第29話 過去編 霧の中の逢瀬


 そうして秋。この地域は他よりも気温が少しばかり低いのか、すでに朝夕は新涼の空気が村を満たしていた。次第に山の木々は花紅葉となり、少年にも変化が訪れる ――。


 いつものように、少年と牛鬼は囲炉裏を囲んだ団欒のひと時を過ごしていた。会話の中で、少年は声が掠れ、音の調子がとれないことを打ち明けていた。


「喋りづらい……」

「人で言えば、それは大人に近付いているということだ。必然的な成長だ」

「うぇ……、」


 少年が知る大人は村人だけだ。欲深く、狡猾に人を搾取し、利用する。本家と分家という身分差別を当然のように口にする―― そんな大人になど、なりたくもないと思うのが妥当だろう。

 しかし、何故か牛鬼は少年の成長をしみじみと語っている。まるで子が大人へと成長することを喜ぶ親のようだ。


 先ほどから、少年は試しに声を出そうとするが、音が掠れて上手くいかない。これでは祝詞のりとも唱えられないのではと思い至り、本家からまじないに呼ばれても拒否できると、したり顔をしている。

 だが、その一方で牛鬼は気掛かりがあるのか。その表情は険しく、何かを考えるような仕草をする。


(人の欲深さは恐ろしいからな、何を考えるか分からん……)


牛鬼は、どうか杞憂であって欲しいと切に願った。



 それからしばらくして、村の周辺には霧が立ち込めるようになっていった。季節柄、霧が出やすい時期である。もちろん山も霧に覆われることが増えた。

 昔はこれほど毎日、霧に覆われることはなかったと話す牛鬼。少年にとっては大人たちから身を隠せるので好都合、村を脱走し山を駆けずり回る、そんな日が続いた ――。


 その日は、いつになく濃霧が山を覆っていた。しかし、そんな濃霧の中でも少年はいつものように山の中を駆けて行く。

 すると、霧の中に揺れる人影を目にした少年は咄嗟に足を止め、身構える。


「ん?」


 連れ戻しに来た村人かと注視していたが、その人影は亭々たる大きさだった。人影が何なのか確かめようとしたが、その日はそこで霧が晴れたため、村に帰ることにした。


 次の日も、霧の中に人影を見た。少年は不思議に思い眺めていると、人影はどこかへ向かっているようだ。―― あの山頂の鳥居の方だ。少年はあの鳥居の先、更に奥地にある祠に存在するを知っている。

 少年は咄嗟に追いかけ、亭々たる大きさをした人影に声を掛けたのだった。


「あんた!あの鳥居には近づかない方がいい!!」


その切羽詰まった声に驚いたのか、影が震えたのが見て取れた。少年は怖がらせたのかと思い、今度はなるべく優しく声を掛ける。


「あの、危ないから、」

「私が視えるの……?」

「ん?」


そう答えた声は澄んだ女の声だった。

 少し涙声のような気がして少年は首を傾げた。すると、霧の中から人影が這い出して来るように視えた。今更、妖怪や怪異がどう姿を現そうと、それに驚く少年ではない。亭々たる影は、まさに長身の女の影だったのだ。


 首を傾げながら見上げる少年に女は「あっ」と気付いたように声を漏らすと、体をもたげ、人の姿をかたどったものに変えた。

 そのとき、長い黒髪と白地のワンピースの裾が少しだけ揺れた。人の大人より背が高いが、先程と比べると見上げる首の角度は楽になったというものだ。そして、霧の中から現れた女は、少年から見て ―― とても美しかった。


(こんな場所に……、人里から逃れた妖怪か?いや、新たに生まれた怪異かもしれない)


彼女はこの山を彷徨っていたのだろうか、と少年は思い至る。

 彼女の黒髪は痛み、身に着けているワンピースは土で汚れ、裾は破けている。だが、彼女の美しさは少年にとって目を奪われるものだった。

 きっとそれは彼女が纏う儚げな雰囲気と、それに相反するかのように滲み出る内面的な美しさによるものなのだろうか ――、少年はその感覚を言葉にするには幼かった。


 目の前に佇む女怪異を見上げながら、少年は少しだけ微笑む。


「ありがとう。少し首が楽になった」

「そう、」

「とにかく、あそこには近づかないでくれ」

「どうして?」

「……、人のせいで山神が悪神に堕ちかけている。だから、怪異であってもその影響を受ける。あんたも近付かない方がいい」


少年は人である己がそう説明するのも可笑しな話だ、と今度は皮肉な笑みを浮かべる。


「あぁ、あと……この山の麓にある村にも近付かない方がいい。あそこは、怪異が一度入ると出られないから。それじゃ」


それだけ言い残し、少年は下山したのだった。

 あの美しい女怪異は見たことも、牛鬼の話でも聞いたことのない怪異だった、不思議なこともあるものだと、少年は考えながらその日を終える ――。



 そして、翌日も霧が出ていた。霧が出る朝の空気は清々しく、少しだけ肌寒い。


 少年は胸騒ぎがして、山ではなく村と麓の境を駆けていた。すると、やはりと言うべきか。あの女怪異は村の近辺まで来ていたのだ。

 少年は足を速め、ゆったりと歩みを進める亭々たる人影に向かって声を掛けた。はたと視線を遠目にやると、濃霧で分かりにくかったのだが、なんと村のすぐ傍まで来ていたのだ。


「あんた!村には入るな!昨日言ったばかりだろ!」


少年は思わずそう叫び、霧の中に佇む女怪異の手を引いた。

 すると、彼女は昨日と同じ背丈に姿を変え、目をぱちくりさせている。彼女の長く伸びた前髪がはらりと顔から落ちた。

 少年はそんな彼女の表情が可愛らしく思え、怒る気力も削がれたようだ。溜め息をつきながら村人に悟られていないかどうか、周囲の様子を確認する。


「はぁ……とりあえず、こっち来て」


少年はそう言うと手を離し、先導するように先を歩いた。


 少年が彼女を案内したのは、山を駆けずり回っている最中に見つけた、身を隠せる小さな洞穴だった。少年は到着してから思い至ったのだが、この洞穴の大きさでは長身である女怪異にとって、身を隠すにはとても小さい。

 

 少年はどうしたものか首を捻っていた。すると、彼女は特に気にする素振りもなく、器用に身を縮めて洞穴に収まってしまった。


「……」


思わず、彼女を可愛らしいと思ってしまった自分が恥ずかしい、と眉を寄せて眉間を押さえる少年。

 少年が身を隠す場所はないが、彼女の前に膝をついて事情を説明する。


「あの村の人間は大抵、怪異が視える。あいつらは怪異や妖怪が目につくと、妖怪封じなんかを使って捕縛することだってある……」

「どうして、」

「捕まえてまじないの贄にする。だから、」


―― 近づかないでくれ、少年はそう言おうとした。

 しかし、彼女の顔があまりに悲しみに溢れていて、少年はそれより先の言葉を口に出来なかった。―― 正直に事情を話し過ぎたのだろうか、怖がらせてしまったのだろうか、と頭の中で色々な思考が巡り、口を閉ざしてしまった。


 すると、彼女は小さく言葉を溢した。


「君はなんで毎日山を駆けてるの?」

「ん?」


それは口数の少ない彼女からの問いかけだった。

 少年は彼女と言葉を交わすことに、少しだけ胸を膨らませる。そして、周囲に人の気配がないことを確認すると、洞穴の前に胡坐をかいて座わった。

―― そうして、少年はかいつまんで己の事情を話す。


 山神が悪神に堕ちる前に世話になっている妖怪と共に村を出たいこと。しかし、あの村には妖怪や怪異を縛り付ける、制約とも呼べるのろいが施されている。

 少年は村の周囲や山を駆けながら、そののろいの綻びを気付かれない程度に少しずつ広げていること。そして、村を出て山を越えるための道が隠匿されていること。故に、その道を探していることを明かした。


 そのような事情を会って間もない怪異に話す、と言うのはなんとも不用心であるが少年にとっては、人よりも怪異の方が信用に値するのだろう。そうさせているのは少なからず、視え過ぎる深紫こきむらさき色の眼の影響もあるのだろう。

 少年はさらに言葉を続ける。彼女はそんな少年の話に静かに耳を傾けていた。


「食料品や日用品は週に一回、そこを通って調達しに行く。だからその道を見つけられればいい」

「そうなの……、」


彼女は少年の言葉を聞くと、少しだけ俯いた。

 少年はこの怪異には何か気掛かりがあるのだろうか、と眉を下げながら顔色を伺う。すると、ふと思い至ったように忍ばせていた包みを取り出した。


「……腹でも減った?これ、食べるか?」

「……怪異は、腹が減らない」

「でも、嗜好にはなるだろう?干し芋、美味いよ」

「そうね」


彼女は干し芋を受け取ると、少しかじった。

 そうして、彼女は何かを考える素振りを見せた後。首を傾げながら、そっと口を開いた。


「ねぇ、だから封印が解けたのかしら……」

「ん?」

「話してくれたお礼、」


そういうと彼女は自身のことをぽつりと呟いた。


「私ね、昔に人を喰らい過ぎたの。怪異は人を喰らうのよ……」

「ふーん、」

「君は、私が怖くないの?」

「怖くないよ。俺は目がいい。そんな風には視えないだろ、あんた」


 事もなげな様子で少年がそう言うと、彼女は唇を噛んだ。次第に、彼女の夜を模したかのような瞳が濡れ始め、大粒の涙が頬を伝い始めた。

 少年はぎょっとし、慌てて慰めようとする。しかし、慰め方など分からない。

―― 落ち込んだ時、牛鬼がしてくれること。それは頭を優しく撫でることだった。


 膝を抱えながら、鼻をすする彼女の痛んだ髪を、少年は優しく撫でた。


「……、ずびっ、」

「気休めだけど……、」


二人は、しばらくの間そうしていた。

―― どうして彼女が泣いているのか分からない。こういう時にどうすればいいのか、分からない。ただ、少年は優しく頭を撫でることしか出来なかった。


 その日を境に、山は濃霧に覆われることが多くなった。


* * *


 それからしばらくして、少年の声は様変わりしていた。最初は聞き慣れない己の声に違和感を覚えていたが、次第に慣れてきた。

 

 その頃になると、時間を見つけては、あの洞穴で彼女と会い、外の話を聞くようになっていた。少年はその話は現代とは違う、昔の話だと察していたが彼女と過ごす時間が楽しくて特に気に留めていなかった。


「ねぇ、この間の話の続き、聞いてくれる?」


 その日は少し違った。出会った頃のように少し悲し気な表情をしている。


 聞くと、大昔に添い遂げたい人がいたという。しかし、怪異は認知の存在。その怪異に魅入られた人間は憑り殺されてしまうという認知が広まっていた。

 すると、その人はある日突然死んでしまったのだという。彼女が悲しみに暮れていると人里にいくつもの災いが重なってしまったために、今度はやしろが建てられ、彼女は祀られた。


 さらに認知と力は強まり、いわれのない罪で封印されてしまったのだ。しかし今こうして彼女がこの場に存在しているということは封印が解け、更に彼女を封印した存在は既にいない。

―― 目を覚ますと、彼女自身でも知らぬ間にこの地にいたのだ。


 全てを話し終えた彼女は少年にどう思われるのか不安なのか、心なしか顔が強張っている。しかし、少年はいつもの調子で彼女を呼んだ。


「なぁ、霧子さん」

「なに、それ?」

「ん?名前、あった方が便利だろ?怪異には個を示す名前がないことが多いから」

「……、」

「気に入らなかった?」

「いいえ、素敵だと思うわ」

「そうか、よかった」

「君の名前、教えて」

「あぁ、俺は ――」


少年は牛鬼にも滅多に呼ばれない名を彼女に教えた。


「馬鹿ね、そんな簡単に名を与えるなんて……」


 名は体を表す、それは僅かながら少年とこの怪異との間に結ばれたえにしとなったのだ。

 少し、嬉しそうに呟いた彼女の表情は穏やかだった。

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