第2話 俗に入りては而ち俗に随う②


「久保くん!!!」


 突如、耳に響く剣幕と共に、久保は肩を掴まれ後方へ引き寄せられた。

―― 心臓の鼓動が耳に届きそうな程、激しく脈打っている。足りない酸素を求めるように、細かい呼吸を繰り返す。後ろへ引き寄せられた反動でそのまま尻もちをついた。地面に座り込み呼吸を整えようとする。

 その間、声の主が必死に声を掛けてくれていることだけは理解できたが、酸素が足りず朦朧としている頭では何を話しているか理解できなかった。


 それから、どのくらい時間が経過したのだろうか。徐々に呼吸が整い、頭痛も治まり始めたとき、久保はようやくその声の主を認識できた。


「け、んどうさん……?」

「はーー、よかった……。間に合ったか……」


―― 見藤だった。

 地面に座り込んでいる久保の目線に合わせて片膝をつき、玄関引戸に伸ばしていた腕をがっしり掴んでいる。久保の意識の混濁が解けてきたと判断したのか、見藤はその手を離す。そして、彼はほっとした表情で呟いた。

 一方の久保は自分が置かれている状況や、なぜ見藤がここに居るのかも、何もかも理解が追い付かない。依然、困惑した表情を浮かべている。


「立てるか?」

「はい、多分……」


 見藤にそう聞かれ、久保は曖昧な返事をする。服に付着した砂埃を掃う余裕はなく、立ち上がった時にパラパラと砂が地面に帰って行った。

 見藤はスーツについた砂を手で掃いながら立ち上がり、険しい表情をしている。そして、古民家に見向く。


「あの、見藤さん……、どうして、ここに? ここはどこですか……? 僕、友達と一緒にいたんでです……! そいつは……?」

「質問は順番にしてくれ、おっさんは幾つも一度に答えられない」


 まぁ、まぁ、と落ち着いてとジェスチャーをする見藤。だが、彼の険しい表情は変わらない。


「すまんな、久保くん。まずは少し確認させて欲しい」

「何を……?」

「ここはどう、視えている?」

「どうって言われても……。古い民家、です。誰もいないはずなのに、でもどこか生活感があって、その雰囲気が、気持ち悪くて……うぅ、頭痛い」

「そうか」


見藤の問いに、久保は感じたことを話す。

 すると、再び頭痛が久保を襲う。痛みに顔を歪めると、見藤は心配そうな表情を浮かべていた。

 見藤は何故この異質な状況下でも平然としているのだろうか。痛みの最中、久保は新たに湧き上がる疑問で、さらに混乱するのであった。


 そうして久保の頭痛がやや治まった頃であろうか、見藤が口を開く。それは言葉を選びながら、久保の理解のペースに合わせて話してくれているようだった。


「まず、久保くん。君は怪異と呼ばれる、俺たち人とは異なる存在について認知はしているか?」

「は?」

「その素直な反応は傷つくな……」


 久保は突拍子もないことを言うのは友人だけでいい、と内心突っこみを入れたくなった。

―― 怪異? 認知している? 何を言っているんだこの人は、思わず眉間に皺を寄せて聞き返してしまった。しかし、見藤はそんな久保の態度を気にすることなく、説明を再開する。


「分かりやすく言うと妖怪のようなものだ。その妖怪は実在している。と認識しているかどうかだ」

「ますます訳が分からない……、作り話ではないということですか……?」

「まぁ、そうだな」

「……………?」

「常識的に考えたら、そういう反応になる」


 久保の素直な反応を見て、険しかった見藤の表情が少し和らいだ。


「ここは、まよだ」

「迷い家……?」

「この家自体が怪異なのか、はたまた怪異が住む家をそう呼ぶのか定かではないんだが。……まぁ、人が入ったら二度と出られなくなる。昔はそういう場所じゃなかったんだがな」

「…………」

「まぁ、間に合ったんだ、大丈夫だ。心配するな」


 その言葉に久保は見藤の剣幕を思い出した。あの時の状況からして質の悪い冗談ではないらしい。その話が事実だとすれば、自分は今まさに魔訶不思議な体験をしているということになる。

 友人との他愛ない会話のネタでしかなかったはずなのに。自分とは無関係だと思っていたのに ――。巡る思考に、久保は俯いて黙ってしまった。


「それでなぜ俺がここに居るか、だが」


―――― ゴオォ……!と、またあの突風が吹く。ススキの穂が激しく揺れ、まるで見藤に敵意を持ち威嚇しているかのように思えた。

 突風に、久保は思わず目を瞑る。見藤が羽織っているジャケットの裾が激しく擦れる音が聞こえた。


「こういう怪異を相手に専門で仕事をしているものでね」


 突風が過ぎ去った後。恐る恐る目を開けた久保には、困ったように笑う見藤の表情が妙に印象的だった。

 そして、彼はよっこいしょ、と年齢を感じさせる掛け声とともに地面にしゃがむ。どこから持ってきたのか、木枝で何やら文字列と図式を描き始めた。その文字はとても綺麗に書かれてゆく。

 見藤が書く字は風貌に似合わず綺麗だった。それはこのためだったのかと、この瞬間に腑に落ちた。彼が持つ木枝の先は一言一句、点と線を寸分の狂いなく図式を描いていく。


「さてと、帰りますか」

「あ、あの、友達はっ……?」


 久保は迷い込んだときの得も言われぬ不安感を思い出す。それに比べ、ちょっとコンビニから帰るか、程度のテンションで言い放つ見藤に慌てて友人の消息を訪ねる。

 すると、見藤は事も無げに答えた。


「いないよ。大丈夫だ」

「えっ……、でも確かに一緒に途中まで、」

「そんな友達思いの久保くんに。はい、これ」


 そう言って見藤から手渡されたのは、久保のスマートフォンだった。いつ落としたのか?と首を傾げる。

 見藤からスマートフォンを受け取り、画面を見ると友人からの不在着信が数件あった。さらに、久保を心配するメッセージが何件も届いていた。

―― とにかく友人は無事で、無事ではなかったのは久保の方だったのだ。

 久保が画面を確認している間に見藤は作業を終えたようだ。手にしていた木の棒を適当に放り投げ、ゆくっりと立ち上がった。


「はい、じゃあこれを目ぇ瞑ってまたいでくれ」

「わ、分かりました!」


 久保は言われた通りにぎゅっ、と目を固く瞑る。そして、恐る恐る文字列を跨いだ。後ろから見藤の足音がする、それだけで不思議と安心できた。


「もう目は開けてもいいぞ。次は真っ直ぐ歩いて、進んでくれ。振り返るなよ」


 見藤にそう促され、久保が目を開けるとそこは見慣れたコンクリートのビルが立ち並ぶ風景だった。ほっ、と肩を撫で下ろした久保を、見藤が少し強めに小突く。

 そう。まだ、終わりではないのだ。振り返らず、進まなければならない。気を引き締め、一歩を踏み出そうとした瞬間 ――。


「おーーーーい、久保ーーーー?」


「振り返るな!!!!」


見藤の剣幕が木霊した。が、遅かった。


 久保の額に冷や汗が浮かぶ。心臓が激しく脈を打つ。―― あの声は友人のものだ。いや、友人はここにはいないはず。見藤もそう言っていた。だが、もし、と思考が巡ったが、考えるより体が先に反応していた。


―― 久保は、振り返ってしまったのだ。

 その瞬間、遠目に見えたあの田舎風景がカメラレンズで拡大されたかのように動いた。


「っ、君ねぇ! 嘘だろ!」


 見藤の悪態と共に、風が吹きすさび、背後の迷い家から地響きのようなけたたましい轟音が聞こえてきた。

 ゴォオオオォ――――……!!突風にのって何か、黒い靄(もや)のようなものがこちらへ迫ってくるように見えた。

 

「その鞄、借りるよ!」


 見藤はそう言うや否や、久保が背負っているリュックを強引に剥ぎ取ったのだ。そのはずみで、久保は尻もちをつく。

 見藤は振り返り様に大きくリュックを振りかぶり、綺麗な放物線を描く。尻もちをついている久保の目線の高さを、勢いよくリュックが掠めた。

 どちゃっ!!と何かにぶつかった音だけは聞こえたが、その姿を目にすることはできない。


「餌を横取りされたからって、そう怒るな。よし、走るぞ」


 何かを殴り飛ばした見藤は、久保から剥ぎ取ったリュックを自身の背に負い直し、駆け出した。久保の首根っこを鷲掴みにし、半ば強引に立たせることも忘れない。

 駆け出す際に感じた背中を押す見藤の骨張った手が、久保を安心させるには十分だった。


◇ ◇ ◇


―― それから、どう帰ったのか覚えていない。久保は見藤の背を追いかけ、ただひたすら夢中に走った。事務所に帰り着いた頃には、外は暗闇だった。

 数時間のうちに想像を絶する体験をしたのだ。久保はソファーになだれ込むように座り、見藤は相変わらず平然としていて、久保の世話を焼いていた。


「はい、コーヒー。熱いぞ」

「あ、ありがとうございます……」


見藤から手渡されたコーヒーを一口飲むと、不思議と気持ちが落ち着いた。 


 それから ――。この世には、人間の他に怪異と呼ばれる存在がいることを聞かされた。しかしながら、そのような存在など娯楽として創作された話であり、心霊現象などは霊感がない自分にとって無関係な世界であると、久保は考えていたのだが。


 通常、怪異は人の目には視えておらず、その場に怪異が存在していたとしても『認知』できないのだと、見藤は言った。この『認知』が鍵となるという。


 久保のように平凡な日常生活を送っている者であっても、怪異の存在はメディアや様々な媒体で目にする。都市伝説上の存在や妖怪、そして霊の類である。

 その姿形や怪談話を記憶し、この世に確かに存在するものとして認知すれば怪異は視えるようになる、と見藤は言った。

 思考の渦に身を投じていた久保。しかし唐突に、申し訳なさそうに眉を下げた見藤が口を開いた。


「鞄の中身、壊れていたら……。すまない、弁償しよう」

「あ、いえ……」


久保は言葉に詰まりながらも、自分のリュックを開けた。

 未だにわかに信じがたいが、リュックの中身を見たところ数本折れた文具と、ひしゃげた教科書を目の当たりにし、あの体験は現実だと告げていた。そこでふと沸き上がる疑問。


「……でも、それだと認知さえしてしまえば、皆が怪異を視ることができる、ということになりませんか?」

「それがだ。そんな話は造り話だ、存在しない、という潜在的な認識がある。無意識下でな。余程素質のある人間か、今日の久保くんのように実体験した人間じゃなければ、そうそう視えるようにはならん」


それに、と見藤は言葉を続ける。


「君が迷い込んだ、迷い家だが。あれも、元々は人に幸福を授ける怪異だった。それがいつしか、認知が歪み、人を取り込み喰らう怪異に変化してしまった」


見藤の言葉に先ほど体験した非日常を思い出し、思わず久保は身震いする。

 一通り説明を終えた見藤は一口コーヒーを飲み、久保に向き直った。その表情は真剣そのものだった。


「うちの秘密を知ってしまった訳だが、久保くんは」

「え、」


見藤の言葉の先を想像し、久保は体を強張らせた。

―― なんだこの流れは。さながら、危ないことに首を突っこんでしまった人間ではないか。

 こういう文句の後には必ずろくなことがないというのは定石だ。久保は思わず身構えた。


「このままうちのバイトを続けるか、辞めるか。君はどうしたい?ここを辞めて、平凡な日常に戻れば次第に怪異の類は視えなくなると思うが……」


(脅迫でもされるのかと思った……)


 しかし、見藤の提案はどこまでも久保を案ずるものだった。こういう性分の見藤だ。壮絶な体験をしても、見藤の元で働くことに拒絶感はない。

 むしろ、自分の知らない世界を知りたいと思ってしまうのは悪い事だろうか。どうするか、迷いがない訳ではない。意を決して久保が口を開こうとしたとき ――。


「おい、見藤。そんな奴、わざわざ面倒見る必要ないだろ」

猫宮ねこみや、喋るな」

「だってよぉ」

「喋るな、ややこしくなる」


 二人しかいないはずの事務所に、もう一人の声が響いた。見藤と会話している。どこから声がしたのかと、周囲を見渡しても人の姿はない。


「ほら見てみろ、俺がどこにいるか分かっちゃいない」

「いい加減にしろ」

「むぎゅ、」


と、言って見藤が掴んだのは事務所の飼い猫、又八だった。

 久保が目を白黒させている様子がよほど可笑しいのか、又八 ―― もとい猫宮はケタケタと笑っている。


「まぁ……これが認知、と怪異だよ」


 そう言って見藤は困ったように笑ったのだ。その見藤の表情を見た瞬間、久保は事務所の中に様々なものがいることに、気が付いた。

 ふよふよと漂う何か、虫のような形をしたもや。まだはっきりと、その姿形を久保の目に映す訳ではないが、見藤のいう世界が確かに存在した。


「あの、見藤さん ――、」

「何かな?」


久保の言葉を聞いて、見藤は ――――。


「それでは改めて。ようこそ、怪異相談事務所へ」


そう言って彼を迎え入れたのだった。


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