ミラクル・アンブレラ

広瀬 広美

第一章 雨音(amaoto)

 雨粒の形といえば、上が尖って下が丸い、いわゆる雫型をつい想像してしまう。けれどそれが間違いであると、この小学校で唯一、宇井晴翔だけが知っていた。


 晴翔が窓の外を見たのは、ごくごく平凡な理由だ。

 端的に言って、授業に飽きたのだ。

 先生の説明は一切合切同じに聞こえるし、言葉の意味は全く取れない。完全に集中が切れたのだ。国語は退屈で、梅雨も退屈。名が体を表すように、晴れの日に翔ぶように走るのが、晴翔は好きだった。今はどちらもできない。

 そうなると、必然的に黒板から目を逸らしたくなるものである。窓際の席というのも都合が良かった。そんな風にして、晴翔は外を見た。そこに映る、梅雨空を。


「えっ」と、つい間抜けな声をあげてしまう。

 窓の外では、幾千の雨粒が空中に縫い付けられていた。

 どれ一つとして落ちることなく、空に留まっている。ふと気づけば、黒板を打つチョークの音も聞こえなくなっていた。教室を見渡す。誰一人として、鉛筆を動かしていない。全く動く気配の無い友人の長谷部文彦は、少し気味が悪く、また少し面白い。


 晴翔は結論づけた。時間が止まったんだ!


 晴翔は窓を開けて雨粒のうちの一つを掴んだ。不思議なことに(既に不思議なことしか起きていないのだけれど)雨粒は形を崩さずに指の上に乗った。全く、濡れているという感じがしない。晴翔は何となく、宇宙飛行士が水を飲む時に、水の玉がフワフワと浮いていたのを思い出した。

 けれど雨粒の形は、玉でも雫でも無い、扁平な形をしている。下側が凹んだ餅のようだ。

 晴翔はそれを確認すると満足して、雨粒を教室の中に放り投げた。それは直線的に動くと、壁や人に当たって向きを変え、しばらくするとまた空中に止まった。

 それは晴翔の心の深い部分を刺激する。これは雨粒の量を増やせば、もっとすごい動きをするんじゃないか?

 かくして、晴翔はまた窓と向き直る。いそいそと、手のひらから溢れんばかりの雨粒をかき集めていく。ぐいっ、と身を乗り出して、軒で遮られていない場所へ。すると前のめりになり過ぎて落ちそうになったが、すんでのところで手すりを掴んで事なきを得た。

 誰か一人くらい助けてくれてもいいのに。

 不貞腐れながら教室内に向き直ると、落ちそうになる前と何一つ変わっていない光景がそこにあった。

 そこでようやく、晴翔はゾッとした。

 誰も助けてはくれない。誰も動かない。一体、いつまで? 

 晴翔は寂しくなって、もはや雨粒なんてどうでもよくなった。再び窓の方を向き、雨粒を捨てる。止まった世界に動きが現れ、またすぐに静止する。反対に、晴翔の胸中は騒がしかった。また身を乗り出して、世界に目をやる。

 キョロキョロと、何かを探す。

 動いている何かを。

 車でも、猫でも、雨でもいい。動いている、何か。


「あっ」と、つい声を上げてしまう。

 それを見つけるのは、思いのほか容易かった。止まった世界で動く影は、真っ白な和紙に落とされた墨汁のように目立っていた。


「・・・・・・あれって、傘?」


 グラウンドを囲う金網の外を悠々と歩く、赤い傘を差した人影があった。

 晴翔は、急いで教室を飛び出した。階段を降りて、一目散に昇降口を目指す。

 追いついてどうするのかは決めていない。ただ晴翔は思う。この恐怖を分け合えるのは、あの人だけだ。


 全てが止まったグラウンドを足早に駆ける。身体に当たる雨粒がビリヤードみたいに次々と飛んでいく。一度動いた雨粒が、また別の雨粒に当たって動いて、そしてまた雨粒に触れる。そんな風にして、晴翔を中心として雨粒は散乱していく。

 それは傘の人影も同じだ。既に傘の人影自体は見えなくなったが、どの向きに行ったのかはわかりやすい。家と家の隙間から、上に向かって次々と散乱する雨粒が見えた。その散乱具合が、学校に近いほど激しく、遠いほど少ない。その少なくなっていったゼロ地点に、傘の人影はいる。


「ねぇ!」

 ようやく追いついた時、その日の空は幻想的な輝きを見せていた。二人分の散乱が混ざり合い、鬩ぎ合い、打ち消しあい、かくして作り上げられたそれはまるで、ひっくり返したばかりのスノードームだ。いや、雪ではないので、レインドームだろうか。


 晴翔の声を聞いた人影は、驚いた様子で振り返ったが、晴翔と目が合うとむすっとした。

 水色の長靴に、黄色い雨ガッパ。焦げ茶気味の長い髪は雨のせいか少しうねっていて、程よくすいた前髪からは大きな茶色の瞳が覗く。年齢は晴翔の少し下か、同じくらい。とにかく、傘の人影は、赤い傘がよく似合う可愛らしい女の子だった。


「・・・・・・なに?」

 傘の少女は淡白に答える。

「いや、えと、あのさ。すごくない、これ」

 晴翔はそう言って、目の前の雨粒を弾いてみせる。トントントンと連鎖して、いくつかが少女の元に届いた。

「全然」

 少女は本当につまらなそうにそれだけを答えると、翻って歩き出した。また散乱が始まる。

「えっ、ちょっと待って!」

 晴翔は急いで追いかけると、止まらない少女の横を並走した。目線にある傘が少し危ない。

「これさ、一体なんでこうなったのか、分かる?」

「知らない。ついてこないで」

 その言葉に一瞬、晴翔の心は折れそうになる。

「でも、他に当てないしさ」

 言葉に出した時は、ただ少女に着いていくための方便でしかなかった。しかし冷静に考えてみれば、本当に当てがない。先生も、友人も、皆止まってしまっている。この様子じゃ家に帰っても同じだろう。父も母もペットのゲンゴロウも、皆止まってしまっている。動かし方は分からない。雨粒がいくら触っても餅型のままだったように、きっと彼らもそのままだ。

「・・・・・・本当に当てがないんだよ」

「私には関係ない」

 少女は頑なだ。晴翔は半分、泣きそうになっていた。

「・・・・・・お願い、本当に、とにかく止まってよ」

 少女は無言で歩き続ける。

「・・・・・・お願い」

 目に涙を溜めながら、そのうち晴翔は立ち止まった。先に折れたのは晴翔の方だった。

 少女は赤い傘を揺らしながら、立ち尽くす晴翔に知らんぷりで歩き続ける。

 その背中を見ていよいよ晴翔は限界に達した。俯きながらスンスンと鼻を鳴らして、瞳からは涙を流す。

「うるさい」

「・・・・・・ぐすっ、うぇ、えっ?」

 顔を上げると、少女がこちらを向いて立ち止まっていた。

「うるさいから、もう今日はやめる」

「へ?」

 そして、少女は傘を閉じた。それは不思議な閉じ方だった。自分を内側に巻き込むように、傘の先端を上に向けたまま、バサリと閉じた。


 次の瞬間、全てが動き出した。


 道路に次々と波紋が生まれる。電線が揺れる。雲が動く。カラスが鳴く。雨粒が、重力を思い出す。

 そして少女は何処にもいない。


「っ、ど、どこ行ったの? ねぇ! ねぇ!」

 返事は何処からも聞こえてこない。雨音と街の雑音だけが鼓膜を震わせている。ずぶ濡れの晴翔は、もはや泣き跡は何処にも見つからない。

「なんだったんだ、ほんと」

 呆けて立ち尽くす晴翔を動かしたのは、後ろから来たトラックの運転手の怒号にも似た注意だった。


 ☔︎☔︎☔︎


 その後、晴翔がおとなしく学校に戻ると、そこではちょっとした騒ぎになっていた。騒ぎの元となったのは赤い傘の少女でも、時が止まった事でもない。晴翔の瞬間移動事件である。

「なあ、どうやったんだよ、晴翔」

「だ、か、ら、瞬間移動じゃないんだって」

 晴翔は友人の文彦から質問攻めにあっていた。


 晴翔が消えた瞬間を見ていたのは、文彦を含めた数人のクラスメイトだけだった。先生にしてみれば、晴翔は目を盗んで勝手に教室を出ていった問題児でしかない。あと少しでも遅れていたら、他の教室の授業も止めて、何人もの先生が探しに出るところだったらしい。間一髪である。

 そんな教師の焦りとは無関係に、より刺激的な噂が一瞬で広まった。それが瞬間移動。特にそれを間近に見ていたクラスメイトや文彦にとって見れば、大興奮の一大スクープ! 義務教育途中の小学生に、これを黙ってろなんて言うのは酷な話である。

 とはいえ、事実はもう少し非現実的で、もう少し切ない。晴翔の心の中にだけ残った赤い傘と少女の影は、スティックのりで貼られたみたいにべったりと張り付いている。


「じゃあ、なんなんだよ」

 そして、先生にお叱りを受けた学校の帰り道。文彦は真実をつまひわらかにしようと奮起している。下世話なやつだ。

「時間が止まった、みたいな」

「みたいな?」

「いや、止まった。本当だって! なんかこう、雨が全部空に張り付けられてるみたいにさ」

「ぜんぜんわかんねー!」

 文彦は頭の後ろに手を組んでそう言った。

「本当なのに・・・・・・」

「えぇ・・・・・・?」

 信じられない、といったその表情に、晴翔は文句をつけたくなる。瞬間移動だってあり得ないだろ。

「あとは、あれ、傘を持った女の子にあった。赤い傘の──」


「・・・・・・まじ?」

 言葉を遮って、文彦が驚き顔を見せる。組んだ手も解けて、微妙な位置で固定されてしまった。まるで時間でも止まったかのように。

「まじだけど」

「えっ、お前知らないの?『赤い傘の女』」

「なにそれ」

 そして文彦は語り出す。『赤い傘の女』と呼ばれる都市伝説を。


 ☔︎☔︎☔︎


 これはとあるお屋敷暮らしの姫様のお話。

 その子は大変見目麗しく、たいそう愛されて育ったそう。なにせ江戸の大名様の長女だそうで。いつもお高い着物をお召しになり、その姿は天女と見紛うほど。しかし姫様は少々、奔放なところがありまして。五月雨に産まれたからか、雨が好きなんです。雨が降るのを見ると、もう一目散に外に出てしまう! 立派なお召し物も台無し! 屋敷の者に何度注意されてもやめはしません。

 そこで、大名様は言います。

「せめて傘を持っておくれ」

 姫様はこれを了承しません。なにせ、彼女は雨に打たれるのが好きなので。それでも長く説教されると、渋々傘を持ち歩くようになります。真っ赤な和傘を。

 そんなある日、街に雨が降りました。大変激しい、川が唸るような大雨です。

「あら、なんて素敵!」

 姫様は踊るように外に出ます。赤い傘なんてお屋敷に置いてきぼり。顔から何までずぶ濡れです。

 さて、暫く楽しんだあと、ふと屋敷の者の声が聞こえてきます。どうやらこちらに向かってくるよう。姫様はさぞかし困り果てました。濡れていることは誤魔化せそうです。なにせ大雨なので。傘があっても関係ないほどの大雨なので。しかし、肝心の傘がない! 

「あぁ、どういたしましょう。これでは怒られてしまいます」

 嘆いた姫様の前に、一人の女が現れます。赤い傘を差した女です。

 女は言います。

「どうでしょう。わたくしの傘、いりませんか?」

 女は珍しいものを着ていました。いわゆる、白装束です。

 しかし姫様はそんなこと気にしません。それよりも大事なことがあるのです。

「あら、いいのかしら。どうもありがとう」

 姫様は女から赤い傘を受け取ります。すると女はニヤリと笑って、言います。

「次はあなたの番」

 なにがなにやら、姫様はわかりません。ただ女は歩いてどこかに消えてしまいました。

 けれども姫様は間に合いました。屋敷の者が来る前に、傘を手に入れました。

 そして、もう来るぞと身構えた時、ふと雨が止みました。実のところ、通り雨だったのです。

 雨が止んだので、姫様はそっと傘を閉じます。

 さて、屋敷の者がこの通りを過ぎたとき、姫様はどこにもいませんでした。皆が三日三晩探しましたが、姫様は見つかりません。

 きっと川に飲まれてしまったのだろう。皆がそう考えて、数年が経ちました。

 そんなある日、街に噂が流れたのです。

 雨の日に姫様を見た! って。噂の主に尋ねると、姫様にこう言われたらしいです。

「どうでしょう。わたくしの傘、いりませんか?」

 姫様はまるで血で染まったような真っ赤な傘を差していたのです。

 

 ☔︎☔︎☔︎


「みたいな感じ」

 文彦が話し終えた頃には、既に二人の帰路の分岐点に立っていた。しかし文彦は感想を聞きたいらしく、暫く動かずに突っ立っていた。

「・・・・・・まあまあ怖いな」

「おーい、それだけかよー。話して損した」

 それだけ言うと、文彦は家の方へ歩き出した。もっと気の利いたことを言えばよかっただろうか? 色々と考えながら、結局その背中に掛けたのは「じゃあなー!」だった。

 そして晴翔も帰路に着く。その途中で、何度も文彦の語った『赤い傘の女』を反芻した。

「・・・・・・赤い傘、雨」

 都市伝説の『赤い傘の女』と晴翔が出会った赤い傘の少女。共通点はその二つだけ、赤い傘と雨。それだけだ。それだけが、しかしどうしても引っかかる。

「まぁ、でも『傘、いりませんか?』なんて言われてないし」

 この都市伝説の肝はそこだ。赤い傘と雨は、ただのアイテムでしかない。

『赤い傘を渡すと入れ替わる』

 それこそが唯一、肝心なことだ。であれば、少女の行動はやはりおかしい。なぜなら、こんなにも渡しやすい相手がいたのに、少女は無視してどこかへ行こうとしたからだ。もしも都市伝説通りなら、少女は晴翔に傘を渡そうとしたはずだ。

 だから関係ない。都市伝説は都市伝説。あの奇跡の瞬間は、ただの奇跡の瞬間。

 晴翔はそう結論付けた。そして水溜まりが跳ねるのも気にせずに走り出す。心機一転というやつだ。

 そのまま、目の前から歩いてくる高校生くらいの男女の横を通り過ぎる。仲睦まじい様子を見せる彼らは不思議なことに、男の左肩と女の右肩しか濡れておらず、傘も一つしか持っていなかった。しばらくして気づく。ああ、そうか、彼らは恋人というやつだ。


「…………」


 既に雨の上がった帰り道、晴翔は思う。いつかの雨の日、また出会えたら、その時は名前くらいは聞いてみたいなと。



 果たして、次の日の朝、時間は再び止まる。今は梅雨時、傘を差すのにこれ以上の時期はない。


 ☔︎☔︎☔︎


「うそだろ」

 そう言いながら雨粒に触れる。するとものの見事に散乱し、家の庭にレインドームを作り上げた。

 一階に降りると、ハスキー犬が宙に浮いていた。名前はゲンゴロウ。ちょうど戯れている所だったらしく、ゲンゴロウの前にいる母が気味の悪い笑顔で固まったまま、飛び跳ねている。たいへん楽しそうだ。

「どこかにいるかな、あの子」

 しかし、今回は探すのも大変だ。前回はその姿が見えたから後を追ったが、今回はそうじゃない。そもそも、この街にいるかも分からないのだ。あんな風に一瞬で消えることができる以上、もしかしたら日本にすらいないかも知れない。

 それでも、晴翔は靴を履いた。どうせ、時間は進まない。彼女が傘を閉じるまで。家を出る直前には、また雨に降られたら敵わないからとレインコートを着た。今回は走るのではなく、自転車を使う。最低でも、街を一周くらいはしてみよう。

 そんな気持ちで晴翔は、時間の止まった世界に飛び出した。



 前回は学校を少し出たところまでしか行かなかったので、実のところ時間停止による変化をあまり感じていなかった。

 しかし今回は違う。大通りに出ると、時間が止まっていることの特異性を嫌でも意識する。

 晴翔はいつも通り、横断歩道を渡ろうと思って立ち止まる。なぜなら、赤信号だから。ハッとしたのは数秒後、時間が止まっているのだから、赤信号が変わるわけがない。

 そして青信号なのに動かない車たちも大勢いる。どれだけ目の前で手を振っても気づかないおじいさん。どんなに近づいても動かないカラス。空中にスマホを落とすサラリーマン。固まった笑顔を崩さない小学生たち。

 しかし時間が止まっているからといって、道路の真ん中を行くことには抵抗があった。もし急に動き出したらと思うと、とてもじゃないが行けない。なにせ時間を動かす権利を持つのは晴翔じゃない。何処にいるかも分からない、あの少女の方なのだから。


 そのまま晴翔は三時間ほど自転車を進めた。時間が止まっているので正確ではないが、疲れ具合としてはそのぐらいだろうと、晴翔は思う。

 既に校区外に出ていた。文彦と一緒にいったイオンモールが近い。地方都市の数少ない遊び場である。

 この三時間の間、時間が再び動き出す事はなかった。前回が十分じゅっぷんも無いくらいだったと考えると、もういつ動き出すのかは読めない。


 そろそろ帰ろうか、と晴翔は思う。

 今日は金曜日だ。つまり、学校がある。もし今、時間が動き出したら、今度は家から消えたと騒ぎになるだろう。当然、学校にもバレるし、かなり遅れて登校することになる。

 流石に二回目はまずい。どれだけ怒られるか分かったもんじゃないし、何よりクラスメイトからの追求が面倒くさい。

 仕方ない、と晴翔は来た道をそのまま引き返した。時には諦めも肝心だと、心に言い聞かせながら。


 その道中、道の先に赤い傘の少女がいた。

「えっ!?」

 思わず出した大声に、少女がビクッとして傘から顔を覗かせる。あの時の少女だ。うねった長い髪。すいた髪から覗く、茶色い瞳。

 その少女は、はぁ、とため息を吐いた。

「またあんた?」

 少女はそれだけ言うと、問答無用で傘を閉じようと──

「いや、待って、待って!」

 ギリギリで駆け寄って、ぐいと傘を持ち上げる。中の少女の顔がよく見える。蹴とばした自転車は倒れることなく、地面すれすれで静止した。

「なに。だって、また泣くでしょ」

「泣かない! ぜーったい泣かないから! とにかく話をしようよ! お願い!」

 それを聞いた少女はまたため息を吐いた。深く、深く、本当に嫌そうに。

 それでも少女は「分かった」と言った。


 二人はイオンモールの駐車場にあるベンチに腰掛けた。少女が「立って話すのは疲れる」と言ったからだ。もちろん、晴翔に拒否権はない。

 ベンチには草の茂った屋根があったが、少女は傘を差したまま座った。昨日と同じ真っ赤な傘を。一応、顔が見えるようにと、少し斜めに差してくれている。

「えっと、とりあえず名前を教えて欲しいな。なんて呼べばいい?」

「・・・・・・トヨトミアマネ。豊臣秀吉の豊臣に、雨の音で雨音あまね。雨音でいい。そっちは?」

「ウイハルト。名前の方は晴れに飛翔の翔で、晴翔。宇井は・・・・・・、えと」

「晴翔、分かった。晴翔」

 雨音と名乗った少女は、そう繰り返した。可愛らしい声で何度も名前を呼ばれるとくすぐったい。

「それで、話ってなに?」

「ああ、その。やっぱりこれのことだけなんだけど」

 晴翔はそう言って、どこをともなく辺りを指す。そこらかしこで止まっている雨粒たちを。止まってしまった時間を。

「私が時間を止めた」

 雨音はそれだけ言うと。終わりだけど、という顔をする。

「えと・・・・・・雨音さん? それだけ?」

「さんはいらない。雨音でいい」

 聞きたいのはそこじゃないのだけれど。

「じゃあ雨音、もっと詳しく聞きたいんだけど」

 雨音は軽くため息を吐いた後、渋々といった様子で語り出した。

「私が傘を開くと時間が止まる。私は傘が開いてる間しかこの世界に存在できないから、私の世界はいつも止まってるよ」

 晴翔はその説明を飲み込むのに少し時間が掛かった。傘を開くと時間が止まる。傘が開いている間しか存在できない。確かに、それなら色々と合点がいく。雨音がいつも傘を開いていることも。傘を閉じたら消えたことも。同時に時間も動き出したことも。

 色々と腑に落ちる一方、聞きたいことも増えていく。

「え、でも、存在してないのに傘を開けるのはどうして?」

「そこは私もよく分からないんだけど・・・・・・なんて言うか、意識だけがある空間で、たまに『傘を開ける』って思う瞬間がある。その時に開くと、世界の時間が止まってて、毎回雨が降ってる。だからたぶん、開けるって思うのは雨が降ってる時なんじゃないかな」

 なるほど、と思うと同時に、晴翔は処理しきれない領域の話だと理解した。これは考えても分からないことで、考える必要のないことだと。なにせ他にも聞きたいことはある。

「じゃあ雨音って本当は何歳くらいなの? 見た感じは同い年くらいだけど、その説明だと存在してない分、実は僕より年上だったりする?」

「年齢はわかんないけど、産まれは一九六四年。私も聞きたいことがあるんだけど、今って何年なの?」

 雨音の返答に、晴翔は息を呑んだ。

「晴翔?」

 一九六四年。現在は二〇二三年である。実年齢に換算すれば五十九歳だ。

 それだけの時間、雨音は一人きりだったのだろうか。意識だけの空間で、一人ぼっち。そこから出た世界も時間は止まっていて、結局独り。

 そんな悲しい事があるのか。

「今は・・・・・・今は二〇二三年だよ」

「ふーん。じゃあもう流石に昭和は終わったんだ?」

「昭和の次は平成だけど、それも終わって令和になったよ」

「えっ、二つ? 二つも変わったの?」

 これには流石に驚いたらしい。呆気に取られている。

「いや、でも、うーん。そっかぁ。まぁ、そうかぁ。言われてみれば、晴翔は私の名前に全然反応しなかったし、流石に時代が違うってことかぁ」

「名前?」

「雨音なんて、昔は恥ずかしくて言えなかったよ。もう吹っ切れたけど」

 言われて気づく。確かに、昭和の名前といえば○○子みたいな感じを想像する。雨音はどちらかといえば現代よりだ。

「いい名前だと、僕は思うよ」

 晴翔は素直にそう言った。瞬間、雨音はハッとした表情で晴翔を見つめた。少しだけ、頬が赤い。

「別に嬉しくないけど」

 雨音はそう言って目を逸らした。そのまま雨音は早口で捲し立てる。

「で、他にも聞きたいことあるんじゃないの? 一番聞きたいこと、さっさと聞かないと、いつ私の気分がいつ変わるか分からないから」

「うん、えと、じゃあ──」

 本当に聞きたいこと。一番聞かなくてはならない最重要事項。

「どうして、時間が止まった世界で、僕だけが動けるの?」

 雨音は待ってましたと言わんばかりの表情をして──けれど、その目の奥は少し寂しげに──言った。

「それは、晴翔が権利者になったからだよ。次の『赤い傘の女』になる権利のね」


『赤い傘の女』のことはしっかりと覚えている。文彦に教えて貰った、あの都市伝説のことだ。

「それって都市伝説の?」

「そう、よく知ってるね。まあ、あくまで都市伝説になぞらえて『赤い傘の女』って言ってるだけだから、本当は男でもいいんだよ。この赤い傘を受け取りさえすれば、男でも女でも、何でもいい」

「じゃあ、その傘が・・・・・・あの都市伝説の傘ってこと?」

 ここまで色々と超常現象に遭ってきたが、流石にすぐには信じられない。なにせあの都市伝説に出てくるのは江戸の大名だ。つまり江戸時代。先程、昭和産まれの雨音が二つ違いと言っていたが、江戸時代はさらに三つ、計五つ前だ。

「そうだよ。だからたぶん、あの伝説自体は白装束の女か、姫様本人が書いたんだろうね。赤い傘が開いてる間が描写されているから。もし姫様なら、自分で天女みたいとか笑っちゃうけど」

 雨音はそう言って、本当に笑っている。

 晴翔もいよいよ状況が飲み込めてきた。つまり──

「つまり、その傘を僕に渡せば、それで雨音は解放されて、僕の番になるんだね」

 確認のつもりで、丁寧に言葉を吐く。

「バカなこと言わないで。私は渡すつもりはない」

 雨音はキッと鋭い目線を晴翔に向ける。そして真っ赤な傘をより強く握り直した。

 晴翔は思う。もしこれが本当なら、雨音も誰かから渡されたということになる。でもどういう理由で渡されたのだろうか? 一番手っ取り早い渡し方はすぐに思いつく。


『時間を動かしたいなら、この傘を持って』


 これで終わりだ。どうしようもないあの世界で、確実に渡せる方法。こんなこと誰でも思いつける。そんなチャンスはいくらでもあった筈だ。五十年近い年月を重ねる中で、きっと何度でも。

 それでも、渡さなかった理由は?

「どうして?」

「どうしてって、当たり前でしょ。晴翔は悪い人じゃないから」

 そして雨音はボソッと、名前を褒めてくれたし、と付け加える。

「えっ?」

「どうせ、独りぼっちで、寂しくて、可哀想だなって思ったんでしょ?」

「うん」

「あってるよ。独りぼっちで寂しいよ。何度も発狂して、何度も吐きそうになったよ。何も食べてなかったから何も出てこなかったけどね。だから、こんなことを良い人に任せるのは間違ってる。良い人に、こんな思いをして欲しくない」

 雨音はこれまでで一番感情の籠った言葉を吐いた。切実で、思わずこっちが泣きそうになる。あぁ、もう、絶対泣かないって言ったのに。

「・・・・・・でも、次の番は僕なんでしょ?」

「あくまで、今、権利があるのが晴翔ってだけよ。それがいつ変わるのかは分からないけどね。今日だって、もう別の人に移ってる可能性があった。だから雨の散乱を追ったのに。結局、無駄骨だった」すると雨音は、晴翔の目をじっと見つめて、「これは悪人に渡す。もう決めてるの。あなたは悪人じゃない」

 言葉に覚悟を忍ばせる彼女はその一方で、表情に疲労感が現れている。五十年ものの、疲れの滞留。

 たった一日で権利者が変わる可能性は、本当のところどれだけあったのだろう? 今日を無駄にしないために、三時間も傘を開き続けた理由は?

 きっと雨音自身、薄々勘付いている。悪人は、実はそうそう居ない。世界中の人から選ばれるのか、あるいは日本人だけか。そこから悪人が選ばれて、さらに会わなくちゃいけなくて、そしてようやく傘を渡すチャンスがある。

「そんなの無理だよ。百年でも足りない」

「でも、他にないでしょ。もし良い人に渡してしまったら、きっと私は一生後悔する。そうなるくらいなら、ずっと独りぼっちの方がマシ」

「それなら──」

 晴翔は覚悟を決める。昨日の今日で、その心模様はしっかりと奥深くに焼き付いている。雨音を見つけた時の安堵感を、恐怖を打ち消す胸の高鳴りを。

 都市伝説を聞いた時から、あるいはその帰り道で高校生のカップルを目撃したときから、考えていたことがある。

「それなら、相合傘で傘を閉じるのは?」

「・・・・・・バカじゃないの」

「本気で言ってる。独りぼっちじゃ寂しくても、二人なら」

「本気でバカなのね。そもそも二人で傘に入るなんて、誰もやったことない。入れないだけならまだしも、最悪、どっちかは永遠に向こうの世界に取り残されるかもしれない。それに私たちはまだ会って二日目でしょ?」

 それなのに、命を賭けるなんて。雨音はそう言いたいのだろう。きちんと晴翔もそう思っている。きっと連日の超常現象の連続で、脳のどこかしらが壊れたのだ。なんて痛々しい、ませたガキだろう。

 あぁ、でも仕方がない。晴翔自身にはもう止められない。一目見た時からそうだ。これは、一目惚れだ。晴翔はどうしようもなく恋に落ちている。


「雨音が好きだから」

「だったら、尚更入れられない。そんな理由であなたを連れていけば、親にも友達にも顔向けできない。そんなこと言うなら、もう──」

 そして、雨音が傘を閉じるのを晴翔はいち早く察知した。先程と同じように、傘の端に手を掛ける。でも今度は止める為じゃない。一緒に中に入るため。

「ちょっと!」

 雨音は精一杯の前蹴りを繰り出す。その足技は鋭く、痛い。晴翔は、心配蘇生を行う時は胸骨が折れるほど強くやるという話を思い出した。

 蹴りに耐えて前進する。なんとか中に潜り込んで、傘を開け閉めするためのハジキを掴む。

「あっ!」

 そんな雨音の叫びを無視して、晴翔は思いっきり傘を閉じた。

 バツン! と異音が轟く。まるで巨大なゴムが弾けたような轟音だ。

 その音に最初に気づいたのは、出勤してきたイオンモールの従業員だった。音に驚いてカラスが飛び立つ。やがて異音は、重厚な雨音あまおとの中に溶けて無くなった。


 時間は再び進み出した。



 ☔︎☔︎☔︎


「ごめんなさい」

 助手席に座る晴翔は、素直に気持ちを表す。謝罪先は、車を運転している母親だ。

「本当に思ってるの? っていうか、何度聞いても意味わかんないんだけど」

 母親は真っ直ぐに道路の先を見据えながら、先ほどの晴翔の言い訳を繰り返す。

「イオンモールに行きたくなったから行ったけど、開く時間知らなかったから、とりあえず朝四時から自転車で行った?」

「そう」

「今日は金曜日じゃなくて、本当は土曜日だと思ってた?」

「そう」

「後ろの女の子は、偶然イオンモールで出会った?」

「そう」

 当の女の子、豊臣雨音は後ろの席で寝ていた。ハスキーのゲンゴロウと、晴翔が乗ってきた自転車もあるので随分と狭い。その中で、雨音はぐっすりと寝ている。

「ぜーったい嘘ついてるでしょ」

「嘘じゃないって!」

 こう言うしかない。現実の方が、よっぽど嘘らしいのだから。


 顛末と言うほどの事もない。晴翔と雨音は、二人して傘から弾き出された。赤い傘は前回閉じた時と同じように虚空に消えたのだ。晴翔も雨音も中に居らず、傘だけが消えた。

 雨音は言う。

「私は結果論が嫌いだから。あなたのした事、一生許さないから」

 勝ち誇っていた晴翔はその言葉一つで意気消沈してしまう。ちょうど昨日、先生に怒られていた時と同じ気分だ。

 そんな風に項垂うなだれる晴翔を見かねたのか、雨音はさらに言葉を続けた。

「でも、一応、ありがとう」

 その言葉一つで、晴翔はまた調子を取り戻した。男子とはそういう生き物だ。


 その後、晴翔が母親を呼ぶまでの間に、雨音は寝てしまった。覚悟という名の檻に囚われていた疲れが、内側から食い破って逃げだしたのだろう。五十年分の疲れ。それは想像を絶するものだ。ゲンゴロウのふわふわの毛が、少しでも安らぎになっていれば良いのだけれど。


 説教はほどほどに終わり、晴翔はようやく前を向けるほどにメンタルが回復した。未だに雨は降っているようで、フロントガラスにポツポツと当たっている。

 けれど、きっと永遠じゃない。いつか雨は終わる。梅雨入りと梅雨明けは夏の間に番で仲良くニュースを踊るのだ。雨音はいつも赤い傘に、水色の長靴に、黄色い雨ガッパだった。これからはもっと別の格好ができる。何を選ぶのかは雨音自身だ。もう雨音を縛るものはない。

 そんな未来を思うだけで、晴翔はやはり顔を上げられる。時代のギャップとか、親がいないとか、雨音を待つ壁はまだまだ多い。その全てで力になれるとは思わない。ただいつか、雨に降られる雨音にそっと傘を差してあげたい。ようやく、雨音の時間は進み出したのだ。


 向かう先に晴れ間が見える。まるで未来を示すかのように、天使の梯子が輝いている。

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