45.シンデレラみたいに





 聖母祭の当日は、大安吉日の木曜日だった。

 晴れやかな天候に恵まれたこの日、舞白は朝方から酷く緊張していた。朝食も上手く喉を通らず、半分ほど食べたところでもう満腹になった気がした。


(ちゃんと、食べないと。大事な日だから)


 そう思えば思うほど、フォークを持つ手が重くなっていく。

 気持ちが晴れない理由はほかにもあった。隣で一緒に食べているアリサの様子がどこかおかしい。舞白のように食が進んでいないわけではないが、普段よりも表情が硬く、食事中に話しかけてくることもない。黙々と食事に集中している。


(アリサさんも緊張してるのかな。なんだか、いつもより話しかけづらい……)


 食事の手を止めて横目で見つめていると、その視線に気づいたアリサが顔を上げ、


「どうしたの。もう食べないの?」


「あ、うん……緊張して、あんまり食べられなくて」


「舞白さんらしいわね。でも、無理にでも食べておくべきよ。今日はいつも以上に体力を使う日になるでしょうから」


 やはり物々しい表情に見えたが、気遣うような優しい言葉には少しだけ安堵した。朝食も時間はかかったものの平らげることができた。


 午前中の『御宿りの祈り』は円滑に進行し、思いのほかあっさりした形で幕を閉じた。一年生はバージン・ガーデンから中継された映像を教室で見ながら祈りを捧げるだけで、実際にマリア像のある場所に行くことはなかった。聖書の朗読や聖歌の斉唱も各クラスそれぞれで行われ、あとは道徳の授業が行われただけだった。


 夕刻になると、ほとんどの生徒が夢見荘から講堂に向かい始める。舞白もその一人だったが観客席には行かず、パーティションで仕切られた通路を抜けて舞台裏にある第一控室に入った。中にはまだ誰もおらず、煌びやかなスパンコールが鏤められたサファイアブルーのドレスだけが舞白を出迎える。


(素敵な色……私なんかには、勿体ないくらいに)


 衣装合わせは済ませているものの、未だに現実とは思えない。

 これからこのドレスを着て、大勢の人の前に出る――バイオリンを弾くためではなく、カドリーユを踊るために。


 まだ上手に思い描くことができない。自分よりも、セイラのドレス姿を想像する方が遙かにたやすい。

 ドレスは同じものが二着用意されている。四組のペアで踊るカドリーユはドレスも四色用意されており、アリサと瑠佳が赤、藤花と讃が黒、美弦と先生が白という色分けになっている。


 残った青色が、舞白とセイラが着るドレスの色。


(セイラさまと、同じドレス。セイラさまと、同じ色の――)


 緊張が高まると同時に、不思議と口元が綻ぶ。

 バイオリンの演奏とは違い、舞台に上がれば目を瞑っているわけにはいかない。憧れた音色に染まる感覚に頼ることはできない。

 それでも、セイラと同じ色のドレスに、身を包むことができるのなら。


「大丈夫、きっと大丈夫……」


 自分に言い聞かせるように呟いたその瞬間、


「なにが大丈夫なの」背後から訊ねられ、舞白は短い悲鳴と共に振り返った。


 いつの間に控室へ入ってきたのか、セイラがすぐ傍に立っていた。


「せ、セイラさま。いつから、そこに」


「たった今、開祭式を終えてきたの。で、なにを心配していたの」


「いえ、その、ドレスのことが気になって。私が、セイラさまと同じドレスを……」


「あなたのは右。ハンガーにイニシャルを書いたテープが巻かれているはずだから」


 やや見当外れな返答はいかにもセイラらしく、舞白の緊張は却って和らいだ気がした。

 講堂の控室は全部で六つあり、第一から第四までが少人数用の個室タイプ、第五と第六は大人数用となっている。篝乃会は個室タイプの控室でペアごとに分かれており、ダンスパーティーの身支度も二人だけで行う。


 聖母祭自体はプログラムの少ない文化祭のような催しで、今回はアンサンブルクラブに演劇クラブ、聖歌クラブと発表を行ったのち、篝乃会がトリを務める。開祭したばかりだが出番まであまり時間がない。

 その後、ドレスには問題なく着替えることができたが、今回は衣装合わせの時とは違い後ろ髪を結い上げる必要があった。


「次は舞白さんの番よ。ここに座って」


「はい、私は自分で……」


「必要ないわ。あなたは座っているだけでいい」


 有無を言わせず舞白を鏡台の前に腰かけさせ、ヘアブラシを手に取るセイラ。舞白は恐縮したが、せっかくの厚意を無下にするわけにもいかず体を硬直させた。


「あの、ブラシはされなくても。結い上げていただくだけでも結構ですので」


「あなたが私にしたようにするわ。平等になるように」


「びょ、平等ですか」


「スリーズとは、そういうものだから」


 規則正しくヘアブラシが動いている。平等と言いながらその手つきは舞白よりも丁寧で、手慣れたものに思えた。

 鏡には同じドレスを着た二人が映っている――まるで本物の姉妹のよう、などと思うことはできそうにない。


(私なんて、ただの仮初め。なにもかもが紛いものでしかない。なのに、スリーズになったばっかりに……)


 幾度となく抱いた懊悩がふつふつと蘇る。手のひらは膝の上で拳に変わり、見えないなにかに怯えるように震え始める。


「緊張しているの?」


 セイラが平坦な声で訊ねてくる。なにもかも見抜いているかのように。


「緊張は、いつもしています。いつも、みんなからの視線が気になって」弱気な声と共に舞白は小さく俯き、「なにかの拍子に分かるんじゃないかって、そう考えたら、みんなの目を見られなくなって……俯くのが、癖になって」


「アリサには、話せたの?」


「全部じゃないですけど。私が泣きそうになったから……でも、こんな私でも、アリサさんは肩を抱いてくれて。それで今度は、嬉しくて泣いてしまって」


 舞白は胸元に手をやった。華やかなドレスの内側で苦しいくらいに押さえつけられた胸が、頭の芯まで響くほど強く脈打っている。


「これから、あなたにとって本当に辛い季節が来る。そうすれば遠からず、今のままではいられなくなる」


 後ろ髪が持ち上げられ、セイラの慣れた手つきによって上品に結い上げられていく。


「でも、大丈夫。あの子なら、いい理解者になってくれる。あとは、あなた次第」


「私、次第……」


「あなたがこれからどうしたいのか。どうなりたいのか」


 優しく降り積もるセイラの言葉。抑揚のない声が心地よく耳朶を打つ。



 ――『目を瞑りなさい。そうすれば、音色が舞白を包んでくれる』



 かつて拠りどころにした言葉も、低く落ち着いた声だった。


 バイオリンを弾くのは、楽しい。

 でも、人前に立つのは怖ろしい。


 そんな葛藤から救ってくれた声。ずっと信じてきた人の言葉だった。


 ――今度こそ、信じ続けられるだろうか。


 もう、裏切られるのは嫌。壊されたくない。

 たとえバイオリンの音色がなくても――今日、この日だけは。


「私は、セイラさまのようになりたいです」


 俯いたまま、舞白は一つの決心を告げる。

 ちょうどその時、髪を結い終えたセイラの手が止まった。


「……本来、人は別の誰かになることはできないもの。あなたはあなたでしかないから。だけど、あなたが私になることで舞台に上がれるというのなら、そう思えばいい」


 鏡に映っていたのは、揃いの衣装と髪型の二人。

 まるで、本当の姉妹のような――。


「支度ができたわ。さあ立って」


 セイラに手を取られ、舞白は椅子から立ち上がる。

 いつもより少しだけ、背筋が伸びた気がした。


「そろそろ向かいましょう。今日は、あなたがシンデレラになる日よ」


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