40.こころ開いて
舞白を夢見荘の部屋まで送ったのち、アリサは講堂の倉庫に転がっていたダンスシューズと観客席の最前列にかけられていた上着、講堂の鍵などを回収した。舞白から聞いた話では、講堂はこのあと演劇部が使用する予定らしい。
(舞白さん一人で講堂を貸し切る手筈を整えたとは思えないわ。ということは、もしかしてお姉さまが?)
演劇部の部室に鍵を届けに行った帰り道で、ふとそんなことを考える。
しかし、セイラがまだ校内にいる期待までは持てなかった。部屋の整頓具合から見ても夢見荘をあとにしている可能性の方が高い。
(練習に励んでいたのだから、舞白さんの容態はよくなっていたのでしょう。お姉さまはお役目を果たされて学院を離れた。家でないとしたら、またアリスさま参りに行かれたのかしら。それから家に戻られるおつもりだったのかも)
家で大人しく待っているべきだったのかもしれない。
小さな後悔を抱いたものの、今からとんぼ返りするわけにもいかなかった。
舞白がなぜ逃げようとしたのか。なにをあんなに恐れていたのか――怯えるような眼差しが、アリサの意識に奇妙な具合に絡みついている。
『007号室』に戻ってきたが、室内はまだ電気が点いておらず、舞白の姿もなかった。洗面所のドアの隙間から照明の細い明かりとドライヤーの音が漏れている。どうやらシャワーはもう済ませたらしい。
「舞白さん? シューズと上着、取ってきたわよ」
ドア越しに話しかけると、中でドライヤーの音が止んだ。
「講堂の鍵は演劇部の方たちに届けてきたわ。それでよかったのよね?」
「う、うん……ありがとう。私一人じゃ、届けに行けるか不安だったから」
「もう、本当に恥ずかしがり屋なんだから。それより、どうして部屋の明かりを点けないの? カーテンまで閉め切って、これじゃ余計憂鬱になるわ」
「ま、待って――明かりは、点けないで」
珍しく強い声に、アリサは照明のスイッチにかけた手を下げる。
「点けないでって、どうして?」
「今から、出るから」
「え?」
「アリサさんはベッドに座って、私がいいよって言うまで、こっちを見ないで」
わけが分からなかったが、言われた通り舞白のベッドに腰かけ、洗面所とは逆の方角に顔を向けて待ってみる。
ほどなくドアの開く音がして、微かな熱気とフレグランスが辺りに漂い、舞白が傍まで近寄ってきた気配を感じた。
それから少しの間があったのち、ようやく舞白の息遣いが聞こえ、
「あの……ど、どうぞ」と、ためらいがちな声が続く。
結局『いいよ』とは言わなかったじゃない――そんな指摘が口から零れかけたが、言葉にはならなかった。振り返ったアリサは、舞白の姿を見て大きく息を呑んでいた。
「なっ――な、ななな、なにしてるのよ!」
甲高い声を吐きながらすぐに目を逸らす。両手で覆った顔は、自分でも分かるほど熱く火照っている。
アリサが酷く動揺した理由は、舞白の格好にあった。
下着のみしか着ていないあられもない姿――いや、上半身に至ってはなにも身に着けておらず、露わにさせた胸元を両腕で隠すようにして立っていたのだ。
「あ、あなたね、いくらご自分のお部屋だからって、わたくしの前でそんな……は、破廉恥な格好で、どういう了見なのよ。そんなに風邪を引きたいわけ?」
「ううん……アリサさんに、見てほしくて」
「は、半裸になったあなたのなにを見るって言うのよ。わたくしをからかっているの?」
「この格好じゃないと、ダメだから――
「本当の、舞白さん……?」
アリサは恐る恐る振り返り、顔を覆う両手の隙間から垣間見るように舞白を見上げた。
そして、すぐに気がついた――普段の舞白との決定的な違いに。
薄暗い室内でもはっきりと分かるほど白く、きめ細やかで透明感のある肌。
想像通りの綺麗な体には一つだけ、違和感を覚えずにはいられない部分があった。
「舞白さん、その
「……っ」薄い唇がぎゅっと結ばれる。
アリサがまじまじと見つめたのは、舞白が両腕で隠すように抱えている豊満な胸元だった。牡丹雪のように白く丸みのある乳房は細腕から溢れんばかりで、くっきりとした谷間が底なしの深い線を描いている。
大きさだけ見れば悠芭と遜色ないようにも思えるが、これまで舞白の胸が殊更に目立っていた覚えはない。むしろスレンダーな体つきで、制服越しの胸部はアリサや小雛とそう変わらない平坦な印象を持っていた。
「どういうこと? ずっと隠していたというの?」
「……胸を潰せる、さらしみたいな下着があって。それで、大きく見えないように」
声を震わせながら答える舞白。寒さからではないかもしれないが、これ以上半裸のままでは本当に風邪を引きかねない。
ひとまず隣に腰かけさせ、近くにあった毛布を体にかけてやる。この時も舞白は両腕で胸を押さえたままで、自分から毛布を引き寄せるようなそぶりもなく、アリサの手つきに対して子供のように従順だった。
(よほど胸のことを気にしているみたいだわ。いえ、そうでもなければ、潰したりなんかしないでしょうけど)
アリサもまったく胸がないわけではないが、舞白に比べれば微々たるも。これほど膨らんだ胸を潰すことがどれだけ苦しいことか、想像するのは難しい。
しかし思い返してみると、舞白は普段から俯き気味で、常に人目を気にしているようなそぶりを見せていた。歩く時も猫背で、アリサも何度か注意してみたが改善はなく、半ば呆れかけていたが、あれらが少しでも胸部を目立たないようにするための工夫だったとすれば納得がいく。先ほど講堂で逃げたのも、その特殊な下着を外した状態で練習しているところを見られるのを恐れたからなのだろう。
また、舞白は休み時間やダンス練習の合間、頻繁にトイレへ行っていた。あれも用を足すためだけではなく、胸元をリラックスさせるためだったのかもしれない。
更に遡れば、入学式の日――悠芭に訊ねていたことも。
――『……大変じゃ、ないですか? そんなに、大きいのって』
(悠芭さんにあんな質問をしていたのも、今なら分かる気がするわ。あれはただの興味本位ではなくて、自分自身のことがあったから……)
大なり小なり、胸にコンプレックスを抱く女性がいることは珍しくない。
中には悠芭のようにまったく気にしない者もいるようだが、舞白がそういう性分でないことは間違いない。むしろ悪目立ちを恐れて、という方が得心もいく。
が、講堂で逃げている時の舞白の必死さや、日頃の周到さに鑑みると、ただ目立ちたくないことが理由とは思えなかった。
「どうして、と詮索されるのは、酷なことかしら」
舞白はしばらく黙り込んでいた。空気が張り詰めるには充分な時間が過ぎたのち、薄い唇がためらいがちに開かれる。
「バイオリンの先生に、触られて……それから、隠すようになって」
「先生って、まさか男の方に?」
「お母さんの、知り合いで。ずっと、優しい先生だったのに、私に……っ」
声を詰まらせ始めたのを見て、アリサは毛布越しの肩をとっさに抱き締める。舞白は強く体を震わせたが、まもなくアリサの体に身を寄せていた。
「舞白さんがどれだけ辛かったのか、伝わったから。これ以上、無理をしないで」
「……ごめん、なさいっ……」
舞白の声が嗚咽へと変わっていく。
窓を叩く雨音にも負けそうなほどの、小さな泣き声だった。
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