42.夜更かしのデュエット
†
舞白と二人きりのまったりとした時間を過ごしたアリサは、このまま夢見荘に残ることに決めた。
休みは今日を含めてあと二日あるが、明日の夕拝までには夢見荘に戻っておかなければいけない決まりになっている。今からまた屋敷に戻るのは効率的ではない。
しかし事前の届け出をしていないアリサには、当然ながら夕食は用意されていなかった。外へ買いに出ようにも雨脚はまだ強い上、そもそも街へ行くための足もない。
多少の空腹は我慢するしかないと思っていたが、結局は舞白から夕食を分けてもらうことで事なきを得た。普段から小食の舞白は、食べ切れないおかずやご飯をアリサに譲るのはよくあることだった。
「アリサさん、納豆も半分こする?」
「い、いえ。あまり得意ではないから。舞白さんはいける口なのね」
「お家にいた時は、朝と夜には必ず食べてて、好きだったから」
舞白の意外な好みが判明する。アリサは得意ではないと遠慮したが、実は大の苦手で、給食などでも必ず残すか友人に譲っていた。
夕食後は順番に入浴を済ませ、互いにナイトウェアに着替えたあとはまた穏やかな時間を過ごした。
翌日も休みのため、いつものように早く床につく必要はない。このまま寝るだけなのもなにか勿体ない気持ちはあったが、消灯時刻になると自然と就寝準備を始めていた。
「舞白さんのナイトキャップ、学院指定のものではないわね。ご自分のもの?」
「う、うん。お家では、ずっとこれだったから」
「そう。寝具は使い慣れているものの方がよく眠れるものね。わたくしも家で使っているキャップは持っているけれど、純桜のも可愛らしくて結構上等なものみたいだから意外と気に入っているの」
「私も、純桜のは可愛いと思う。このナイトウェアも、凄く着心地がよくて……この辺が全部出ちゃうのは、少し恥ずかしいけど」
頬を赤らめながら白い首元と胸の間を手でさする舞白。
純桜のナイトウェアは青みがかったレース状のネグリジェで、スカートの丈こそ足首にかかるほど長いが、デコルテの辺りはそれなりに露出させる形状になっている。舞白が恥ずかしがる理由も分からなくはない。
特に今の舞白は、昼に話していた特殊なさらしブラではなく、就寝用のナイトブラを着けているという。ネグリジェは体のラインが分かりづらいゆとりのある作りだが、それでもなお分かるほど舞白の胸元は高く隆起している。
(同じ一年生で、どうしてこうも違うのかしら。いえ、別に胸なんかどうでもいいけど、せめてわたくしももう少しくらいは……)
自分の胸元に視線を落としてみるも、ネグリジェとインナーの間は悲しいほどの隙間が空いている。思わず零した溜め息も収まるほどに。
「アリサさん、どうかしたの?」
「い、いえ。なんでもないわ。もう寝ないといけない時間ね。電気、消すわよ?」
「あ、うん。ありがとう……」
不思議そうな舞白をよそに部屋の灯りを落とし、どこか慌てたような調子で「お休みなさい」と言ってアリサはベッドに入った。
手繰り寄せた毛布を抱きかかえる形で眠ろうとしたが、消灯してしばらく経っても寝つけないでいた。元々それほど眠くはなかった上、時間が経過するに連れて変に鼓動が高鳴り、却って目が冴えていく。
(誤算だったわ。でも今更どうしようもないことよ。意識しないようにするしか……)
毛布に包まりながら悶々としていた時、向かいのベッドで物音が立ち、
「……あ、アリサさん」と、舞白の呼ぶ声が聞こえた。
「なに? どうしたの?」
「う、ううん。もう寝たかなって」
「寝ていたら返事できないじゃない」
「ご、ごめんなさい。その、特に用があったわけじゃ」
「そう、舞白さんも眠れないのね。わたくしも、思いがけず目が覚めてきてしまったわ」
「思いがけず?」
「ねえ舞白さん、わたくしもそちらのベッドで寝るのはダメかしら? 体を寄せ合えば、たぶん二人くらいは――」
「えっ――ええっ? ふ、二人で?」
調子外れな驚きようを聞き、アリサも自らの提案の軽率さに気づいて顔を熱くした。
「か、勘違いしないで! あなたと一緒に寝たいとか、一人で寝るのが怖いとかではないのよ? ただちょっと、誤算があって」
「誤算……?」
「その、お姉さまが普段寝ていらっしゃるベッドを勝手に使っていると考えたら、なんだか無性に気になり始めて。毛布にもシーツにも、お姉さまの匂いが残っていて――いえ、とにかくその、それでこちらのベッドでは寝つけそうになくって」
「そう、なんだ。でも、一緒には……わ、私も眠れなくなりそうだから」
頬を染めて俯く舞白がたやすく想像できる声だった。
アリサは諦めたように体を起こし、
「お互い眠れないのなら、もう少し夜更かしでもしていましょうよ。どうせ明日までお休みなんだから」
「夜更かしって、なにをするの?」
「そうね……じゃあ、せっかくだから付き合ってくださるかしら、舞白さん?」
あえて丁重にお誘いしてみせたアリサの夜更かしとは、まず舞白と一緒に部屋を抜け出すことから始まった。身支度を整えた二人は足音を立てないよう四階まで上がり、誰にも見つからないことを祈りながら廊下を進んでいく。
「あ、アリサさん。もし舎監さんに見つかったら……」
「四階はみなさん帰宅しているわ。誰もいない階の見回りは先に済ませているものよ」
根拠の乏しい推測を頼りにアリサたちが向かったのは、階の奥に設えられているセリュールだった。室内の真っ白な壁には強力な防音加工が施されており、ドアを閉め切れば窓を叩く雨音さえまったく聞こえてこない。
「入学して一ヶ月だけど、わたくしはまだ一度も利用したことがなかったの。舞白さんはお姉さまとご一緒していたようだけど」
「う、うん。練習に、付き合ってもらっていたから」
ピアノの前にある椅子に腰かけ、部屋から持ってきたバイオリンの準備を始める舞白。アリサに弾いてほしいと頼まれて断りはしなかったものの、消灯時刻を過ぎて部屋から出ることにはかなり緊張しているようだった。セリュールに入った今も、頬を仄かな薔薇色で染めており、弦に松脂を塗る手つきもどこかぎこちないように見える。
「まだ心配しているの? 大丈夫よ、もし見つかっても普段ほど咎められることはないでしょうし、わたくしに無理やり連れ出されたと言ってくれていいから」
「その……アリサさんに聞いてもらうって思うと、緊張して」
「あんなに堂々と演奏できる人の言葉とは思えないわね――バイオリンを弾いている間はその音色に染まることができる、だから自分に自信が持てる、ではなかったかしら?」
「……覚えていてくれたんだ、その言葉」
「音色に染まるなんて面白い表現、物書きを志す者として心に留めておくのは自然なことよ。きっといつまでも忘れないわ」
「そ、それはちょっと、恥ずかしいけど」
ケースに松脂を仕舞うと、舞白は上目遣いにアリサを見つめ、
「もし、アリサさんさえよければ、一緒に弾くのはダメかな?」
「一緒にって、わたくしが伴奏をするということ?」
「うん。それなら、緊張せずに弾けるかもって」
「そう言われたら断るわけにはいかないけど、そんなに難しい曲は弾けないわよ? わたくしのピアノなんて、あなたのバイオリンに比べれば幼稚なものなんだから」
「そんなことは……アリサさんの音色を聞けるなら、私はそれだけでも」
「そう? じゃあとりあえずは『アメイジング・グレイス』でいいわね。あれならわたくしも伴奏できるし、お互い確実でしょう」
互いに簡単な音出しと、アップライトピアノの屋根に置かれているメトロノームでテンポを確認したのち、アイコンタクトを交わしてアリサから演奏を始めた。
伴奏を実際に行うのは初めてだが、練習の経験はある。いつかセイラのバイオリンと一緒に演奏することがあるかもしれないと思い、密かに励んでいたことだった。
その初めてが舞白になったのは思いがけないことだが、穏やかなピアノの音色に合流した中音の主旋律は寸分の狂いなくフィットし、すぐにアリサの意識を指先に集中させた。美しく調和した旋律がセリュールを満たしていき、音の響きに全身が優しく包まれているような不思議な感覚になった。
(凄く心地がいいわ。これが舞白さんの言う、音色に染まるという感覚なのかしら)
自分だけでピアノを弾いていても、こんな感覚になったことはない。ほかの誰かと異なる音色を重ね合うからこそ得られる快感だとアリサは思った。
キリのいいところで舞白が演奏をやめると、アリサも一旦手を止める。仄かに熱っぽくなった顔を舞白に向けると、うっとりと微笑む薄紅の眼差しがアリサを見つめていた。
「……ごめんなさい、なんだか、ドキドキしてきて」
「いいえ、なんとなく分かるわ。初めてなのに上手くいき過ぎていて、怖いくらいで」アリサは珍しく照れたように言って、「でも、やっぱり舞白さんが上手だからでしょうね。わたくしの拙い手に、優しく合わせてくるみたいに」
「ううん、アリサさんこそ。全然乱れてなくて、入りやすくしてくれたから」
「舞白さんの技術に比べれば大したことじゃないわ。本当に素敵だったし、まるでお姉さまと……――」
最大の賛辞となる言葉を言いかけて、アリサは小さくかぶりを振った。
「今度は、もう少し長くやってみましょうか。夜更かしはまだまだ始まったばかりなんですもの」
「うんっ」跳ねるような声と共に、舞白が淡く微笑む。
揃いのドレスに身を包んだ二人の音色は、演奏を重ねるに連れて深く融け合っていき、夜更けの真っ白な
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