第三章 夢の深淵編

第42話 秋声高鳴る頃の花火


 突然の浮遊感に体が反射的に強張り、見藤は目が覚めた。掛けた布団を胸元で握りしめ、肩で粗く呼吸を繰り返す。首元には少しばかり汗が滲んでいた。

 そうしてしばらくしていると、徐々に呼吸は落ち着きを取り戻す。首を横に向ければ、カーテン越しから覗く朝日はまだ低い。


「……、」


 何か夢を見ていた気がするが思い出せない。しかし、この体に残る虚脱感は嫌な夢であったのだろうと想像に容易い。

 それこそ、村を出た頃は毎日のように夢を見ていたように思う。それも大人になるにつれて減ってゆき、最近はもっぱら夢など見なくなっていたのだが。


 見藤はゆっくり起き上がると、殴られた傷がまだ痛むのか手を額に当てる。


「……風呂」


 そう言えば昨日は疲れ果てて簡単に荷ほどきを終えた後、すぐに眠ってしまったのだった。

 そのことを思い出し、見藤は重たい体を起こし風呂場へ向かうのだった。



 そうして見藤の事務所は数日間休業となったのだが、それはあくまで久保と東雲に言い渡した休みにすぎない。体調が回復するまで依頼こそ受けるつもりはないのだが、見藤自身はいつも通りキヨへの報告書に追われることになるのだ。


 あの夏の事象、そしてその他、白澤はくたくが関与していた怪異や摂理への介入、それを一つの情報としてまとめ上げて報告する。


 どうせ煙谷は適当な事を書いて、詳細をはぐらかすことは目に見えている。と言っても、見藤自身も煙谷に関すること、猫宮に関する事などは報告する義務は持ち合わせていない。あくまでも白澤が関与した事象のみを報告するのだが、なんせ情報の選別が難しい。


「面倒だな……」


 思わず漏れた本音を聞く者は誰もいない。そうして簡単な軽食を取りながら、彼は事務机に向かうのだ。



* * *


「はぁ、目覚めが悪い」


 そう呟いて起きるのはもう何日目か。見藤の目元には薄っすらと隈ができている。それからしばらく経ってもその夢は続いていた。


 最初こそ、何の夢を見ていたのか、はっきりと覚えていなかった。だが、徐々にその内容が日を追うごとに鮮明になっていったのだ。

 そうして、その日は続く睡眠不足に堪らず、事務机に向かいながらも居眠りをしてしまった。



―― どろっ、とした感触がいつまででも伸ばした手に残っている。恐る恐る視線を上げると、そこにいるのは死を目前にしても穏やかな表情を浮かべる、最も大切な存在だった牛鬼だ。

 思わず声を上げそうになるが、喉は掠れて声は出なかった。聞こえてくるのは自分の掠れた呼吸音と、ぽたぽたと滴る水滴音。


(これは夢だろ……)


 夢の中であるはずなのに、不思議なことに甘い香りが鼻を掠めた。

―― これは夢、頭ではそう理解しているのだが、目の前の光景から目が離せない。

 そうして早まる水滴音。


(駄目だ、)


この後どうなるのか、嫌でも分かっている。それでも否定したい。

 しかし、その想いは無情にも、いつも叶わない。赤い水となって牛鬼のその姿が崩れ落ちるとき、いつも自分はもう一度手を伸ばすのだ。そして、その手はいつも空を掴む。


――しかし、その日は少し違った。赤い水となり崩れ去った牛鬼の向こう側に霧子の姿を見た。

 霧子は怯えきった表情を見せて、膝を抱えてうずくまった。はっとして、駆け寄ろうとするが霧子の姿は、今度は青色の水となって消えてしまったのだ。

 その瞬間、意識が覚醒する。



「っは、」


 がたんっ、と椅子が大きな音を立てる。そして、反射的に体が飛び起きる。肩で息をし、呼吸が落ち着くのを待った。無意識に握り締めていた手には爪が食い込み、赤くなっている。

 しばらくそうしていると、ふと鼻を掠める香りに視線を上げる。そこには、心配そうに見藤を覗き込む霧子の姿があった。

 見藤が何も言えず黙っていると、霧子がそっと口を開いた。


「どうしたの、大丈夫?」

「きり、こさん……」

「なに?」


 名を呼ばれた霧子の返事は澄んだ声をしていた。


「ごめん、少しでいいから……。手を、握って欲しい」


 その口調は霧子に少年の頃の見藤を思い出させる。彼の頼みに応える霧子は、見藤の隣に立ち少し屈むと、そっと手を包み込んだ。

 見藤の手は少し震えていて、落ち着かせるように霧子は少しだけ力を込める。霧子の少し低い体温が心地良いのか、見藤はふっと目を伏せた。


 霧子が目にした見藤の表情は、泣きそうな顔をしているが泣けない、そんな顔だ。

―― そう言えば、あの時も泣いてなどいなかった、と霧子も感傷的な気分になってしまったようだ。


 二人で村を出てしばらく経った頃。見藤は今のように夢見の悪い日が多かった。その度に、こうしてあの時と同じように手を握ってやっていた。

 大人になるにつれ、その頻度も減っていたのだが、なぜ今になって ―― と霧子は眉をひそめた。


 見藤が悪夢に魘されるようになったのは、「過去は清算しないといけない」その言葉を白澤から聞かされた後からだ。その言葉が引き金となっているのかどうかは分からない。

 霧子が白澤のいらぬ置き土産に憤りを抱いていると、見藤が小さく彼女の名を呼んだ。手の震えはもう止まったようだ。


 霧子は確かめた後、そっと手を離す。少し名残惜しいと思ってしまったのは霧子だけなのだろうか ――。離れる二人の指先に、少しだけ力が込められる。


 一方の見藤は年甲斐もなく霧子に手を握ってもらった事に対して、大いに情けなさを感じているのか、かなり気まずそうだ。

―― そうして霧子のお陰なのか、その日から悪夢を見ることはなくなった。



* * *


 その頃、事務所の数日間休業を言い渡された久保は、なんとも味気ない大学生活を送っていた。事務所の休業は東雲にも伝えており、何やら訝しげに見つめられたが追及はされなかった。こういう時、東雲の察しのよさは大変有難い。


 そして、お互い学生として学業に励んでいたのだが、久保はどうにも物足りなさを感じていた。そうだ、あの騒がしい友人がいないのだ。そう思うと、少し寂しい。


 そしてなぜか、白沢しろさわという人物についてクラスメイトに尋ねても誰も覚えがないと言うのだ。

 それはやはり、神獣白澤としての認知が書き換わったからなのか、それとも白澤の能力なのか久保には分からない。


「…、」


 久保は人知れず手を握った。そして一人、食堂へ足を運ぶ。

 そうして食堂に到着すると、見慣れた人物がいた。東雲だ。その東雲の隣にクラスメイトだろうか、一人の女学生が座って楽しそうに会話をしている。

 その珍しい光景を目にした久保は思わず、東雲に声を掛ける。


「あれ、東雲さん?」

「あ、久保くん。珍しいなぁ、一人で食堂」

「うん、ちょっとね」


久保はそう言って言葉を濁す。

 いつも友人達と賑やかな昼食を摂りに訪れる食堂だが、今日は久保一人だ。今は少し一人になりたかった。

 そんな二人のやり取りを見ていた女学生は、挨拶代わりと言わんばかりに冗談っぽく、ありきたりな言葉を言い放つ。


「え、何、あかり。彼氏?」

「違うわ」「違います」


見事に、久保と東雲の返答が重なり合った。


 大学生にもなると言うのに、異性というだけですぐに男女の関係に繋げたがるこの現象は一体何なのか。誰か説明して欲しい、と久保と東雲はその何度目かという面白くもない冗談に辟易としながら軽く言葉を交わす。


 そして、自分たちが知る上で最も不器用に拗れた関係の二人の事を思い浮かべ、久保と東雲は仲良く溜め息をついた。


「また見藤さんから連絡があれば知らせるから」

「よろしく。じゃあね」

「うん、それじゃ」


そう言って二人は別れた。

 そして、残された東雲と女学生は途切れた会話を再開させる。


「で、その年上の人とはいい感じになれた?」


 先程の久保に発した冗談など、なかった事のように恋愛話に花を咲かせるのだ。

 友人の言葉に東雲は少し、しどろもどろになりながらも、正直に答える。これは女性同士特有のひとまず自分の話を聞いて欲しい、という心理なのだろう。


「別に、うちはそんな、」

「えー、いいじゃん。好きな人に振り向いてもらいたいって思うのは自然なことだと思うよ?」

「いや、だから、その人は心に決めた人がおって……」

「え、そうなの?」

「そう。だから、うちは別に見藤さんとどうこうなりたい訳じゃなくって、」


 東雲は気付いたのだ。これはただの初恋ではない。恐らくこれは、霧子を想っている見藤が、自分は好きなのだと。


 人と怪異、種が異なる存在であったとしても、あそこまで互いを大事に想いあえる関係。それに強い憧れを抱いているにすぎない。

 だからこそ東雲の見藤に対する好意は酷く純粋で、故に霧子に許されているのだ。そして、そんな人間のいじらしい想いが霧子にとっては好ましく、東雲を可愛がっている。


 東雲と霧子。傍から見れば恋敵だが、この二人のそんな関係性をこの友人は知る由もない。それ故、友人が善意で提言したアドバイスは時に東雲を苦笑させることになるのだが、人に話すことで自分の気持ちに整理をつける事に一役買っているのも事実だ。


「まぁ、この話はもうええの!」

「えー、もっとあかりの恋バナ聞きたいのに」

「ええの!!」


 東雲はそう言って会話を終わらせ、食べ終わった配膳を返却するため立ち上がる。

 そして、残された東雲の友人は少し残念そうに頬杖をついていた。




 それからその日の授業が終わり、久保と東雲はいつもの様に構内にある談笑スペースで落合って時間を潰していた。ここ数日、見藤の事務所は休業となっているためこうして二人はここで課題をこなしたり、世間話をするのだ。


「にしても、この夏は忙しかったなぁ」

「そうやなぁ」


久保の呟きに、東雲が共感する。

 見藤と出会い、怪異妖怪心霊といった摩訶不思議な世の存在を認知してからというもの、久保を取り巻く環境は一変した。そして、それは東雲も同じであろう。

 そんな二人が思い出すのは、この夏季休暇中のこと。


「何か夏らしいこと、したっけ……」

「なーんも、してへんね」

「そうなんだよ。こう、一般的な夏のイベントっていうやつ?」

「そう、それ」


 見藤の仕事の一端を担うことができたのは、とても嬉しく充実感に満ちた日々だった。しかし、それが夏の楽しい思い出になったかと言うと、決してそうではないだろう。寧ろ、大変なことが多かったように記憶している。そして、二人はふと思いつく。


「まだ店にあるか見に行こうか」

「そうやな!」


二人は顔を見合わせ、席を立った。

 そして、向かうのは近所のディスカウントストアだ。


「こういうの、見藤さんは興味なさそうだけど……。ま、いいか」

「霧子さんは楽しんでくれそうやな!これも買うていこ」


 そんな会話をする二人が手に取るのは季節が過ぎたために割引された家庭用花火だ。季節はもう秋が顔を覗かせているのだが、一夏の思い出になればと二人は考えたのだ。

 そして、丁度そのとき、久保のスマートフォンの通知音が鳴った。


「あ、見藤さんからだ」


 久保が画面を開くと、そこに明後日には事務所を再開させる旨が書かれていた。そして見藤らしく、白澤の一件からなのか久保を心配する言葉も。

 そんなメッセージに久保は東雲と相談し、明日の夜は空いているか確認を取る。勿論、なにをするのかはその日まで秘密だ。


 見藤は二人が夜遅くまで事務所に滞在することをよしとはしない。そのため、夜に事務所を訪れる際は、こうして必ず事前に連絡を入れるのだ。

 先の大型連休の怪異事件に巻き込まれた事もあり、二人の身を預かる責任感からなのか。見藤の心配症は、より顕著になったように二人は感じていた。


「お、構わないって。よかった」

「やった。霧子さんも来るように言うておいてね」

「おっけ」


 見藤からの返事に二人は安堵し、ついでに火消用のバケツも購入しておこうと話す。

―― そうして、二人は明日に心を躍らせるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る