46.ようこそ、篝乃会へ
客席から向かって右側の舞台袖まで来ると、ちょうど聖歌クラブによる合唱が始まったところだった。最初の曲目はやはり『あめのきさき』だったが、今回は新入部員も加わっているせいか、以前に聴いた時よりもやや粗野でまとまりに欠ける歌声に感じられる。
それでも、上級生に合わせようと懸命に音を取っている様子は微笑ましく、舞台袖から眺めている舞白にわずかばかりだが勇気を与えた。
「セイラさんたちも、もう来ていたのね」
まもなく、同じ舞台袖に瑠佳がやってくる。舞白たちが着ているものと同等の煌びやかさを放つドレス姿で、目が覚めるような鮮やかなスカーレットだった。普段通りの優しいおっとりした眼差しは健在だが、ウェーブのかかったブラウンの髪はハーフアップで上品にまとめ上げられ、小さな赤い花の髪飾りがさりげなく添えられている。歩み寄ってくる足取りにも令嬢らしい確かな気品があった。
「稲羽さん、よく似合っているわね。シンデレラみたいな変わりようで、少し驚いたわ」
「い、いえ。そんな……」
「謙遜しなくてもいいのよ? それに手前味噌だけど、こちらも素敵な変わりようだから。ほら――」
瑠佳が手招きするように振り返ると、暗い袖の奥からカツカツと足音が近づいてくる。
現れたのは赤のドレスを纏ったアリサで、瑠佳の言う通り素敵な変わりようだった。
いつもの二つ結びを解いた長い髪は、瑠佳と同じハーフアップにまとめられており、赤い花の髪飾りまで揃いのものを着けている。仄かに赤みがかったローズブラウンの髪に、燃え盛る焔のような色のドレスが見事に調和している。
(アリサさん、綺麗……でも、なんでだろう)
妙な胸騒ぎがした。朝食の時にも感じた物々しさが、アリサの吊り上がった鋭い目つきに宿っている。
「舞白さん? どうかしたの」顔つきを変えないまま、アリサが訊ねてくる。
「ううん。凄く、綺麗だと思って」舞白はとっさに嘘をつき、ぎこちなく微笑んだ。
「ありがとう。舞白さんもよく似合っているわ……セイラさまと同じドレス」
ようやく、アリサの口元が綻んだのが分かり、少しだけ安堵する。
(そうだ。今日は、セイラさまと同じ。いつもの私じゃない。今までの私とは、違う)
胸の前で両手を握り合わせ、ぎゅっと力を込める。
それからふっと息を吐き、手に込めた力と共に緊張が抜けてくれるのを祈った。
ほどなく聖歌クラブの歌声が止み、客席から慎ましく束ねられた拍手の音が聞こえてくる。篝乃会の出番が間近に迫ったことの合図でもあった。
舞台袖へと捌けてくる聖歌クラブの生徒たちが、舞白たちの格好に好奇の目を向けてくる。舞白はまた緊張に身を竦ませたが、すぐにセイラが隣に並んできて、
「心配しないで。今のあなたに、おかしなところは一つもない」
その力強い言葉で、舞白はみたび勇気を得た。
――舞台が音もなく暗転していく。
淡いフットライトの光だけが残された時、聖母祭のトリを飾る篝乃会の演目、『ダンスパーティー』を司会が告げる。
「ようこそ、篝乃会へ――」
呟くように言ったセイラと共に、舞白は暗い舞台の上へと歩みを進めた。
後ろからはアリサと瑠佳が続き、向かいの舞台袖からは残りの四人も歩いてくる。舞台の上にぼんやりと現れた八人の影に、客席から静かな拍手が起こった。
――『今日は、あなたがシンデレラになる日よ』
(大丈夫……私は、なれる)
震える足に力を込め、フットライトを頼りに予定の立ち位置につく。
セイラの手を取り、ドレスの裾を摘まんで会釈をするポーズを決めた時――ゆっくりと照明が灯されていき、舞台が輝きを取り戻す。会場に音楽が鳴り始めると、止まっていた砂時計が揺り動かされるように、時間がさらさらと流れ出した。
牧歌的なメロディでリズムを刻みながら、練習通りのステップを忠実に再現していく。
客席には目を向けない。大勢の視線があることも気にしない。
ただ、目の前で一緒に踊っている相手のことだけを一心に見つめる。
初めは、セイラ。長い指先で舞白の手を包む手つき、足取りには一切の迷いがない。
身を任せるだけでよかった。体が近づく度に自然と笑みが零れる。
刹那のような一時が終わる。舞白とセイラの手は離れ、メロディの変わり目が訪れる。
規則正しく揃っていた色が混ざり合うように次の相手へと移ろっていく――二人四組のカドリーユが、一人ずつペアを変えていく。
額や胸元が徐々に汗ばんでいく。眩しい照明の光が痛いほどに肌や瞳に突き刺さる。
それでも――終幕はすぐそこまで近づいていた。
最後の相手、アリサと手を取る。
セイラと実の姉妹でありながら、セイラとはまったく違う小さな手。小さな体。
セイラの時とは違う胸の高鳴りを覚える。自分が導いてあげなければいけない気がして、ステップのリズムが少しだけ早まる。気が逸ってしまう。
アリサは思いのほか冷静だった。先走ろうとする舞白を慣れた手つきで押さえ、目元やわずかな頷きで合図を出してくれる――息遣いが分かるほど近づくと、舞白はまた密かに口元を綻ばせた。
(幸せ――いつまでも、踊っていたい)
あんなにも緊張していたのに。
あんなにも怖がっていたのに。
今はただ、音楽が鳴り止まないことを望んでいる。
四つの色が混ざり合う輪の中で、自分ではない一つの色となって回り続ける――その中に、アリサやセイラが一緒にいてくれる。永遠を願わずにはいられなかった。
もうすぐ音楽が止む。舞台は完全に暗転し、ダンスパーティーは終わりを迎える。
いや――終わりなんかじゃない。
今までの自分から新しい自分へと生まれ変わるための、本当の始まり。
――『これから、あなたにとって本当に辛い季節が来る。そうすれば遠からず、今のままではいられなくなる』
――『でも、大丈夫。あの子なら、いい理解者になってくれる』
もう、一人じゃない。
いつかはすべてを打ち明けられる日が来る――そう遠くない未来、きっとなれる。
アンとダイアナのような、腹心の友にも。
――最後のステップを終え、膝を折って深いお辞儀のポーズを取る。
照明が落ちたのとほとんど同時に、割れんばかりの拍手が会場を包み込んだ。
(やった、踊り切った!)
暗闇にまだ目が慣れない中、達成感で体の奥が熱くなっていく。少しだけ息を切らしていたが、倒れ込むほど辛いわけではない。
(あとは、また照明が点く前に立ち上がって、みんなで一礼を――)
エンディングに向けて準備しようとした舞白だが、腰を上げようとした時、背中に誰かの手が触れた気がした。
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