第32話 過去編 心情、血煙を上げる③


 少年が村に戻ると、直感的に感じた違和感。怪異を村に囲うはずの制約が消えている。そして、村の中にいたはずの怪異はこの機に乗じて逃げおおせたのか、悉く姿を消していた。

 それほどまでにこの祟りは凄まじいのか、と少年は赤黒く濁る空を見上げて眉を寄せた。


 少年は息を切らしながら村を駆ける。村人の様子は一変していた。

 何も知らず、気づかず。いつもの日常をおくる者にはじわじわと病が襲い掛かる。はたまた、祟りという負の気に当てられて狂気じみた表情を浮かべる者。そして、倒れ込んでいる者。

 村人に目もくれず、少年は走り続ける。彼には最早、人がどうなろうがどうでもよかった。


 そうして息も絶え絶え、離れ座敷に帰り着くと、庭に佇む牛鬼の姿が目に入った。その背中は広く、どこか哀愁を纏わせている。

 少年は肩で息をし、牛鬼に声を掛ける。


「おい、」


 すると、少年に気づいたのか牛鬼は振り返った。

 彼の表情は、とてつもなく申し訳なさそうな顔をしていたのだった。少年にはその表情が何を意味しているのかは分からない。―― 分からないままの方がよいだろう。


 少年が牛鬼に知られたくなかったこと、それをこの妖怪は元凶となる人から聞いてしまったのだ。これ以上、少年の自尊心を傷つけることはしたくない、と牛鬼はその口を閉ざすのだ。


「なんでそんな顔をしてる……こうなったら、もう逃げるしかない。早く、行こう」


―― この村はもう祟りによって存続できないだろう。それならば、本家の連中からその存在を消される前に牛鬼と逃げればいい、そう少年は考えたのだった。


 少年は一向にその場から動こうとしない牛鬼の手を引く。刹那、手が水のようなもので濡れた感覚があった。はっ、とし恐々としながらも、少年は己の手を見る。その手は真っ赤に染まっていた。


 そして、その先に視線を上げると ――――、牛鬼の手首から先は、無かった。手首であった場所からは、間隔をあけながら滴る、血。

 少年が視線を落とせば、目に留まるのは血溜まりだった。状況の整理が追い付かない。そんな少年の耳の届くのは、牛鬼の穏やかな声。


「掟だ」

「なんの、」


やっと絞り出した声は掠れていた。

 少年の問いに答えたのは、牛鬼ではなかった。


「牛鬼は人間を助けるとその身代わりとして死んでしまう……、そうよね?妖怪には死が存在するもの」

「霧子さん、」


 いつの間にか少年の背後に佇んでいた霧子を振り返る。彼女は少年を守るように佇んでいた。


 牛鬼の祟りにより、村から逃げられるようになったことで、少年の望みは叶い、少年は縛られていたものから解放される。それはこの少年を助けた、ということになるだろう。そして、それは「掟」に引っ掛かってしまったのだと牛鬼は言った。


 「掟」とは、霧子が言った言葉通りなのだろう。少年を助けた身代わりとして、牛鬼には死が訪れる。それは突然の別れを意味する。

 そして、それを勝手に決断し行動を起こした牛鬼に対して言葉にできない怒りと自分自身の力不足、情けなさ、様々に混ざり合った感情が少年を襲う。


「そんなこと、一言も……っ!」

「言う訳がないわ、君に……心配かけたくないもの」


 霧子の言葉はまさに牛鬼が少年に抱いている思いだったのだろう。彼は静かに少年を見つめている。その間にも、滴る血は地面に作る血溜まりを大きくしている。


「元々、儂の体は限界だった。受けた恩以上の物を返してしまっていた」


 そう話す牛鬼に、あの話は嘘ではなかったのかと少年は問う。

 受けた恩以上のもの、それは少年を育て続けたことだろうか。ならばそんな恩など返さなくてよかった、ただ一緒にいたいと願うこともできないのか、と唇を噛み締める。もう、口の中に広がる血の味にも慣れてしまった。


「怪異は嘘をつけない。嘘をついてしまうと、そうならなくてはいけない。人で言う言霊だ」


牛鬼は静かに、そして穏やかに言葉を続ける。


「いいか、坊主には酷なことだと思うが……。人は人の中でしか生きられない。その中でほんの少し……少しの幸せでいい、それを見つけなさい」


―――― 君の幸せを願おう


徐々に滴る血の速さが増していき、そう言い残して牛鬼は消えてしまった。

 いや、厳密に言えば足元にある血溜まりになってしまった。血溜まり以外何も残っていない。


「は、」


息を吐くのがやっとだった。

 目前で起きたこと、頭では理解しているが心は拒絶する。最後の、穏やかな表情をした牛鬼と相反するように、徐々に体が血となり溶けるように崩れていく瞬間が脳裏に焼き付いて離れない。


 受け入れられない、受け入れたくない。少年は、ただその場に立ち尽くしていた。

 徐々に、少年の呼吸が短くなっていく。はっ、はっ、と酸素を上手く吸えず、頭が朦朧としてくる。それは過呼吸の症状だろう。思わず、ぎゅっと目を瞑り、時が過ぎるのを待つ。そうすればいつも嫌なことは終わっている、そのはずだ。


 しかし、いくら時間が経とうとも瞼を開ければ目に入る、血だまり。もう、目の前が真っ暗になりそうだった。

―― すると、手首を掴む少し冷たい体温に意識を引き戻される。視線をあげれば、そこには霧子がいた。


「行こう」


 彼女の力強い意志を宿した視線と目が合う。その視線に、はっと息を呑み現実を目の当たりにする。

―― もう牛鬼はいない。

 あるのはこの村の澱みと祟りに侵された大地、そして悪神。ここから離れなくては。そう頭では理解しているのだ、少年はなんとか体を動かした。

 

 霧子を連れ、一度離れ屋敷へ立ち寄った。もとより村を出る用意はあったのだ。本家から幾らかくすねた金と必要最低限の荷物を背負い、少年と霧子は村を出た。



* * *


 不思議と涙は出なかった。いや、悲しいと感じる心の余裕さえも失ったのか ―― 少年と霧子は手を繋いだまま、ただ足を進めた。


 祟りと最高潮に達した澱みのお陰か、村の外へと通じる道を隠すまじないは効力を失い、探し求めていたその道は姿を現していた。二人は山の中を静かに進む。そうして少し休憩しようと、開けた場所で立ち止まった。


 村を出てから一言も発しない少年を心配そうにのぞき込む霧子は、どうしたらいいのか分からず狼狽えている。


「どうしてやしろに帰らなかった……?」

「……、」


 少年はやっと口を開いた。その声は少しばかり震えている。

 霧子はどう答えればいいのか迷った。今この少年に何を言っても慰めにすらはならないのだと理解している。ただ、霧子の自分勝手な理由だったというのも、勿論ある。


「一緒にいたくて、」

「…………」


それは彼女の本心だった。少年はしばらく黙ったまま霧子の手を握っていた。

 そうしてしばらく経ち、ふと少年が口を開いた。その声は未だ震えている。


「霧子さんは、いなくなったりしないか?」

「それは……、約束できないわ。妖怪と違って……、特に怪異は認知に左右される存在だもの、もし今後認知が薄まれば私は、」


 もしこの少年に希望を持たせておいて、自身の認知が薄まり、その存在が消えてしまえば。そこから先は想像したくもない、と霧子は首を振った。

 そんな霧子を見て少年は握った手に力を込めると、彼女と視線を合わせる。


「この眼をやる。言ってたんだよ……この眼は特別だ。怪異が食えば力が手に入るって」


 妖怪や怪異は嘘をつくことはできない、ならばその話が間違いであるという話にも信憑性がなくなる、そう考えたのだ。

 そして、少年は思う。この眼がもたらす不幸はもう沢山だ。あれだけ奔走し、時間と労力を費やし、己の心を抑えつけてでも得たかったもの。だがしかし、今この場に大切な存在だったあの牛鬼はいない。

―― この眼には何の価値も、意味もない、そう頭の中で自分の声が響く。


「この眼を対価に、俺と契って欲しい」

「えっ!?」

「何を慌ててるんだ……?」

「いや、あの、」

「ただの誓約だろ」


 少年からの突然の申し出に、霧子は酷く動揺した。無論、その魂を欲した霧子にとっては願ってもない申し出だ。しかし、この少年は怪異と契るという別の意味を理解していないのだと、すぐに納得した。

 今しがた親しい者を失ったばかりで、その空いた心の穴を埋めようとしている無意識下での行動であることは十分に分かっている。


「……分かったわ」


 だが、そう答えた己はやはり怪異なのだと霧子は自認する。

 彼の心が弱った隙を見て、自分の欲しいものを手に入れようと動く、それは怪異と言わず、何だというのだろう。ただ少なからずこの少年に抱く、共にありたいと思う気持ちはそれだけでない。


「でも食らうって言ってもおそらく、物質的に眼を食べたんじゃ意味がない」

「そうなの?」

「こうする」


 すると少年は何やら荷物から道具を取り出した。それは呪いの道具だろう、地面になにやら綺麗な文字を羅列していく。その文字列は霧子と少年の周りを囲むように描かれた。

 そして、霧子にその中心に座るように促し、彼女と対面となる位置で少年も座った。体格差から少し歪だがよしとしようと、少年は頷く。


「目を閉じて」


少年は静かにそう呟いた。霧子はそれに従う。


 本来であれば牛鬼に、その眼の力を譲渡するつもりだったのだろうか。

少年はこの眼の話を聞いてからというもの、その力にまつわる逸話を徹底的に調べ上げていた。あの村で呪いは日常茶飯事だった。それならば、その手の逸話に関する書物を探すのであれば他に適した場所はないだろう、なんとも皮肉な話だ。

 そうして、見つけたのだ。厳密にいえば、それに似た呪いを自分で弄ったのだ。その知識と賢さを授けたのは牛鬼だった。


 死霊や人の嘘、本心が視えなくなれば利用価値はなくなり、本家からは放置されるようになるという、少年の目論見だった。それも今では無意味だ。

 眼の力を他者に譲渡してしまえば怪異でさえも視えなくなってしまうのではないか、という不安がない訳ではなかったが、不思議とそうはならないような気がしていたのだ。



 そうして、儀式は始まる。霧子は少年の声が心地いいと耳を傾ける。すると、途中少し苦し気に呻く声が聞こえ、目を開けた。

 冷や汗が彼の頬を伝っている。霧子は思わず手を伸ばし、少年の目を覆った。少し冷たいのか、ほっと息をする少年に霧子は安堵する。

 そうして少年の声が止み、霧子は目を開く。そして次に少年が目を開くと、思わず霧子は息を呑んだ。


「あんた、」

「ん?」


 少年の眼の色は、深紫こきむらさき色から紫黒しこく色へと変っていたのだ。そうして、霧子自身が強く感じる確かな、個という意識。それは名で結ばれたえにしがより強くなった感覚だ。


「上手くいったみたいだな」


そう笑う少年は少しだけ嬉しそうだった。霧子はその表情に胸が締め付けられる。


「これからどうするの?」

「あぁ、京都へ向かう。呪い道具屋があるんだ」


 そこで見習いでもいいから雇ってもらえれば食ってはいけるだろう、と話す少年はなんとも逞しい限りである。その決断が十数年後、怪異事件調査に忙殺される一人の中年を生み出すことになるのだが、今それを知る術はないというものだ。



 人は人の中でしか生きられない、その言葉の重みを少年は理解していた。人の欲深さ、愚かさを幼い頃から目にしてきたとしても、そこで生きるのは同じ人であれば致し方のないこと。

 少年がこれから出会う人達に、彼の心は少しでも救われるのだろうかと、霧子は少し不安になる。人を救うのも、また人であると彼女は考えている。


 そして、契りとして少年の眼を対価としたならば、何かを対価として支払わなければならないと、霧子は思い至り、少し考える仕草をする。


「私はあんたに取り憑くわ。それが対価」

「え、それ大丈夫か……、」

「死にはしないわよ。あんたなら」


 そう冗談っぽくいう霧子に少年は肩をすくめる。

―― そう、もう大丈夫だと霧子は直感的に感じていた。名をもらい、眼を対価に契を結んだ。それは集団認知の力でさえも及ばない、一人の少年の認識と強い認知により、個として存在が確立されたからだ。

 そして、それには霧子自身の想いも上乗せされる、少年がこの先何者にも邪魔されず天寿を全うできるように、守ろうと誓う。その為に取り憑いたのだ。



 そうした出来事がこの二人の関係の始まりとなったのだが、大人になるにつれ、少年は霧子へ傾倒していることを、さらに強く自覚していく。


 人間の欲深さを知っているためか、霧子に対して抱いている恋慕や劣情を、薄汚れた人間の感情と考え、自身の内に抱えてしまう節があるのは、その壮絶な経験からであることは想像に容易い。

 彼はそれを示そうとも押し付けようとも思っていなかった。ただ、最近は久保や東雲たちのような少しだけ正義感が強く、人に好意的な態度を隠さない人間と関わったことで、自分の感情を少しずつ霧子に示すようになったようだ。元より、互いに想いあっていたのだ。その距離は少しずつ縮まっている。


 そしてすっかり大人になった彼に、どきまぎするようになった霧子。密かに、添い遂げたいと願うようになったことは秘密だ。



* * *


 昔を思い出し、霧子はしばらく見藤の髪をいていた。猫宮は縄張りを巡回しに出かけてしまった。

 すると、見藤が目を覚ます。朧げな意識で、髪を鋤いていた霧子の手を握った。


「……ん、霧子さん。来てたのか」

「あ、起こしちゃった?悪いわね」

「いや、冷たくて気持ちいいから、そのまま……。夢をみていたような、気がする……」

「そう」


 そう言って寝起き特有のはっきりしない表情でふにゃりと笑うものだから、思わずため息がでる霧子。そして、見藤の額に唇を寄せた。

 予期せず霧子の方からそんな事をされた見藤は目を点にして霧子を凝視している。


「な、何よ」

「いや……突然だったもんで、その、」

「別に私だってそういう日くらいあるわよ!!」

「そうなの、か……」

「そうよ!」


何に怒っているのか、霧子はぷりぷりと頬を膨らませている。

あぁ、そのころころと変わる表情に惹かれたのだと見藤は少し困ったように微笑むのだった。

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