する西校舎の、さらに裏手にある。それなりの距離があるが、友人とわいわい話しながら行けばすぐに着く。そこでは教師の監視の目も届かないので、掃除を平然とサボっていても咎められることはほとんどない。

 なので、普段はそれなりに人気な役どころではあるのだが、梅雨になると途端に避けられるようになってしまう。東校舎からゴミ捨て場までの約百メートルに、屋根が全くないからだ。

 今日は特に雨足が激しい。一緒に行こう、というのは断られても当然の誘いだった。


「いいよお」

 けれど鞠子は、素直に杏の後を付いてきた。もちろん、二年三組の不要物が詰まった、このゴミ袋を一緒に持つなんてことはしない。一度頼んでみたけれど、「汚いから嫌だ」と断られてしまった。

 それでも約束通り、道中では傘を差してくれた。鞠子の傘は、いっそ痛々しいほどの赤色だった。

「私の傘の方が大きいわ」

 杏が傘立てに刺さっている、透明なビニール傘を顎で指して言う。鞠子はそれに、首を振った。

「赤じゃなきゃ、だめ。赤い傘じゃないと、奇跡は起きない」

 その返答はよく意味の分からないものだったが、とにかく自分の傘でないとダメらしい。譲る気はないという、硬い意志がその若干釣り目な瞳から窺える。

 杏は仕方なしに左肩を濡らし、鞠子は進んで右肩を濡らした。


 ゴミ捨て場に着くと、先に来ていた別クラスの生徒がちょうど帰るところだった。ゴミ捨て場の中を覗くと、既に十分な量のゴミ袋が溜まっており、どうやら杏たちが最後のクラスのようだった。

 上からゴミを詰め込んで、無理やり蓋を閉める。ぐしゃぐしゃと嫌な音がしたけれど、もう一度開ける気は起きなかった。

 ふう、と一息ついて辺りを見回す。

 雨粒がアスファルトにぶつかり、崩壊し、薄く張った水たまりに溶け込んでいる。西校舎の騒がしさも雨音で掻き消え、より鞠子との二人きりを際立たせる。


 実のところ、杏は最初から、他に人がいなくなるまで待つつもりだった。

 鞠子と二人きりで話がしたかった。

 ここでなら教師の目も無く、自由に会話が可能だ。それに、チャイムが鳴るまで待てば、勝手に人払いが済む。掃除が終わればすぐに六限目が始まるので、教師に怒られたくないまともな生徒なら、チャイムと同時に早足で帰る。


 結局、こんなふうに色々と考えたことは無駄になったが、ともあれ欲しかった状況は揃った。二人きりでなくては、杏の告白を聞いた鞠子が何をするかわからない。

 生唾を飲む。手を強く握り込んで、開く。

 改めて、思う。雨がうるさい。


「話があるの、鞠子。実はあなたのことが嫌いだったの。ずっと言えなかったけれど。いつも鬱陶しいと思ってた。それも今日でおしまい。これからはあなたに話しかけないし、取りあわない。それだけ。ごめんなさいね。さようなら」


 声が震える前に、一息に言い切った。言葉を全て吐き終えても、杏は息を吸えずにいた。

 きちんと言葉になっていたか、自信はない。杏の目線は鞠子の胸元に注がれていた。傘の持ち手を握る鞠子の手はピタリと静止している。表情を見るのが怖かった。これまでにも鞠子の意志を拒絶したことはあるが、たいていは別の道を示すことで中和していた。

 ドクロではなくハート。ハートではなく薔薇。といったふうに。

 けれど、今回は違う。真っ向から鞠子を突っぱねた。それによって吹き荒れるジェノサイドは想像もできない。まるで伸びきった輪ゴムをそのまま離したように、収縮の衝撃は鞠子を中心として全方位に広がる。

 かつて、それが実際に起こった。


 金属バットを持った鞠子が、職員室の窓を次々と叩き割った、一年前の運動会で起きた事件を思い出す。


 鞠子はバットを振る度に低く唸り、頭に降り注ぐガラスも気にしない。眼光は鋭く、瞳は血走り、まるで獣のようだった。一足早く異変に気づいた女教師が止めに入ったが、無駄だった。鞠子は教師の二の腕めがけてバットを振り抜き、うずくまる彼女の顔の前でひらひらと手を振って挑発した。その後、バットの持ち手で何度も教師の頭を小突いていると、騒ぎを聞きつけた三人の男(父兄が二人、教師が一人)に囲まれ、あっけなく捕まった。女教師は音楽の専攻だった。


 杏が晴翔に見惚れず、最後まで鞠子を見張っていれば防げたかもしれない。

 そんな雰囲気がクラスに流れていた。杏もそう思った。だから、彼女のお世話係になった。なるしかなかった。


 あれが繰り返される、かもしれない。

 人払いなど最低限の対策だ。彼女の持つ傘が、いつ凶器になるか。その矛先が、杏だけなら、まだいい。

 もしも鞠子が、この拒絶の理由が晴翔への恋愛感情だと知ったなら。

 胸中を不安が渦巻く。

 雨足がさらに強まる。風も吹いてきた。スカートが濡れて気持ちが悪い。

 そして、鞠子は呆気なく言った。


「そう」


 頭の上から傘が消える。杏の全身が俄かに濡れだし、雨は痛みすら感じた。

 鞠子はてくてくと、東校舎に向けて歩を進める。

 杏はしばらく呆然と雨に降られていた。

 辛うじて動く手で鼻を覆う。

 くしゅん、と。

 身体から大切な何かが抜けたような虚脱感に、身を震わせる。どうやら風邪を引いたらしい。

 杏は仕方なく、保健室に向かった。


 ☔︎☔︎☔︎


 杏は体操服に着替えた。今日は体育が無く、自分の体操服を持っていなかったので、保健室に備えてあったものを借りた。少し古い匂いがした。

 ぴぴぴ、と脇で体温計が音を鳴らす。ちらりと見る。三七・四度。微熱だ。けれど脳の気怠さは、三八度以上はありそうなほど、ぐるぐると妖しく渦巻いている。

 養護教諭に、「どうしてずぶ濡れになっていたの?」と聞かれたけれど、しらばっくれて、とにかく早退したい、とだけ言った。実際、熱はあるのだ。これを無碍にするのは、今の時代に相応しくないだろう。

 

 予想通り、杏は早退することになった。父が迎えに来るらしい。それまで保健室のベッドで横になっておく。父の運転は荒っぽいので、正直なところ雨の日にはあまり乗りたくない。

 けれど、父は仕事を抜け出して杏の下へ駆けつけるのだ。そこには感謝すべきで、文句を言うべきじゃないと分かっている。たとえうわ言でも、母が良かった、なんて言わないように気を付けなければ。

 最近、両親の仲が悪い。平日に帰りが遅いとか、そんなことで母が父に浮気の疑いをかけ、父はそれに反発して母への信頼を失くしていた。そこに余計な石を投げ込めば、より不穏な方向へ話が飛躍するかもしれない。

「離婚したら、秋津杏、か」

 果たして、二人は離婚するのだろうか。もしも離婚するなら、母と暮らしたい。しかし母の秋津姓で発したフルネームはしっくり来ず、続けて「妹尾杏」と呟くと、口の中が収まり良く、やっぱり離婚はして欲しくないなとぼんやり思う。

 けれど、それは一種の馴れだろう。きっと、三年も経てば秋津杏もすらすらと言えるようになる。いや、たとえ秋津でなくとも、どんな苗字だとしても。

「……宇井杏」

 初めて口に出したその並びは、やはり気持ちが悪い。これも繰り返せばいつかは馴れるのだろうか? 

 布団を頭から被る。

 寒気がする。

 顔が熱を帯びている。

 暑い。

 途端に、杏は眠気に襲われた。


 ☔︎☔︎☔︎


 夢を見た。教会にいた。ウェディングドレスを着ていた。

 相手は誰だろう。わからない。のっぺらぼうだ。

 神父が語る。何を? きっと、とてもつまらないことを。


 ☔︎☔︎☔︎


 杏を起こしたのは、コンコンと扉をノックする音だ。

 新たな病人だろう。養護教諭が対応すると思ったが、彼女の返事は無く、代わりにまたノックが響いた。

 そういえば、と茹だる頭で思い起こす。

 電話だ。養護教諭の一世代前のアイフォンに、どこからか電話がかかってきたのだ。そこに映った名前に彼女は顔を綻ばせると、「すぐに戻るから」と言って出て行った。

 あれは、何分前の出来事だろう。よく分からない。明らかに、病態は悪化している。

 もう一度、ノックが響く。わざわざ杏が応対する必要はないだろう。杏は病人で、ここの主は留守なのだから。

 そうして布団をかぶり直そうとした矢先、中学生男子特有の不安定な声で、「まいったな。妹尾さん、もう帰ったのか?」


 宇井晴翔だ。すぐに気づいた。彼が扉の向こうにいる。

 杏は慌てて、「いる。いるわ。私はいる」

「ああ、そっか。よかった。早退するんでしょ? 教室に置きっぱだった荷物、まとめたから」

 晴翔はそう言って、保健室の扉を開けようとした。杏はその事に気づいて、「待って」と声を荒げる。ほんの少しだけ開いたまま、ピタリと静止する。

「──まって。風邪を引いてるかもしれないの。うつしたら悪いから、そこに置いておいて」

 すると、晴翔は素直に扉を(ゆっくりと)閉めて、「分かった。お大事に」


 保健室の窓に雨が打ち、断続的に音が炸裂している。

 杏は静寂が好きだ。なのに、その音は気にならなかった。というより、どうでもよかった。

 静寂よりも好きなものが、扉一枚を隔てたそこにいたのだ。

 けれど、心音ばかりは我慢ならない。必死に諌めようと胸に手を置いて、ぎゅっと力を込めるが、簡単には止まらない。

 その時、ちょうど養護教諭が帰ってきた。まるで自分の心音が、呼び鈴のように彼女を呼び寄せたみたいで、恥ずかしくなった。彼女の手には黒色のスクールバッグが提げられている。

「廊下に置いてあったけど、これってあなたの荷物?」

「……はい」

「そう。ちょうど良かったわ。妹尾さんが迎えに来てくれたわよ」


 最初、言葉の意味が分からず呆然としていると、保健室の扉が開いて、父が顔をのぞかせた。剣呑な雰囲気で、眉間には皺が寄っていた。

 父は憮然とした面持ちで、養護教諭からスクールバッグを奪うと、それを杏に投げて言った。

「ほら、早く帰るぞ」

 そして、くるりときびすを返し、そそくさと部屋を後にする。あんなに落ち着きのない様子の父を見るのは久しぶりだった。

 まだ乾ききっていない制服をビニール袋に詰め、スクールバッグと一緒に持つ。父の背を追って、足早に保健室を出た。

「またね、杏さん。お大事に」

 養護教諭は手を振って、杏を見送った。

 彼女の名前は畑野麗子。27歳で、独身。

 畑野杏、と思い浮かべて、とっさに頭を振る。それだけはない。きっと、熱のせいで頭が変になっている。


 ☔︎☔︎☔︎


 ワイパーの速度は最高速で、いっそ雨よりも邪魔なくらいだった。

 それほどに雨が強い、というわけではない。強いは強いが、川の氾濫や土砂崩れが起きるというほどでもない。助手席から覗くフロントガラスは、どちらかというと父の運転の粗悪さが滲み出る光景だった。

「聞いたぞ、なんで傘も差さずに外に出たんだ」

 父が強めにブレーキを踏みながら尋ねる。シートベルトが食い込んで痛い。信号が青になっても急発進だ。

「何でもいいでしょ」

「何でもよくねぇよ。その為に課長に頭下げて抜けさせてもらったんだぞ?」

 父は語気を強めて、杏を非難する。そんなふうな態度ができるなら俺が来なくてよかっただろ。どうせ濡れてんだから、そのまま歩いて帰ればよかったのに。タダ飯食らいが。息をするな。風邪がうつる。


 陸橋を降りた先で、ぐるりと急旋回して脇道に入る。強力な遠心力に頭が揺さぶられ、ガンッと窓にぶつけた。ズキズキとした鈍い痛みに、思わず目尻に涙が溜まる。父はそんな杏を一瞥しただけで、何の心配の言葉もかけずに、平然と危険運転を続けた。車間距離が近づく度に急ブレーキをかけるような、免許を持たない杏にも下手に思える運転だった。

 やっぱり、母に迎えに来てもらいたかった。

 けれどそれは、雨の中を二人乗りの自転車で往くことを意味する。妹尾家は夫婦共働きだが、車は父が若い頃に無理して買ったというグレーのセダン一台しかない。(なのに、貯金は一向に溜まる気配がない。誰が何に使っているのか、杏は良く知らない。)体調不良の杏が頼るべきはどちらか。答えは明白で、ならばこの程度の責め苦には堪えなくては。


 雨に降られた自分が悪い。熱を出した自分が悪い。けれど、それは必要な犠牲だった。自分の人生を変えるための、捨てるべき安息だ。鞠子と一緒にいれば、父と二人きりになることはなかっただろう。それでも、掴みたい未来があったのだ。その選択の一端が、保健室で垣間見えた。

 晴翔の声を思い出す。

 好意が無いなら、あんな行動はしないだろう。少なくとも、嫌われてはいない。

 あるいは、誰にでも優しいだけなのかもしれない。それはそれで、いい。

 窓に寄り添って、その冷たさで頭を冷やす。水滴で見にくいサイドミラーに映った自分の表情はだらしなく綻んでいて、気味が悪くって仕方がない。

「あっ……」

 思わず、声が漏れた。見覚えのある表情だったからだ。

 養護教諭、畑野麗子が電話相手に見せたあの表情。

 彼女も恋をしていたのだろうか。ぼんやりと、その時の情景を心に浮かべ、やはりそうだと確信する。

 杏は、彼女に何も話さなかったことを少しばかり後悔した。

 一人で抱え込む恋愛ほど成功しないものはない。大事なのは、情報と客観的意見。それから気持ちの整理。いずれも、一人では難しいことだ。杏には兄弟姉妹がおらず、父は言わずもがな。クラスメイトとは疎遠で、浮気疑惑に心痛の母にはとても相談できない。

 今度、保健室を尋ねてみよう。病人としてではなく、相談者として。確か、保健室では健康面に留まらず、友人関係や家庭関係、その他のささいな相談事も受け付けていたはずだ。それを実際に利用したという話はあまり聞かないが、確かにそんなふうなことが書いてある張り紙を見た。

 未来への期待に、杏は胸を膨らませる。それだけで、全てが救われたような気になって、父の悪態も、鞠子に向けるべきだった罪悪感も気にならない。


 ☔︎☔︎☔︎


 杏は、自分がとても強くなったような錯覚を起こした。

 まるで炎の巨人だ。

 手で曇天を薙ぎ払い、雨を蒸発させ、学校を、家屋を、セダンを踏みつぶして前に進む。

 辺り一面が廃屋になり、木々は燃え、街は終わった。

 死の荒野だ。

 足元を見ると、誰かが死んでいるのが見える。身体が焦げ臭くなり、炭化した酸素に肺は満足していない。焼死か、窒息死。いったい、どちらが原因で死んだのだろうか。

 死について考えるのは久しぶりで、思考が上手くまとまらない。ただ、彼女の死に方は、どちらでもないような気がする。彼女に似合うのはきっと、赤い糸を首に巻いて、重力に身を任し、自重で無理やり頸椎を捻るような──


 そんな思考を遮って、電子音が鼓膜を打った。


 ☔︎☔︎☔︎


 熱のある時に見る夢は、どれも最悪で、目覚めが悪い。

 杏はウトウトとした様子で、窓に当たる雨の行方を追う。雨粒は一瞬だけ円環を作ると、別の雨粒と混じって大きくなり、そのまま横に流れて消えた。

 全ての雨がそのようにして死んでいくのかと、興味とまではいかない思考の端くれが産まれたが、父に頭を小突かれて霧散した。

「電話だ。出ろ」

 父の手にはアイフォンが握られていた。ひびの入った液晶には、母の名前が載っている。けたたましい電子音を響かせ、空間を超えてどこかと繋がるのを待っているようだった。

「もしもし、お母さん」

 ──杏? 熱は大丈夫? あの人はどうしたの?

「うん、熱はあるけど、咳はあんまりしないから、大丈夫。お父さんは運転中」

 ──そう。ならいいけど。私も、今日は早めに帰るから。きちんと寝て、すぐ良くなりなさいね。

「うん。わかった」 


 すると母は少しばかり間を置いて、緊張した様子のひそひそ声で言った。


 ──いま、あの人は運転中なのよね?

「……そう、だけど」

 ──杏。お願いがあるの。そのスマホの連絡帳か、ラインを調べて。

「えっ?」

 ──カズキって名前よ。男の名前に設定してるけど、たぶんと違う。この前、あの人が通話してるのを聞いたの。女の声だった。けど、問い詰めたら男の同僚だって。そうやって隠すってことは、もうそういうことじゃない。お願い、あの人の秘密を暴いて。

「待って。なんで私が──」

 ──チャンスなの。あの人のスマホ、パスワード分からないし、顔認証も切ってるみたいだから、寝てる間にも確かめられなかった。通話が続いてるフリをして、そのままカズキにメッセージを送って。気づいてるぞ、って。警戒させるの。浮気相手なら、それでひるむ。そうじゃないなら、何も起きない。これは不幸になるべき人間しか不幸にならない。だから、お願い、杏。


 そこで、通話はぷつりと切れた。耳から離してしまいそうになるのをぐっと堪えて、会話を続ける。

「うん。わかってる。お母さんは心配症だから」

 ──。

「うん、うん、そうだね」

 ──。

「わかった。ちょっと待ってて」


 杏は体を捩って後ろを向くと、後方座席から自分のスクールバッグをとった。

「どうした?」

 父の声に、思わず身体がピクリと震えた。居直って父の顔を見ると、どうやら杏を不信に思っているわけではないようだが、どこか気に入らない様子だった。

「勝手に動くな。菌を巻き散らすな」

「ごめんなさい。お母さんが、私のバッグに手帳が混ざってないかって」

「手帳?」父は嘲るように笑って、「ああ、あの手帳ね」

 杏はそれに不快感を覚えた。けれど、口にはしない。言葉に変換したところで意味が無い。意味を持つのは、言葉ではなく、行動だ。

 バッグを開く。探し物をするフリをして、父のアイフォンを中に突っ込む。こうして隠せば、どう操作してもバレないはずだ。

 杏はまず、ラインを開いた。検索欄にカズキと入力したが誰も出てこず、すぐに諦めた。あまり長い時間こうしていると、父に不信がられてしまう。

 続けて、電話アプリを開く。真っ先に網膜に飛び込んできた履歴欄に、彼女はいた。

 カズキ。

 つい、十数分前だ。まだ杏が保健室に居て、恐らく眠る直前。

 あの時、ちょうどそのくらいの時間に、電話を受けている人がいた。

 最悪が、柔らかな輪郭を成して脳に立ち上がる。

 確かめなくては。

 杏は指を震わせながら、液晶に触れる。

 発信。


 ──もしもし、妹尾さん。もう、杏ちゃんはもう送ったの?

 

 畑野麗子だ。

 ついさっき聞いたばかりの声を、間違うはずもない。確かにカズキは、畑野麗子の声をしていた。

「……ほんとに?」

「おい、なにしてる」

 父が何かに気づいた。ぐっと左手が伸びてきて、スクールバッグを取り上げられる。

「待って、返して!」

 父は返事をせずに、バッグを無造作に漁ってスマホを取り出した。画面を見ると、すぐに通話を終了させ、杏を睨みつける。

「……お前、ふざんけなよ。おい」

 どすの効いた低い声に、思わず気圧されそうになる。それでも杏は、母の顔を思い浮かべ、勇気を奮い立たせた。

「……浮気」

「あ?」

「浮気、してたの? 畑野先生と」

 父は舌打ちをした。

「だったら、なんだ。先に疑ってきたのはお前らだろうが。自分を信用しない人間と一緒に暮らすことが──いつ、裏切られるか分からない不安が──どれだけのストレスか知らねぇだろ」

「そんなストレス、実際に裏切られた人に比べたらこれっぽっちも痛くないでしょ!」

「俺の金で飯食ってるくせに、偉そうに。お前らがやってきたのはな、無自覚DVって言うんだよ。お前らに金を使ったって、返ってくるものが一つでもあったか? 言葉すら無かっただろうが!? 

 無駄にしない金の使い道を知ったんだ。離婚も慰謝料も、必要な犠牲だ。捨てるべき安息だ」

 その言い回しに、ドクン、と心臓が跳ねる。

 息が詰まりそうになる。それでも言葉を続けるのは、そこにいるのが気に入らないだけの他人ではなく、血の繋がった父親だからだ。

「──だとしても、お父さんは離婚してから畑野先生と付き合うべきだった。わざわざ傷つけるようなやり方選んどいて、被害者面はどっちよ!?」

 杏が声を荒げると、喉元を押さえられて、ひゅっと息が漏れた。首を絞められた。久しぶりに、父の手の大きさを思い出した。

「ガキのくせに、分かったふうな口ききやがって」

 どんどんと息が苦しくなる。顔に血が溜まって、茹蛸みたいに赤くなる。手をバタつかせながら喘ぐことしかできない。視界に映った父の顔は怒気に塗れ、杏は意識が遠くなっていった。

「お前らさえいなければ──」

 そんな父の言葉は、途中で遮られた。


 ガシャンッ、という衝撃音。


 父は反射的にブレーキペダルを壊れそうなほど踏みつけたが、あえなく慣性の法則に従ってフロントガラスに突っ込んだ。杏も同じだったが、父に抑えられていた分、衝撃は彼よりも少なかった。

 父は意識があるようだが、呻き声を上げるばかりで体勢を元に戻せない。

 杏は頭を押さえながら顔を上げる。痛みに耐えながら、雨の降る外に目を向ける。

 いったい、何にぶつかった。

 それが何かは、すぐに分かった。フロントガラスからすぐに見える。

 踏切だ。

 自宅の近くにある、人通りの少ない踏切。そこにある遮断機のうちの一本を、吹き飛ばして折っている。

 ふと、雨音ではない騒音が気になった。

 カンカンカンカンと。

 そうだ、と杏は思う。遮断機が下りているということは──

「──お父さん」

 父は返事をしない。

「お父さん、早く! 車、出して!」

 返事はない。何か喋ろうと口をパクパクと動かしていたが、それよりも早くに、コトが起こった。

 風切り音。車輪の音。急ブレーキの音。そして、雨音。

 全ての音が混じりあってカオスとなり、杏の鼓膜を刺激した直後。全てが凪いだ。


 杏の世界の時間は停止した。


 ☔︎☔︎☔︎


 雨粒の形は雫型ではない。

 特に今日のような梅雨の日の大粒な雨は、表面張力と落下時の空気抵抗によって、扁平な餅型になる。

 この事実を観察によって得る方法は二つしかない。

 一つはハイスピードカメラによる撮影。

 もう一つは、本来なら方法とはいえない。

 それはありえないことだから。

 けれど、杏が雨粒の形を知ったのは、そちらの方法だった。


 この世界で一番大きな音は、杏がセダンの扉を閉めた音だった。

「なに、これ」

 思わず、声が漏れる。

 外に出ているというのに、雨には降られない。それは確かに近くにあるが、振り払うと簡単に遠くに飛んでいき、その場でピタリと静止した。全ての雨がそうだ。まるで精巧なアートの世界に紛れ込んでしまったかのように、雨は一つ残らず空中に留まっていた。


 時間が停止している。静寂の世界だ。


 父は右手を頭より上にして、ハンドルに身体を乗り上げる複雑な格好で静止していた。「お父さん」と呼びかけても、返事はない。電車はセダンと衝突する三メートル手前で停止し、車掌が驚き顔のまま固まっている。踏切の点滅は無く、赤で固定され、警告音もしない。猫はいつまでも浮かした足を下ろさず、鳥は羽ばたかないままに空に居座った。


 奇跡、という言葉が脳裏に浮かぶ。


 もしも時間が止まっていなければ、杏と父は鉄の塊に吹き飛ばされていただろう。最悪、脱線してさらに被害が出ていたかもしれない。この奇跡には、ただ低い可能性を引き当てたというだけではない、超常的で運命的な意味合いが籠っている。

 原理は不明で、理由も不明。クエスチョンマークが脳裏を支配し、耐え難い現実と常識とのギャップに、いっそ吐き気が込み上げてくる。

 何が起きた? どうして起きた? あるいは、誰が起こした?


 杏には心当たりがあった。

 梅雨。奇跡。鞠子の言っていた、アレ。

 鞠子もこの時間停止に出会ったのか? あるいは、鞠子が時間を止めたのか。

 けれど、そんな思考はすぐに脇に置いた。

 どうして止まった? よりも、いつ動き出す? の方が重要だと気づいたからだ。


 杏はセダンの後ろに回り込み、全身の力を込めて押す。

 しかし、ビクともしない。時間の止まった世界では、こうして車輪のついた乗り物を押すこともままならないのだろうか。


「それじゃダメね。とても車は動かないわ」


 声だ。後ろから、見知らぬ誰かの声がした。 杏は驚きながら振り向く。まだ世界の時間が止まって五分と経っていないはずなのに、音があることに強い違和感を覚えたのだ。

 そこに居たのは、赤い傘を差した女だった。 年齢は、二十代の後半か、三十代前後。花柄のワンピースに、白いカーディガンを着ている。どこか疲れた様子の彼女は、杏の顔に瞳を据えている。

「だ、誰!?」

「別に、誰でもいいでしょ」

 誰でもいい、を鵜吞みにするには、あまりにも重要人物だ。

「でも、えと、これは」

 杏はどこともなく、辺りを指して言う。これはいったい何だ、と。この世界の全てを指さして。

「それも、どうでもいいことよ。まずは車を除けるのが優先でしょ?」

 すると、赤い傘の女はつかつかと歩いて行って、運転席の扉を開け、中から父を引っ張り出した。

「彼、後ろに入れましょう。こっちに来て手伝って」

 呆然と彼女の様子を眺めていた杏は、ハッとした様子で彼女を手伝った。

 二人で無理やり後部座席に押し込めると、父は間抜けな格好で収まった。もしも時間が動き出したら、捻挫か骨折でもしてしまいそうだ。

 女は荒々しく扉を閉めると、赤い傘を杏の目の前に差し出した。

「車、動かすから、持ってて」

 杏は素直に従った。


 赤い傘を受け取る。

 その時、どこか自分の肉体に変化が起きたような気がした。細胞の一つ一つにいたる全てが、超常的で捉え難い、複雑なようで単純な、何かに。

 なんとなく、上を見上げる。

 赤い傘。

 またしても、鞠子の言葉が脳裏に浮かぶ。やはり、あの子はこの奇跡と関わりがある。

 杏が赤い傘を受け取って後ろに下がると、女は運転席に乗り込んで車を動かした。遮断棒はあらかじめ、足で払って除けていた。セダンは緩やかに前に進み、踏切を挟んで反対側の、遮断機から五メートルほどのところで停止した。

 どうやら、動ける人間ならば、停止した機械も動かせるらしい。さきほど車が動かなかったのは、ただ単に杏の力が弱かっただけのようだ。

 すると、女が運転席から出てきて、大声で言った。

「それじゃあ、もう閉じて良いわよ」

「閉じる?」

「そう、閉じる」

 女は赤い傘を指差す。「それを、こうやって」女は傘を上に向けたまま、自分を巻き込むように閉じるジェスチャーをして、念を押すように、「閉じる」


 杏は言われた通りにした。彼女以外に、言葉をくれる相手はいなかった。上を向けたまま、自分を巻き込むようにして、傘を閉じる。


 それで全てが終わった。


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 杏以外の、全ての時間が動き出した。


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 暗闇と静寂。ぼんやりとした輪郭も、自分の心音すらもない。

 ただ、それでもそこに自分がいるという感覚がある。

 これまでに超常的なことが起きたときには、たいていが夢だった。のっぺらぼうも、炎の巨人も。

 けれど、今回ばかりは違う。

 時間を止める、赤い傘の奇跡。

 いや、この名称は、とっくの昔に使わなくなった。杏が赤い傘を奇跡と呼べたのは、杏の主観時間で、ほんの二、三日だけだ。

 それ以降、杏はこの思考だけの暗闇の世界で、赤い傘を『呪い』と呼んだ。邪悪で、人を舐め腐っている、呪いの傘だ。


 ☔︎☔︎☔︎


 杏が初めて傘を開いたのは、一年後の六月三日だった。

 相変わらず、世界の時間は停止していた。梅雨時で、雨がそこかしこで空中に留まっているのでわかりやすい。それでも、赤い傘は差したまま。どうしてか、この傘を置いていこうという気はしなかった。

 最初、杏は過去に訪れたのかと思っていたが、電柱に貼られていた、杏の捜索チラシを見て絶句した。

 一年前の六月八日の学校帰りに、杏は失踪したことになっていた。

 杏の体感では二週間前後しか経っていない。二週間、暗闇と静寂の世界で試行錯誤し、やっとの思いで飛び出した世界は一年後で、さらには時間が止まっている。

 杏はひどく参った様子でふらついて、電柱に寄りかかって涙を流した。それがどんな涙なのか、自分でもうまく説明ができない。哀しみ、後悔、やるせなさ。あるいはその全て。出てきた涙は杏から離れると、すぐに空中に静止した。

 杏は目を腫らしながら歩き出す。探さなくてはならない。あの女を。この呪いを押し付けた彼女を。



 五時間後、杏は傘を閉じた。

 孤独に耐えられなかったのだ。

 犬の毛は靡いたまま。カラスはどれだけ近づいても去らない。人に話しかけても返事は返って来ない。それどころか触っても、目の前で手を振っても、何の反応もない。女も男も老人も子供も無関係だ。動物も機械も自然現象も物理も科学も、全ては停止している。

 杏だけが、動いている。


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 時間が止まった。初めて時間を止めてから、通常の時間軸で三年間が経過した。

 相変わらずの雨の日で、そうと思えないほど音は無い。それもまた、相変わらずのことなのだけれど。


 杏が赤い傘を開くのは、これで七度目だ。その間に分かったことが、幾つかある。

 一つ目は、暗闇と静寂の世界は、通常の世界とは時間の流れが異なっているということ。

杏にとっては一週間後でも、通常の世界で一年間経っていることもあれば、三年間待ったつもりで三日後だったこともある。

 今回は十年待った。けれど、現実時間では前回から半年ほどしか経っていないらしい。


 窓から教室の中を覗く。黒板に書かれていた日付は、十月十日。仲良く空間図形の問題を解く彼らには見覚えがあった。半年前、五月三十日にこの一年三組を覗いたときと同じ顔ぶれだ。

 この中学校は、杏の出身校だ。本当は卒業をしていないので、出身校とは言えないのかもしれない。それでも、もうこの学校の教室で、授業を受けることは二度とないと考えると、つい出身校と言いたくなる。

 杏は、もう自分の未来は変わることはないと考えていた。傘を気まぐれに開き、戯れに時間の止まった世界を旅するだけの、未来。だからこそ、赤い傘を開いた時には、前途洋々な、かつての自分と似た年齢の少年少女をわざわざ見に来る。まるで、何かを託すような気持ちで。

 杏のクラスメイトは、すでにこの中学校にはいない。とっくの昔に卒業し、高校に入学した。卒業式の日には雨が降っていなかったので、杏はそれを見ることも叶わなかった。


 二つ目は、いつでも赤い傘を開けるわけではないということだ。

 傘を開くとき、必ず雨が降っていなくてはならない。理由は分からない。ただ、暗闇と静寂の世界でじっとしていると、「傘を開ける」と感じる瞬間があり、その時に開くと、世界は停止し、雨が必ず空に縫い付けられている。

 それは傘というものが、雨具だからなのだろうか。傘と雨は、運命めいた一条の糸で繋がっていて、その結びつきは時間を止める呪いの傘も例外ではない、ということなのかもしれない。


 なので、特に梅雨の時期、五月の末から七月の中頃にかけて、世界の時間はよく止まる。


 ☔︎☔︎☔︎


 杏が傘を手にして、五年後。六月二十二日。


 杏はおよそ一年ぶりに自宅を訪れていた。

 五階建てマンションの二階、二〇三号室。踏切が煩く、日光もあまり入らない、立地のわるい家。

 なんとなく戸を叩いてみたが、しばらく経っても誰も出てこない。当然、留守だからなんて理由じゃない。答えは単純に、時間が止まっているからだ。

 一年前に訪れた際には、鍵が閉まっていて中に入れなかったので、ここで傘を閉じてしまったのだが、今回は違った。

 ドアノブをゆっくりと回し、手前に引く。あっけなく扉が開き、杏の心臓はどくんと跳ねる。

 中に入る。靴を脱ごうとして、玄関に目を向けると、そこに無造作に並べられた靴は、ほとんどが男物のスニーカーだった。

 嫌な予感がした。

 部屋に入る。知らない男がいた。無精髭を生やし、メガネをかけた男。日清のカップラーメンを食べている。跳ねた汁は空中で静止し、口から飛び出た麺はマーライオンみたいに吐き出しているようにみえた。青年と呼ぶには老け込んだ様子で、みているこちらが居た堪れなくなるような人物だ。


 杏はすぐに部屋を後にした。両親はとっくの昔に、この部屋から消えていた。


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 さらに二年後、七月一日、梅雨。

 鞠子が自殺したらしい。

 約三年前、高校三年生の時にロープで首を吊ったようだ。

 原因はいじめだった。市内のローカル新聞に、その惨状が掲載されていた。

『自転車を盗まれ、川に捨てられた』『教科書を破り捨てられた』『大勢の前で服を脱がされた』

 凄惨さに拍車をかけるのは、それが良く知った顔で、どんなふうにいじめられていたのかが、想像に易いからだろう。

 鞠子は大勢に悪意に煽られた暴徒たちに囲まれ、次々と衣服を剥ぎ取られていく。

 吐き気がした。それと同時に、疑問が湧いた。

 鞠子なら、一人くらい刺し殺してもおかしくはないのに。


 杏には、鞠子がとても強い存在に見えていた。自然界の実際の頂点を知らずとも、ライオンを思い浮かべるように、中学生女子の頂点は鞠子であるという、イメージがあった。

 躊躇なく自分に針を突き立て、容赦なく金属バットをフルスイングする。そんな彼女が、たかられた程度で、どうにかなるものなのだろうか。


 鞠子は、杏の思っていたよりもずっと普通だったのだろう。

 時間が経って思い返すと、なんてことはない過去ばかり。少し我儘。少し鬱陶しい。少し暴力的。窓を割り、先生をバットで殴った。そんな人は存外ありふれている。普通に生きていて、普通に死んでいる。


 そんな思いを持ちながら、杏は鍋敷き代わりの新聞紙から目を離す。三年前の記事が、こんなところに残っているとは思わなかった。

 鍋を元の位置に戻し、箸を手に取ってよく煮えたロールキャベツを取る。ポン酢に浸し、口に運ぶ。特に味はしなかった。


 杏がこの傘について分かった三つ目のこと。肉体の変化。どうやら杏は、睡眠も食事も必要がない。よく分からないが、きっと性欲もないのだろう。加えて排泄もなく、老化もない。杏の身体は、赤い傘を持ったあの瞬間から、一歩たりとも前に進んでいない。


 杏はロールキャベツ鍋を食べる事を諦めて、民家を後にする。たまたま鍵が開いていたので入ってみたら鍋をしていたのだ。

 母がいて、父がいて、中学生の女の子と、小学生の男の子がいる。全員で鍋を囲み、嬉しそうに熱がりながら、キャベツについたポン酢を撒き散らしている。

 杏はその様子を思い出すと悔しくなり、にっちもさっちもいかなくなって、すぐに傘を閉じた。


 ☔︎☔︎☔︎


 さらに一年が経過した。六月十五日。この日は特にひどい雨だった。まあ、杏は濡れやしないが。

 雨の空気に対する密度が高く、一つ一つの雨粒も大きい。川は茶色く濁り、水位が随分と上がっていた(流れが速いかどうかだけは、確認のしようがない)。きっと、豪雨というやつなのだろう。


 杏はその日、ついに母を見つけた。彼女は青の日産ノートの助手席に乗っていて、運転席には見知らぬ中年がいた。二人とも、楽しそうに顔を綻ばせたまま、ぴたりと停止している。

 母の左手の薬指には指輪がはめられていた。ただし、以前に付けていたものとは別のものだ。ちょうど、同じものを彼女の隣にいる中年も付けている。

 ああ、再婚したんだな。

 あの父から逃げられてよかった。

 そんなことを思うよりも先に浮かんだのは、「私がいなくなって余裕が出たんだな」だった。


 父とはまで出会えていない。探す気もない。今でもセダンに乗っているのか、助手席には畑野麗子を乗せているのか。どれも知りえない。それでもいい。全ては終わったことだ。


 ☔︎☔︎☔︎


 半年後、十一月四日。珍しく梅雨以外の雨の日に傘を開いた。


 杏は時間の止まった世界を数日間歩き続け、千葉のディズニーランドに向かった。

 ディズニーランドは雨の日でもそれなりに混んでいた。日曜日だからだろうか。少しばかり歩きにくいが、杏にはあまり関係のないことだ。無理やり間を押し退けて通ったところで、誰にも文句は言われない。


 シンデレラ城は美しく、空に留まった雨粒の散乱具合も相まって、幻想的な輝きを見せていた。思わず、スマホを掲げて写真を撮ってしまう。いいものが撮れるまで、何度も撮った。取り直す時間は無限にある。

 アトラクションに乗ることは出来ず、パレードは誰一人として手を振らない。案内人の声も、音楽も、歓声もない。それはそれで、味がある、というもの。

 売店に行き、ずらっと並んだグッズを見ると気分が上がった。お金はレジの上に置いておく。傘を手に取った日から、ずっと財布に入っていた分だ。これまでに使う機会は無かったので、あの日のまま五千円ほど残っている。

 それは理性を繋ぐ最後の糸のような気がした。

 杏はカチューシャを一つ買うだけに留めて、売店を後にした。


 一週間ほどかけて隅から隅まで見て回り(立入禁止のスタッフ専用部屋や、スプラッシュ・マウンテンの山肌まで)、満足すると傘を閉じた。

 初めてのディズニーランドは、それなりに楽しかった。


 次に傘を開くと、カチューシャは消えていた。どうやら、最初に傘を閉じたあの日まで、杏はリセットされるらしい。スマホもそうだ。写真を撮っても、メモを残しても、全て消える。


 杏の記憶だけが、未来へと歩を進める。


 お金も財布に戻っていた。ああ、もうどうでもいいんだな、と思った。


 ☔︎☔︎☔︎


 杏が傘を手にして、十三年が経った。

 宇井晴翔が結婚した。相手は豊臣雨音だ。やはり二人は中学生のときから付き合っていて、そのまま二十六歳で結ばれた。


 杏が二人の結婚を知ったのは、たまたま立ち寄った元クラスメイトの家のポストに、案内状が届いていたからだ。

 すでに返送期限が過ぎている。九条千鶴は案外ズボラだったらしい。挙式の日付は五日後だった。手動ドアのコンビニを探し、新聞紙を手に取ると天気予報欄を調べる。晴れだった。残念なような、いっそ清々しいような、複雑な気分。

 挙式は地元のチャペルで行われるらしい。少しだけ、行ってみようという気が湧いたが、グーグルマップで調べると案外遠くて、うんざりとした。もちろん、ディズニーランドよりかは遥かに近い。それでも、チャペルに行く方が何十倍も面倒だった。

 あまりにも時間が経ち過ぎた。人と人との諍いを時間が解決することがあるように、恋心も時間が解決した。解きほぐされて、決した。杏に、彼との未来など無かった。

 本当に?

 杏は傘を閉じた。

 もう、どうでもいい。自分にそう言い聞かした。


 ☔︎☔︎☔︎


 晴翔が結婚して二年後、六月九日。杏は傘を開いた。

 小雨だった。品川駅近くでは、傘を持たずに早歩きの格好で停止するサラリーマンも多い。

杏はこの頃になると、なるべく人のいる場所に向かうようになった。

 暗闇と静寂の世界で思考に耽るうちに、一つの考えに辿りついたのだ。

 それは赤い傘を持っていなくとも、停止した世界を歩ける人間がいるはずだ、というもの。

そもそも、杏がそうだった。

 鞠子だって、恐らくだが傘を持たずに停止した世界に踏み込んだ。少なくとも鞠子の言動は、数十年に及ぶ時間停止の旅を終えた人間のそれじゃない。


 杏は傘を受け取り、鞠子は傘を受け取らなかった。


 ネット上でよく見かける、超常現象に出会ったという書き込みも、幾つかは本物なのだ。

 必ず、いる。

 それがどの程度の割合で存在するのかは分からない。少なくとも、実在が常識とはかけ離れている以上は、相応に極々低確率なのだろう。果たして、出会えるのは何十年後か、何百年後か。

 さらにはもしも出会えたとして、いったい杏はどうするべきなのだろう。

 傘を渡すべきか? この呪いを誰かに渡して、それで終わりでよいのだろうか。

 杏は答えに悩んだ。悩んだ末に、一旦答えを棚上げした。まずは出会えなくては。


 人混みをかき分けながら先に進む。後ろを振り向くと、雑踏の中に一本の轍が出来上がっていた。そこを埋める人は誰一人としていない。

 動く人を見かけたことは今までに一度としてないが、もしもいるならば、それはとても分かりやすいだろう。

 唯一の音。唯一の動き。

 それはキャンパスに落とされた一滴の黒い絵の具のように、世界から個人を浮かび上がらせる。

 逆に言えば、いないことも分かりやすい。

 杏はため息をついて、傘を閉じた。


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 一年後で、品川駅で、六月四日で、雨の日。

 杏が品川駅で傘を差すのは六度目になる。

 一年前の六月九日、六月十日、七月三日、今年の五月十九日、六月一日、そして今日。

 これまでに動ける人と会えた試しはない。それでも品川駅から動かなかった理由は二つある。一つは、ここなら十分な量の人の流動があること。無暗に動き回るよりも、よっぽど見つけられる可能性が高い。

 もう一つは、単純に疲れてしまったのだ。ざっと周りを見渡して、いないと分かればすぐに閉じる。それを繰り返す。時間は無情に流れるだろう。今回は六度開いて一年しか経っていないが、そのうち一気に何十年も進むようになる。それをどうでもいいと思えるほど、この孤独な世界にんでいた。

 きっと、あの人もそうだったのだろう。杏に赤い傘を渡した、あの女。


 恐らくだが、あの人はどうやったら傘を受け取って貰えるかを考えていた。どうすれば、見知らぬ他人の傘を差そうと思わせられるか。時間の止まった、異常な世界で。

 例えば、希死念慮。自殺を考える人間の下に起きた奇跡の超常現象。その幻想的な色めきの中に現れた、唯一の会話ができる人間。どんな言葉を吐いても、傘は渡る。

 ところで、雨の日には鉄道自殺が多いらしい。

 踏切で起きた事故。そこで偶然起きた時間停止。きっと、ただ奇跡だったというわけではなく、こんなふうなカラクリがあった。そうして杏は、時の止まった世界に囚われた。

 けれど杏は、それを非情だとは思わない。彼女のお陰で命が助かったことも、また事実だからだ。


 周りを見渡す。停止、静止、不動、固定。何も変わらない。

 杏ははじきを掴んだ。まだ今日は五分も経っていないが、なんとなく気が乗らなかった。

 そうして傘を閉じる途中、杏は視界の端にある人を捉え、ピタリと閉じるのを止めた。群衆をかき分け、その人の下に進む。走る必要はないのに、走ってしまう。それほどの衝撃があった。

 顔を見てすぐに分かった。忘れたくとも、忘れられなかった顔だから。


 豊臣雨音だ。

 シックなパンツスタイルで、ブランド品の薄ピンクのバッグを肩から提げている。右手には新緑色で大きめの傘を差し、左手にはクイーンズ伊勢丹の紙袋を、そしてその薬指にはマリッジリング。当然、全ては止まったまま。


 まじまじとその顔を見つめる。端正な顔立ちで、三十歳かそこらにはとても見えない。大きな茶色の瞳は輝いていて、鼻筋はすっと通っている。そして全体的に血色がいい。

「綺麗な人」と、つい声が漏れる。そうか、晴翔の好みはこんな顔か。

 古傷が痛む。終えたはずの想いが蘇りそうになるのを、杏は必死に押し殺そうとした。下唇を噛み、傘の柄をぎゅっと握る。それでも、手は動いた。

 彼女のバッグを漁る。薄ピンクの長財布だ。杏はそれを開いて、免許証を取り出す。そこに書かれた『宇井雨音』の文字に心臓を痛ませながら、別のところに目を向けた。住所だ。それを必死に覚える。

 頭の中で二十度、声にして十七度、暗唱して十八度繰り返す。完璧に覚える。記録は意味が無い。完璧な記憶しか、意味はない。

 

 しばらくして、杏はハッとした様子で傘を閉じた。自分が何をしようとしていたのか、怖くなった。杏は死に体の理性をなんとか総動員して、暗闇と静寂の世界に閉じこもった。

 けれど、それも一分と持たない。

 梅雨どきは、いつでも開ける。誘惑はそこにある。


 ☔︎☔︎☔︎


 杏は一分後に傘を開いたつもりだったが、現実では二週間が経っていた。

 目の前に雨音はいない。どこにいるのか、最も可能性の高い場所を、杏は知っている。



 どれだけ歩いただろうか。足取りは常に重たかった。それでも動いたのは、人間の意志の強さというよりも、ゾンビのような気味の悪い力によるものだ。

 自分で自分が嫌いになる。いったい何年引き摺っているというのだろう。もはや自分が人間かどうかも怪しいのに。

 ポールの錆びたカーブミラーで自分の顔を見る。水滴が邪魔だ。写っているのは、あの日から変わらない、十六年前の杏。酷い顔だった。隈はないが、どんよりとして、いやな瞳。かつての中学生らしさはどこにもない。ただ身体は相応に貧相で、育ち切っていないその未熟さに苛立ちすら覚える。

 十六年かけて、お前はいったい何を得た?

 記憶と精神と感性。脳に関わる部分しか変わりようが無いというのに、それすらもこうして無駄になった。いつまでも変わらず、手に入らないものの為に今あるものを捨てる。

 何が必要な犠牲だ。ついでに捨てただけだろうに。

 杏は自分をなじりながら、それでも歩みを止めない。食欲も睡眠欲もないことは経験でわかる。けれど、性欲も本当に消えたのか?


 宇井家は二階建ての一軒家だった。クリーム色のレンガ調で、窓は大きく、少し狭いが庭もある。ガレージには黒のシエンタと黄色のジムニー、それにハーレーの中型が入っていた。

 金があるな、と下世話なことを思いながら、杏は玄関に続く階段を昇る。ガレージは車二台とバイクで埋まっていた。つまり、二人は家にいる可能性が高い。

 ドアハンドルを掴む。手前に引くとき、一瞬だけ、動かないでと思ったが、あっけなくそれは開いた。

 中に入る。玄関には思い出が飾ってあった。晴翔と雨音の二人が映った写真立て。場所はどこだろう。日本ではないような気がする。順風満帆で、幸せいっぱい。そんな様子に打ちのめされそうになりながら、玄関を抜ける。

 色々と、家の中を見て回った。

 広々としたシステムキッチン。二人で入っても余裕のありそうな大きめの風呂。手入れの行き届いたトイレ。

 二人はリビングにいた。立ったまま、晴翔が雨音を抱きしめる格好で静止している。

 湧き立つ感情を処理できない。そういう光景が、当たり前に繰り返されていると分かっていて、ここに踏み込んだのではなかったのだろうか。

 きっと、覚悟なんてなかった。

 とっくの昔に、そういう人間的な要素は消えた。ただ興味のあるものに寄りつくだけの存在になった。まるで、光に吸い寄せられる虫のようだ。

 そのまま、その光景を眺めていると、ふと水滴が空中に静止していることに気づいた。これまでに腐るほど見てきたが、それが部屋の中にあるのは稀だ。

 水滴は、雨音の大きな瞳から零れていた。

 涙だ。

 どうして、泣いているのだろう。

 ガラステーブルの上に目を向ける。乱雑に置かれた錠剤には、『セキソビット』と書かれていた。


 見てはいけないものを見た。鋭い鉤爪のついた手で、心臓を鷲掴みにされたような感覚。思わず吐き出した空気には、色々なものが混じっていたように思う。少なくとも、罪悪感や後悔だけじゃない。目を逸らしてはならない、心の弱い部分がある。

 杏は居た堪れなくなって、リビングを後にした。

 階段を通って、二階に進む。

 杏はここに来た意味を考えた。単なる興味、だと思っていた。それならば、晴翔を一目見た時点で帰っていいはずだ。それでも、杏は探索を続ける。どうして? その疑問に答えられるのは自分しかいないはずなのに、やはり答えは出てこない。

 強いていえば、極めて運命的な何か、だ。


 階段を上がって、すぐ右の扉を開く。

 そこは書斎だった。大量の本棚と、木目調の机。本棚に入っている本は、どれも古めかしいものばかりだ。日本の江戸時代近辺に関する、伝承、文献、それらの解説本。歴史学、民俗学、宗教学の教科書、新書。加えて、日本、海外に問わないオカルト雑誌の切り抜きがずらり、と。

 異質な空間だった。晴翔にも雨音にも、こういった学者めいたイメージはない。

 そのまま中を進んで、机の前で立ち止まる。

そこには一通の手紙が置いてあった。

 息が詰まる。

『妹尾杏さんへ』

 と、書かれた手紙。

 これだ、と杏は直感した。このために、杏はここに来た。

 手紙を手に取り、丁寧に中を開く。封筒も便箋も真新しく、少なくとも十六年前に出し忘れたものじゃない。明らかに、今の杏に向けて書かれた手紙だ。


 本文は、『妹尾さんへ。もしも、あなたがこれを見ているなら──』から始まる。


 ☔︎☔︎☔︎


 妹尾さんへ。

 もしも、あなたがこれを見ているなら、僕の言う通りに行動して欲しい。

 申し訳ないけれど、これは一度きりの経験に基づく解決策だ。根拠も論拠も示せない。それでも、僕を信用しているなら、僕の言う通りにしてくれ。その為に、この手紙を開けたのだと願っている。


 まず、あなたの身に起こったことについて──時間停止について、僕も同じ経験をしたことがある。だから、二〇二六年の六月に妹尾さんが消えたとき、もしかしたら、とは思っていた。

 それでもこの手紙を二〇三九年になるまで書かなかったのは、確信がなかったからだ。たとえ疑惑でも、もっと早くに書いていればよかったと、心から申し訳なく思う。

 確信を得たのは、二〇三九年の六月四日だ。正確には、妻が気づいて知らせてくれた。妻も時間停止の経験者だ。自分のバッグの中の配置や、財布にいれていた免許証の向き、そして周りの何人かが、いつの間にか動いていた様子を見て、すぐに察したらしい。きっと、あなたの立場からじゃ気づかない。通常の時間流に生きる人々には、あなたの動かした物や人は、瞬間移動したように見える。

 そして、妻の免許証を見たと聞いて、ピンときた。あなたはこの家に来るはずだと。きっと、これは言ってはいけないことなんだろうけれど、大切なことだから、あなたを傷つけてしまうことを承知で書く。僕はあなたの恋心に気づいていた。応えるつもりもないのに、クラスメイトに嫌われたくないというだけで、遠ざけるような行動をとらなかった。あの日、早退者に荷物を届けるのは当番の役目だと言われ、特に考えもせずにあなたの下に運んでしまった。九条さんに任せるという選択肢もあったのに。埋める気も無いのに、あなたの心に入ろうとした。

 これが見当違いなら、どうか忘れて欲しい。けれど、もし合っているのなら、申し訳なかった。心から謝罪したい。

 だから、あなたが赤い傘を受け取ってしまったのなら、必ず僕の家に来ると思った。

 許さなくていい。ただ、信用して欲しい。全てをさらけ出したこの手紙を、ここから先の全てを信用して欲しい。

 ここまで長くなってしまって申し訳ない。ここから解決策を述べる。


 まずは、『権利者』を見つけて欲しい。『権利者』は、赤い傘を持たずに、時間が止まらなかった人のことを指す。赤い傘を手に入れる権利を持った人。この権利者を見つけるのが、恐らく解決の手順の中で最も難易度が高い。

 僕たちも瞬間移動や、時間停止に関する呟きをSNSで探したけれど、まだそれらしいものは見つかっていない。きっと簡単には見つからないだろう。情報は僕の家のポストに入れておく。妹尾さん宛の封筒に入れておくので、読んだ証に封筒を開けたままそこに置いておいて欲しい。

 そして、権利者を見つけたらどうにか説得して、二人で傘を閉じるんだ。

 相合傘みたいな形で、二人ともを巻き込むようにして、閉じる。

 そうしたら、二人とも傘から弾き出されて、世界の時間が動き出す。


 先に言ったように、この方法には根拠を示せないし、挑戦したのも成功したのも一度だけだ。

 それでも、僕はこの方法で生還した。僕を信用してくれるなら、この手紙の左下の角を破り捨てて欲しい。その日から、僕はあらゆる情報をあなたに提供する。あなたがこの世界に帰ってくるまで、必ずサポートする。


 最後に、一つだけ約束して欲しい。

 実は、赤い傘をただ手渡すだけでも、あなたは開放される。権利者に赤い傘が移れば、それでおしまいなんだ。ただ、それじゃ繰り返すだけだ。僕はこれ以上、赤い傘の被害者を出したくない。どうか、その選択だけはしないでくれ。

 そして、決して諦めないでくれ。あなたの味方はここにいる。


 ☔︎☔︎☔︎


 杏は手紙の左下の角を破らず、丁寧に封筒に戻した。そのまま書斎を後にして階段を降り、玄関から外に出る。どんどんと遠くなる宇井家を振り向くことはない。

 手紙を読んだ率直な感想は、もう彼に関わるべきじゃない、だった。


 なんというか、違う。晴翔はまるで何もわかっていない。


 恐らくだが、晴翔は権利者側だったのだろう。だから、あんなことを滔々とうとうと宣える。

 現実が耐え難い時、杏は傘を閉じる。暗闇と静寂に包まれて、熱された心は冷やされる。それは安心感を杏に与えた。

 解決の手が無いから困っているのではない。ただ何もないと飽きやすいというだけで、暗闇も、静寂も、好きだった。仕事をする必要はない。やるべきことも、やりたいことも後回しで良い。何もする必要はなく、何かである必要もない。暴力もない。暴言もない。餓えもなく、睡眠を邪魔されて不機嫌になることもない。

 いじめられて自殺することもない。

 まさに奇跡の世界だ。赤い傘は、確かに奇跡を造っている。

 捨てるべき安息、という言葉が脳裏によぎる。中学生の考えなんてものは本当に幼稚だと、我ながら思う。人類は安息を目指して進化してきたというのに。


 けれど孤独に疲れた、というのは本当だ。いつも二人で一緒にいた記憶が強く、それが当たり前になっていたので、つい話し相手を求めてしまった。

 それも、今日解決策を見つけた。手紙だ。どうしてこんな単純なことを思いつかなかったのだろう。手紙なら時間は関係ない。人間社会と決別しながら、人間と会話ができる。杏の理想が完成する。

 ただ、晴翔が示した『解決策』とやらも興味深かった。もちろん、使うつもりはないが。

 忘れるまでは覚えておこう、と考えて、それがあんまりにもあんまりな日本語で、つい吹き出してしまう。人目もはばからず、声を上げて笑い転げる。

 ほら、誰にも怒られない。なんて素敵な世界でしょう。


 一通り笑い終えると、今度は涙がでてきた。どうしてこんな選択をしてしまったのか。素直に協力すればよかった。そして声を上げながら、狂乱して道路の中央を走り抜ける。どんな車よりも早い。どんどんと追い抜いて、晴翔の家から遠ざかる。



 そのうち、杏は疲れて傘を閉じた。暗闇と静寂の世界に入ると、肉体の疲れはリセットされ、杏は魂だけの存在になる。こうなると、考え事以外にすることはない。

 それでも、しばらくは何も考えたくはなかった。ただ闇に身を預け、果ての無い旅に出たかった。

 それでも、壊れた理性が記憶を整理する。考えないようにと思うほど、思考はくっきりと闇に浮く。


 ままなく、一つの疑問が形を成す。

 果たして、死体でも権利者になれるのか?


 ☔︎☔︎☔︎


 局鞠子の墓は簡単に見つかった。

 九条千鶴のフリをして、遺族に手紙を出したのだ。中学の頃のクラスメイトです。ぜひお墓参りをさせて下さい、と。

 返事は施設に入った独居老人の家に届くようにした。これなら杏がポストを覗くまで、気づかれることはほとんどない。家族が先に見たら? まあ、別に失敗してもいい。これは遊び以上、けじめ以下の、意識の低いロシアンルーレットのようなものだ。それに、時間はいくらでもある。ことによっては、北海道から九州まで、一つずつ霊園を訪ねてもよかった。


 霊園の空気はじめっとしていて、気が落ち込む。それでも、何かがあるというだけで、暗闇の世界よりかはマシだった。

『局家之墓』の前に立つ。墓石は鞠子が収まっているとは思えないほど、地味な見た目だ。

 供えられていた花は菊、カーネーション、ユリを模した造花だった。鞠子の両親は、仕事の関係でそう何度も墓地に足を運べないらしく、枯れることのない造花を選んだ。手紙にそう書いてあった。線香も、ここ数年上げられていない様子だった。

 墓は関西式で、香炉を横にスライドすればすぐに納骨室に繋がる。香炉の重さに喘ぎながら、数分かけて開いた。額に汗が滲み、手はしばらく震えていた。

 納骨室には、骨壺が五つほど入っていた。湿っぽい、雨の匂いが鼻につく。今が梅雨どきだからなのか、それとも死後の世界ではいつも雨が降っているのか。答えは死ぬまで分からない。

 手紙の内容を思い出しながら、鞠子の骨壺を探す。一番手前、白色の骨壺。すぐに分かった。鞠子の骨壺なら、もっと煌びやかに装飾されていると思ったが、それは無地の乳白色だった。

 蓋を回す。その中に、鞠子はいる。中は湿気ていて、手を入れると独特な反発があった。無理やり手を押し込み、骨をひとつ摘まむと外に晒す。

 掴んだのは細長い骨だった。人骨には明るくないので、どの部位か分からない。ただ、鞠子の繊細な指使いが好きだったので、指の骨ならいいなと思った。


 杏は思う。

 妹尾杏とはなんだろうか。

 どうして、この赤い傘は杏だけを掴んで離さないのか。

 例えば、あの日に着ていた体操服は決して杏ではないが、どんな服に着替えてもリセットによってこの服に戻ってくる。体操服は杏の一部と見なされているのだ。

 靴も同様だ。靴もあの日から変わらず、草臥くたびれ具合もそのままだ。

 けれども、赤い傘は靴のすぐ下にあった地面を杏とは見なさなかった。小石一つ、土の一粒に至るまで、これは杏ではないと、完璧に分けて傘の内と外を分けた。

 その基準はいったいなんだろう。所有物かどうか? それは違う。杏の着ている服は保健室で借りた体操服であって、杏のものではないからだ。


 常識、という解答はどうだろう。

 名前を呼ばれて、衣服を全て脱ぎ捨ててから行く人はいない。衣服も含めての自分だという常識があるから、人は衣服を着て人前に立つ。

 衣服を真剣に選び、それで他人を評価する。

 人間的な常識が、妹尾杏とそうでないものを分けた。

 だとしたら、この骨はどうだろうか。常識的に考えて、この骨は局鞠子と呼べるだろうか。

 死体は人か。

 死ねば物か。

 死体は権利者になれるのか。

 常識とはなんだ。その判断は誰が下す。

 何をもって雨が降っているというのか。水素も酸素も空気中に気体として常にある。液体か個体かの違いにどこまで意味があるというのだ。雪なら、霧なら、酸性雨なら、黒い雨なら。

 その基準は、恐らく杏だ。杏以外に、参照すべき人間がいない。

 杏の脳だけが唯一の基準だ。だからこそ、脳だけが変化した。記憶を紡ぎ、理性を動かし、常識を司る。この赤い傘における大前提だからこそ、脳にだけは『変化しない』という『変化』を与えられなかった。


 ならば、後は杏の問題だ。

 強く思え、常識を壊せ。

 骨を傘の柄と共に強く握りしめながら、杏は何度も頭の中で呟く。

 これは局鞠子だ。この骨こそが局鞠子だ。

 鞠子はかつて、梅雨の日に奇跡と出会ったという。それは少なくとも、何の出会いも奇跡もない道往く人々よりも、『権利者』だった可能性が高いことを意味している。可能性があるのと無いのとでは、心の持ちようが全く違う。


 鞠子が権利者なのか? 鞠子こそが、杏の運命なのか? かつて、赤い糸を右手に備えた彼女こそが。


 この証明問題は、鞠子の死を肯定するところから始めなくてはならない。

 あの日、捨てたはずの安息を。鞠子とただ話して、笑って、気を揉んで、疲れて、それでも家にいるよりも学校に行くことを選んだ、あの日々を想いながら。

 最初は確かに、時間のある生活に戻りたいと思っていたはずだった。傘を渡した女を恨み、絶望に打ちひしがれていた。

 全てがどうでもよく思えたのは、鞠子の死を知ってからだ。あの日から、味覚も消えた。暗闇が心地よくなり、静寂を歓迎した。

 なら、思うべきはこうだろう。

 戻りたい。


「妹尾杏が元の世界に戻りたいのだから、局鞠子はそこに生きている」


 杏は、傘を閉じた。


 ☔︎☔︎☔︎


 骨は消えた。

 死体に傘を渡せるはずがないじゃない、と暗闇が告げる。


 ねえ、だって、死体に傘は必要ないじゃない? 濡れても風邪をひかないし、柄を掴むこともできないもの。お墓だって雨晒しでしょう? 


 必要ない。必要ない。必要ない。


 要らないものを無理やり渡すのって、すっごく迷惑なことなんじゃないかしら。それに、ちょっと都合が良すぎない? いまさら、ねぇ? あんなに酷い遠ざけ方しておいて。彼女が苦しい時に何もしなくて。自分が苦しいときだけ助けを求めるって。なあ、お前、本当に彼女のせいで不幸になっていたの?


「うるさい」


 むしろ逆だよね? 鞠子のお陰で、楽したこと、嬉しかったこと、あったもんねぇ? うざい音楽教師が痛めつけられて、スッキリしただろう? 大っ嫌いなもの押し付けてくるやつがさあ、蹲って呻いているの、とっても気持ちよかったもんねぇ? 授業サボれて、言い訳が出来て、嫌いな奴にはけしかけて。

 いい道具だったんだろう? 自分が楽ぅに生きるための駒さ。初めから人間だなんて思っちゃいないだもの。そりゃあ、生きている時でも思ってないのに、死んだあとに『人間だぁ!』なんて。

 ふふっ、あーっ、おっかしい。

 お前さぁ、せっかく時間止まってんだから、なんでもできるだろう? 

 すればいいじゃない。

 好きなようにさあ。

 欲望のままにさあ。

 お前はどうせ、そういうやつだよ。



 杏が傘を開くと、視界は開け、暗闇の言葉は止んだ。雨は止んでいない。時間は止まっている。

 途端に脱力して墓にもたれかかると、それが鞠子の入っていた墓だと気づく。

 香炉は閉じていて、骨壺も見当たらない。きっと、遺族か霊園の管理人が元に戻したのだろう。また中を開けば確かめられるが、そうしようとは思わなかった。


 いったいどのくらい時間が経ったのだろうか。墓に添えられた造花は随分と褪せている。木々は紅く色づいていて、少なくとも季節が移ろうほどに時間が経っているようだ。

 杏は力なく立ち上がると、ふらふらと霊園の外に出た。

 傘が雨を弾く。雨滴は砕けもせず、落ちもせず、ただ空に広がって、そこに留まる。見慣れたはずの光景が、しかし途方もないように思えて、眩暈がして、杏はその場に蹲った。

 車道だった。五、六台が立ち並ぶ車列の真ん中。けれど杏は危険を感じていなかった。もう十分に分かった。万が一にも、この車は動かない。


 杏は安心して、車に背中を預ける。そのまま目を閉じる。そして訪れた暗闇は、見慣れたそれよりも随分と安っぽくて、どこかありふれたもののような気がした。

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ミラクル・アンブレラ 広瀬 広美 @IGan-13141

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