第27話 過去編 幽愁暗根


 それはどのくらい前だったか、時間の流れが人と少し違う霧子にとっては、つい昨日のように感じられる。しかし、ソファーに横たわり眠る見藤の寝顔を見ると、随分と歳を重ねたのだと実感する。

 確か二十数年前だったか ――――、霧子は過去に想いを馳せる。




* * *


 木々が生い茂る森の中を走りながら、無我夢中で前進する。頬が葉で切れ、木の根に足が取られ、転げそうになったとしても足を止めてはならない ――。少年は己の胸の内にそう言い聞かせ、不意に振り返る。後を追いかけている足音と影が増えている。


「くっそ、今日も無理か……!」


 所詮、子どもの足ではそう遠くへ逃げられない。そうこうしているうちに、突然腕を引かれ体の自由を奪われる。

 少年はその相手を睨みつけるが、心底嫌そうに睨み返された。少年の腕を掴み上げ、片手に縄を持つのは中年の男だった。その後ろから、何人もの人影が茂みから姿を現す。すると、腕を掴む男は突然に怒鳴り声を上げた。


「今月で何度目だ!!こっちも迷惑してるんだ、村から出ようなんてするな。無駄だ」

「うるせぇ、この糞野郎が」

「おい、その目を向けるな!気味が悪い……」


 そう言い放つ男の忌々しそうな視線の先にある少年の眼は、深い紫色をしていたのだ。彼が顔を逸らすと丁度日の光が反射して藤の花のような淡い色に変えた、なんとも不思議な眼だった。


 男が早く歩けと言わんばかりに少年の背中を小突く。その不快感と苛立ちから、少年はせめてもの抵抗で舌打ちをする。 少年は無理やり軽トラックに押し込まれ、頭をぶつけた。恨めしそうに男を睨みつけると、ごつん、と頭を拳で叩かれる。


(まぁ、今日は想定内の時間だな。もう少し道筋を考えないと、この村からを連れて出られない)


 その少年は鈍い痛みに耐えながら、頭の中では強かに次の脱走計画を練る。

―― そうして少年の脱走劇は幕を閉じ、再び村に連れ戻されるのだった。



 村に入ると浮遊する認知の残滓、あちらこちらに怪異の姿がある。人に似た姿をした者、異形の姿をした者、その姿形は様々だ。すれ違う村人も平然と言葉を交わしている。―― ここの村人達は怪異を視ることに長けている。

 この村では、奇々怪々なことに人間と怪異が共に暮らしていた。ただ、少年にとって共に暮らすと言う言葉は誤りのようだ。彼はその光景を愁いを帯びた表情で眺めていた。


 村の中心部には大きな屋敷がある。敷地の中にはいくつもの蔵が建っており、この辺鄙へんぴな村の中で随一の権力を誇っていることが建物からして分かる。

 一行が立派な石垣に構えられた門をくぐると、上等な着物を着た初老の女が待ち構えていた。少年の姿を目にした女の表情は厳しく、口元を歪ませている。

 だが、少年を連れて来た男に話し掛ける時には、その形相はなりを潜め柔和に声を掛けたのだった。


「手間をかけて申し訳ないね」

「いやぁ。見藤さん、ほんとこいつの躾をしっかり、お願いしますよ」

「私もこの子には困っているのよ、反抗期かしらねぇ。まぁ所詮、分家の子どもだから育ちが知れているのよ。ごめんなさいね」


 少年はそんな会話をしている大人達を辟易として見やる。すると不意に初老の女と視線が合い、突然に怒鳴られた。その少年は眉を寄せ反抗的な態度を取るのが精一杯だった。



 そうして、少年は屋敷に連れ戻された後、女中に無理やり風呂に入れられた。一人にしてくれと言ったとしても、その脱走癖故なのか到底聞き入れられない。

 彼は身を清めた後、上等な着物に着替えよう言いつけられた。そして、とある部屋に呼びつけられる。


 少年は女中に連れられ、呼ばれた部屋に赴く。女中が膝をつき、襖を開けた。

 そこは昼間だというのに薄暗く、蝋燭の炎が怪しげに揺らめいている。そして廊下と比べて空気が冷たく、何やら煙たい。

 煙たいのは部屋に香が焚かれているためか、と思い至り少年は疎ましそうに眉を寄せる。そして、その匂いに思わずむせ込み、顔を顰めた。煙が肺に纏わりつき、呼吸を浅くするのだ。

 

 畳には一部敷物が敷かれ、和紙、筆、酒、何かの死骸、不思議な道具が並んでいる。それらの脇に正座をして座る、初老の女。

 女中に言われ、少年は畳に膝をつく。初老の女は少年を見やると、冷たい視線と声音で少年を呼びつけた理由を告げる。


「これを呪いの贄に」

「…………」

「やらねば、お前が大事にしているあの化け物、どうなるかね?」

「……は、」

「それとも今日のように自分だけ逃げるかい?」

「下衆が」

「本当に躾がなってないねぇ。分家の者は」

「……っ、」


 少年は不意に左頬に熱を感じ、たれたのだと気付くには少し時間がかかった。奥歯を噛みしめながらも、目の前の怪異に視線を落とす。


 初老の女から差し出されたのは小さな怪異だ。認知の残滓であれば、空間を漂うだけの苔のような存在なのだが、この怪異は既に自我を持ち、一個体として成立している。それを「贄」と呼ぶのだから求められていることは想像できるだろう。


 自然の摂理を無視した人の介入によって、その存在を消滅させる。それは少年の意思に反していたが、大切にしている者を引き合いに出された以上、拒否する術を持たない。胸の内に渦巻く、不快感に眉を寄せることで精一杯だった。


(……この村の連中は異常だ)


少年はこの村が異常であることを理解している。

 村の外ではまじないなど、とうの昔に廃れていることを知っている。しかし、この村では日常に呪いが溢れている。なんなら、村の外部から依頼を受け、それによって莫大な富を得ていることも知っていた。

 もちろん、この村ではその依頼内容が人道に反していようがお構いなしだ。寧ろそういった依頼内容であればあるほど報酬は弾むのだ。


 そして、この村には怪異が多く存在している。それは今こうして目の前にいるように、贄として囲われている怪異達だ。

 無論、その逆も然り。怪異の奇々怪々な力を借り受けるときに、人が贄として要求されることもあった。その時には、この少年のような分家の者が選ばれる。

 また、呪いを生業としているからには、人によって呪いを返されたときには身代わりが必要となる。その身代わりとなるのも、分家の役割だと教えられてきた。


 しかし、この少年の境遇は若干違った。どんな呪いをさせても大人より秀でていたのだ。それをこの狡猾な大人たちが利用しないはずもなく、こうして毎日毎日、奪いたくもない存在を贄にして呪いを行うのだ。

 どんなに拒否しようと逃げようとも、囲われた世界で生きてきた子どもには、その世界から抜け出す方法など自力では見い出せなかった。


「本当に呪いをさせれば気味が悪いほど完成度が高いねぇ、あぁ勿体ない。目がいいんだろうさ、上手く使ってやるのだから感謝しなさい」

「ほーん、それはありがとうございます」

「っ、本当に憎たらしいね!終わったならさっさとお帰り!」


 感情的に怒り出した女に、少年は辟易としながらも形だけの一礼をし、部屋を出た。少年の深紫こきむらさきの瞳にはこの女の欲深さが映っていた。

 ただ、表情や行動からそう感じるものではない、まさに映るのだ。目がいい、というのはあながち間違いではない。


「お勤めお疲れ様でございました」

「……」


 この女中とて例外ではない。こうして労いの言葉を口にしているが、本心ではやはり分家の者だと蔑む本心が、少年には視えている。

 そのまま立ち去ってもよかったのだが、気まぐれに少し助言をしてやろうと思い足を止めた。


「お前さ、嫉妬に狂って人を貶めるのはいいけど。そいつに取り憑かれてるから、覚悟しとけよ」

「はぁ?」


少年の言葉に女中の本性が少し垣間見えた。そして少年は女中の背を指さした。

 そこには、背になだれかかる女の霊。死亡した経緯、死因、未練、そう言ったものが少年の目に映る。

 呪いを生業としているこの村では、この少年の目は至高であると同時に得体の知れない物だと恐れられていた。この少年の生家ではただ金を生む道具で、一方的に搾取されるだけの物なのだが。


「はぁ、どいつもこいつも気色悪い……」


そう呟くと大きな溜め息をつく。

 少年は幼い頃より大人の悪意、人間の強欲さや狡猾さ、そう言った負の部分に触れ過ぎたのだ。


 顔は笑顔だが本心では真逆の事を考えているなど日常茶飯事だ。それを指摘すれば、ボロボロと仮面は剥がれ落ち、本性を現す。―― それが大人たち。


 死霊は己の未練を晴らしてもらおうと躍起になり、少年に取り憑こうと躍起になる。それに加え、命の灯が途絶える瞬間を追体験させるという遠慮したいオプション付きだ。

 丁重にお断りするために酒や塩を浴びせ、取り憑こうとしたお礼と言わんばかりに殴っておく。死霊の類はこれで万事解決だ。

 霊を殴るなど理論的には土台不可能な話であるが、この少年からしてみれば何となくできる、ことらしいので何ら問題はないそうだ。

―― いっそのこと、何も視えなければもう少し違ったのかもしれない。


(でも、妖怪や怪異が視えなくなるのは勘弁だな……)


 そんな考えを巡らせていると、ようやく見慣れた離れ座敷が見えてきた。そこに佇む大きな影。少年はそれを見るや否や走り出した。


「やぁ、なにかあったのか。坊主」

「別に、なにも……。いつものこと」


走ってきた少年に陽気な声で話しかけた、男の姿は異形だった。

 頭は牛、水牛のような左右に分かれた立派な角を携えている。しかし、胴体は人間のような体躯に見えるが少し違う。それは鬼のように立派な体格だ。そして、その体躯を生かすように和装に身を包んでいる。

 肌の色は艶やかな漆黒、腕は太く筋骨隆々で、しかしながらやはり妖怪か。その手の先の爪は黒く鋭く、指の数も牛というに相応しいものだった。


 しかし、その姿と打って変わり、少年に語り掛ける声音はとても優しい。その異形の姿をした男は少年の頭を優しく撫でている。その瞳は翡翠に輝き、柔らかい目をしていた。


「なぁ、牛鬼はなんでこんな所にいるんだ……」

「受けた恩を返すまでと思いつつ、ついつい居座っているだけだ」

「そうか、」


 牛鬼と呼ばれた妖怪は、少年の問いに目を細めながら答える。少年は誰に受けた恩なのか尋ねたかったが、それは野暮なようでいつも聞けないのだ。

 そして居座っているというのは嘘だと知っている。この村は一度でも怪異が足を踏み入れれば、村の外へ出られないようまじないが施されている。己が囚われていることに少年が罪悪感を抱かないようについた嘘なのだろうか。


 しかし、大昔には最恐と言わしめた牛鬼ほどの妖怪が、この村に施されているまじないをやぶることができないというのも考え難い。結局のところ、その胸中は分からない。


 牛鬼は少年にとって最も大切な存在だった。記憶は定かではないが、物心ついた頃には既に一緒にいたように思う。親と言うものがどういう存在か知らないが、要は育ての親のようなものだ。

 本家の人間でも知らないようなまじないや、幾万と存在する妖怪や怪異、神について知識を授けてくれたのは彼だ。こうして離れ座敷で共に暮らしている。分家の人間は他にもいるようなのだが会ったことはない、この離れ座敷に住んでいるのはこの二人だけだ。


「なぁ、この眼はいつか……」

「ん?」

「やっぱり、何でもない」

「…………」


 そんな脈絡のない会話をしながら二人は屋内へと移動し、囲炉裏の前に座った。世間から隔絶されたような田舎の村だ、現代となった今でも昔ながらの日本家屋を残している。胡坐をかき、牛鬼が火をくべる。


 囲炉裏には既に鍋が吊り下げられ、ぱちぱちと音を立てながら燃え始めた火によって温められてゆく。それを確認した牛鬼は土間へと移動し、釜の蓋を開けた。すると居間からでも目に見える、白い湯気が立ち上ってゆく様子。

 その様子を見た少年は表情を明るくして、食事の用意を手伝おうと腰を上げた。


 お膳に乗るのは、炊き立ての玄米、ふきのとう、たらの芽とこごみの天ぷら、そして空の汁椀。囲炉裏に吊り下げられた鍋から、ぐつぐつと湧く音がしてきた。少年は土間から慌てて居間に戻ると、そっと木蓋を開けた。

 すると、鍋には緑鮮やかなセリ汁が温められ、そのいい香りが鼻腔をくすぐる。それを空の汁椀に注げば、なんとも春先が感じられる贅沢な昼食の完成だ。


 ある程度の後片付けを先に済ませ、牛鬼も居間へと戻る。彼を待っていた少年は早く食べたい気持ちを我慢していたのか、期待に胸を膨らませた、なんとも年相応の表情をしていた。

 そんな少年が牛鬼はとても微笑ましく思え、目尻を下げたのであった。そして二人は向かい合い、揃って両手を合わせる。


「いただきます!」「頂きます」


 少年が真っ先に箸をのばしたのは山菜の天ぷらだ。それはこの時期だけの山の恵みだろう。その味を確かめるようにゆっくりと食べ進めてゆく。


 この二人の食事事情というのは、半ば自給自足のようなものだった。この閉鎖的な村では、本家と分家という身分差別はこうも顕著に表れていると言えるだろう。

 米や調味料といったものは支給されるのだが、それは最低限の品数に過ぎない。こうした山菜類は少年が山に入るときに採ってくる。

 それは少年が牛鬼に、山を駆ける尤もな理由を告げるための手段にすぎないのだが結果、贅沢な食事となってその姿を変えるのだから、一石二鳥というものだ。


 箸を勧めていくと次第に少年は頬を膨らませてゆき、まるでリスのような頬袋があるような光景となっていった。


「うまい」

「はは、それはよかった。儂の分も食べるといい」

「む、それは違う。俺がせっかく採って来たんだ。二人で半分こだ」


 牛鬼は自身の皿に盛られていた天ぷらを少年の皿へと寄こそうとしたのだが、それは止められてしまった。目元を下げて少し残念そうな牛鬼に、善意を断ってしまったことを少し申し訳なく思いながらも、少年にも彼を思いやり譲れない部分があるのだ。


 牛鬼のその立派な体躯に対してこの食事量というのは明らかに腹は膨れないだろうと、少年は分かっているのだ。そもそも、牛鬼がこうして人里で暮らすようになる前はどのようなものを食べていたのだろうかと、少なからず疑問を抱くのだがそれを尋ねるのも野暮というものだろう。

 少年は牛鬼が天ぷらに箸を伸ばすのを確認すると、満足そうに頷き笑ったのであった。


「明日は俺の当番だな、これに負けないように頑張るよ」

「それは楽しみだ」


そうして、腹と心が満たされる食事の時間は過ぎていく。

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