41.アンとダイアナ





 一頻り泣いたのち、舞白は部屋着に着替えてしばらくベッドで休んでいた。そうした方がいい、とアリサに促されたからだった。

 しかし眠いわけではないため、横になって目を瞑っても意識ははっきりしていた。そのうち、部屋の中にコーヒーの匂いが立ち込めたことに気づいて目を開けると、アリサがミニテーブルの上で菓子やカップの準備をしていた。


「ごめんなさい、起こしてしまったかしら」


 上体を起こした舞白を見て、アリサは少しだけ申し訳なさそうな顔をした。


「う、ううん。元々、起きてたから」


「そう。あ、舞白さんも飲む? コーヒーでよければだけど」


「ご、ごめんなさい。本当は、私がやらないといけないのに」


「あら、ちゃんと知っていたのね、その決まり。てっきり教えられていないんだと思ったわ。前にこの部屋に来た時、あなたはお姉さまに任せてばかりだったから」


「そ、それは……その時は、知らなくて」


 恥ずかしさで頬が熱くなる。部屋で客人をもてなす際の決まりについてはセイラから教わったわけではなく、篝乃会のお茶会で讃から聞いて初めて知ったのだった。


「まあ、それも舞白さんらしい気がするわ。それより、本当にコーヒーでいいの? 紅茶もあるみたいだけど」


「う、うん。お茶会の時、お砂糖を入れたら、おいしく飲めたから」


「ええ、この角砂糖、家庭科クラブの方々が作った特別なものらしいわ。形や大きさは少し粗いけど、色がカラフルで可愛らしいわよね」


「うん。私も、お茶会で貴船さまが入れているのを見て、ちょっと気になって。それで入れてみたら、おいしかったから。四つも入れちゃったけど」


「そう、瑠佳さまを……でも、四つもだなんて、かなり甘いコーヒーになるわね。二つでも結構甘いのに」


 コーヒーの入ったカップにカラフルな角砂糖を入れていくアリサ。

 なにもかもやってもらうわけにはいかないと思ったが、残っている工程は精々スプーンでコーヒーをかき混ぜるくらいだった。


「あの、ごめんなさい。なにからなにまで、アリサさんに頼りきりで」


「気にし過ぎよ。二人分のコーヒーなんて大した手間でもないもの」


「それだけじゃなくて、その……泣いたりとかも」


「いいえ、わたくしは嬉しかったわ。舞白さんがきちんと胸のうちを明かしてくれて。というか、胸そのものを見せられた時は、正直驚いたけど」


「あ、あんまり思い出さないで。恥ずかしいから……」


「目に焼きついてしまったものは仕方がないわ。あなたが泣いている時なんか、わたくしの腕にずっと当たっていたのよ? こっちまで体が熱くなりそうだったわ」


 舞白は顔から火が出る思いだった。アリサの腕の中で泣きじゃくっている間のことはあまり覚えていない。

 ただ、どうしようもないほどに心地よくて、いつまでも身を寄せていたいという気持ちで頭がいっぱいだった――だと分かっていても、抗いがたい感情だった。


「でも、こんな言い方はあなたの気持ちに寄り添えているのか分からないけど、わたくしだけではなくて、小雛さんや菊乃さん、悠芭さんやほかのみなさんも、あなたの辛さや苦しみが理解できない方たちではないはずよ。舞白さんにとってのよき友人なんだから」


「よき、友人……」


「ええ、その筆頭がわたくし。そうでしょう?」


 アリサらしい自信たっぷりな言葉に、舞白は自然と口元を綻ばせた。


「……セイラさまからも、同じようなこと、言ってもらった」


「お姉さまから?」


「うん――『いい友人に恵まれている』って。誰のことなのかすぐに分かって、それで知ってもらいたいと思ったの。アリサさんには、本当の私のこと」


 すべてを語ることはできなかったが、それでも大きな一歩だったと思う。

 本当の意味で腹心の友になるための、第一歩として。


「じゃあ、お姉さまもご存知なのね、あなたの体のこと。同室だから知っていて当然でしょうけど……そういえば、お姉さまはもう学院にいらっしゃらないの?」


「今日のお昼前には出られたけど、お家に帰られたんじゃ」


「そういうわけではなさそうなの。それでわたくし、学院まで見に来てみたのよ。もしかたらまた、アリスさまにお会いに行かれたのかもしれないわね」


 微かな諦めを含ませた笑みを零し、アリサはゆっくりとコーヒーを啜った。


「お姉さまはこまめに連絡をされる方でもないから。昔からそう……いなくなる時も、お帰りになる時も、いつも突然。ようやく同じ学校に入れたのに、離れていた頃とほとんど変わらない――純桜の時も、フランスに行かれていた時も」


「フランス……?」


「わたくしが物心ついてしばらくした頃、お姉さまはフランスに音楽留学されたことがあったの。清華のお祖父さまに目をかけていただいて、本格的にバイオリンを習うために」


 舞白は、かつてセイラがバイオリンを弾き始めた理由について話してくれた時のことを思い出す。確かに、祖父の家で弾いたことがきっかけだと話していた。


「両親が凄く名誉なことだと褒めていたり、フランスでも優れた成績を収めていることを嬉しそうに話しているのを見て、私もお姉さまに憧れるようになったの。わたくしもこんな風に、両親を喜ばせられるようになりたいって……それでバイオリンを始めてみたこともあったけど、わたくしには才能がなかったみたい。ピアノだけはそれなりに覚えられたけど、それもお姉さまには遠く及ばないものだったわ。


 お姉さまがお帰りになったのは、わたくしが八つの時よ。その頃にはもう、わたくしの憧れはとても大きなものになっていたわ。再会できた瞬間には心の底から喜んで、ずっとお姉さまにべったりだった。両親は何度かフランスまで足を運んでいたけど、わたくしは小さくてまだ行かせてもらえなかったから。会えなかった分の寂しさを必死に埋めようとしたわ。


 でも、久しぶりの姉妹の時間もそう長くはなかった……お姉さまはもう十一になられていて、一年後にはこの純桜に入学されたの。純桜は全寮制だからまた離ればなれになってしまう……それが嫌で堪らなくて、わたくしも純桜に入ろうって決めたの。お姉さまと同じように、新入生代表になれるように努力もして」


 一頻り話すと、アリサはふっと相好を崩し、


「ごめんなさい、暗い話をするつもりじゃなかったの。ただ、舞白さんが自分のことを打ち明けてくれた分、わたくしのことも聞いてもらいたかっただけで」


「……姉妹なのに、ずっと離ればなれだったなんて。寂しかったよね」


「そうね……でも、だからこそ、こんなにもお姉さまのことを好きなのかもしれないわ。普通の姉妹はよく喧嘩をするものだと聞くから。わたくしにはそんな時間さえなかったんですもの。一緒にいる時間よりも、憧れている時間の方が長かったのよ」


 舞白は押し黙った。これまでも何度も抱いた申し訳なさが蘇る。


「私が、セイラさまとスリーズになったせいで……」


「そのお話は前に保健室でもしたじゃない。舞白さんのせいではないって。どうしたら気にしないようになってくれるの?」


 舞白がまた言葉に詰まると、アリサは「そうだわ」と思いついたように言って、近くにあった鞄の中を漁り始める。


「舞白さんを腹心の友と見込んで、わたくしの秘密をもう一つだけ教えてあげる」


「秘密?」


「そうよ。お姉さまにも話していないこと。舞白さんにだけ教えるの」


 いたずらっぽい笑みを浮かべながらアリサが取り出したのは、『Letters』と表紙に題されている一冊のノートだった。


「これはね、『手紙』なの。将来の自分に向けて、今の自分のことを綴った『手紙』……なんて言うと少し変だけど、つまりは日記みたいなもの。わたくしがただそう呼んでいるだけね。これを書き綴るのがわたくしの日課なの」


「これが、アリサさんの秘密……」


「いいえ、この日課そのものも多くの人には内緒だけど、わたくしの家族や瑠佳さまは知っていることよ。秘密なのは、どうしてこれを日課にしていて、『手紙』と呼んでいるのかということ」


 アリサは珍しくはにかんだような笑みを見せ、


「わたくしね、将来は物書きになりたいと考えているの」


「物書き?」


「そう、物語を書くの。できれば小説で。この『手紙』は文章の練習と、将来書く物語のために続けている日課で――自分が経験したことを、その時の気持ちのままに残しておきたいと思ったの。いつか物語を書く時に、役立ってくれるような気がするから」


「……凄い。まるで、アンみたい」舞白は思わず呟いた。


「そういえば、アンも一度は小説家になったのよね。わたくしがアンなら、舞白さんはダイアナになるのかしら」


「そうだったらいいけど……私にとっては、アリサさんの方がダイアナだと思う」


「どうして? あなたはふっくらこそしていないけど、綺麗な黒髪だからダイアナにぴったりだと思うけど」


「き、綺麗なんて。そんなこと――」


 気恥ずかしさと申し訳なさに俯いてしまい、自分がアンに抱いている憧れを語ることは遂にできなかった。


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