Epistle VII — A Sad Tea-Party

32.初代アリスさまの謎





「時にアリサさん。来月には聖母祭がありますが、篝乃会のダンスパーティーについてはご存知で?」


 月曜日の昼休み。

 悠芭から珍しく呼び出しの誘いを受けたアリサは、廊下を歩いている途中で分かりやすい探りを入れられた。


「そんなに回りくどい訊き方をしなくても、悠芭さんの魂胆くらいお見通しよ」


「それはお話が早くて助かります。で、どうなんです? 篝乃会の方々とダンスを?」


「あなた、いよいよ週刊誌の記者みたいね。本当にゴシップ好きなんだから」


「お褒めに預かり恐縮です。新聞部のお姉さまからも未だに勧誘を受けておりまして、もしや天職かもと揺らぎ始めているところです」


 嬉々として話す悠芭を見ていると、素直に入部すればいいのにと思わなくもない。

 が、彼女がそうしない理由をアリサは聞いている。『初代アリスさまの謎』を解き明かすまでは新聞部に籍を置く気はないのだろう。


「悠芭さんのことだから大体の見当はついているのでしょう? きっと概ねその通りよ」


「なるほどなるほど。では本日の放課後、講堂で初めて行われる予定の練習にもご参加されるわけですね」


「そんな日程まで知っているなんて、やっぱり全部分かっていたんじゃない。わざわざわたくしに確認しなくても」


「きちんと裏を取ることが大事だと、お姉さまからも教わっておりますゆえ――それと、これは私の勝手な憶測ですが、もしかすると舞白さんもご参加されるのではないかと」


「……本当に大したジャーナリズムね。それとももう噂になっているの?」


「いえいえ、これは願望混じりの推測とでも言いましょうか。現在の篝乃会はアリスさまがご病気、書記の秋月あきづきさまがフランス留学で七月までご不在ですから、実はかなり人手不足の状態です。なので今年は確実に二名の選出になるのではと」


「それであと一人が舞白さんと考えたわけ?」


「イージーな結論でございます。アリサさんと並び立つほどの新入生はほかにいらっしゃいませんから……それはそうと、いつの間にか『稲羽さん』呼びではなくなりましたね。どのようなご心境の変化が?」


 相変わらず抜け目のない観察眼だった。アリサは「どうかしらね」と微笑んでお茶を濁し、その後もうきうきとした調子で続く悠芭からの詮索をかわし続けた。


「まあよいでしょう。舞白さんがご参加されると分かっただけでも収穫です。今から素敵なドレス姿のお二人が目に浮かぶようで……」


「ちょ、ちょっと悠芭さん? 口元、垂れているわ」


「おっと失礼。想像眼福でつい涎が。想像力豊かなのも時には考えものでございますね」


「時にはじゃなくてしょっちゅう考えさせられているような気もするけれど。それより、こんなところまで連れてきた理由をそろそろ教えてほしいわ」


「おや、聡明なアリサさんならもうお察しのことかと思っていました――なにせこの旧校舎には、図書室しかないものですから」


 二人は本館二階の連絡通路を渡って旧校舎に足を踏み入れていた。二階には図書室があり、昼休みである現在は多くの生徒が利用している様子が窺える。

 一階には閉架資料などが収められた書庫があるが、一般の生徒が立ち入る機会は皆無に等しい。アリサも旧校舎の一階には下りたことさえなかったが、先導する悠芭はなんのためらいもなく階段を下っていき、書庫のドアに鍵を差し込んでいた。


「ちょっと、勝手に入って大丈夫なの?」


「書庫整理という大義名分は既得済みでございますゆえ」


「図書委員のあなたはそうでしょうけど、わたくしはどうなるのよ」


「バレなきゃ犯罪ではないのですよ、ふっふっふっ」


「なんの笑みよ。そもそもバレても犯罪とまでは言われないでしょうけど」


 小言を並べながらも、ドアをくぐったアリサの心は微かに昂ぶっていた。

 書庫の中は金属のフレームが剥き出しの本棚が整然と立ち並び、分厚い書籍がところ狭しと身を寄せ合っている。本の背はどれも厳かな色合いで古めかしく、熟し切った紙の香りで満ちた薄暗い室内はさながら鬱蒼とした古書の森林で、元より本好きなアリサにとっては壮観な眺めだった。

 悠芭はある本棚の前で足を止めると、迷いのない手つきで一冊の本を引き抜く。手作り感の強いB5版の中綴じ本で、どうやら古い文芸部誌らしかった。表紙には花畑の中心に立つマリア像のイラストと、手描き感の強いゴシック調の書体で『ALBI』というタイトルが記されている。


「『アルビ』と読むのかしら。どういう意味なの?」


「調べてみたところ、フランス南部にある都市の名前でした。『アルビの司教都市』というカトリック教会関連の世界遺産もあるそうなので、その辺りからなにか由来があるのかもしれません――こちらは文芸クラブがかつて発行した部誌らしく、一九七〇年頃のもののようです。この中に、学院でよく知られているアリスさまの伝承が正式な形で掲載されています。私も読んでみましたが、叔母から教えてもらった内容とまったく同一でした。まあこの部誌の存在自体、叔母から教えてもらったものなので当然ではあるのですが」


「やっぱりアリスさま絡みだったのね。あなたに呼ばれた時から薄々そんな気もしていたけれど。でもその本を紹介するだけなら、わざわざここまで来る必要なかったじゃない」


「この資料は非常に貴重な一冊ゆえに禁帯出、館外への持ち出しは御法度でございますから。これでも図書委員の端くれ、規則を破るわけにはいきません」


「部外者を書庫に立ち入らせている人の言葉とは思えないわね」


「堅苦しいことは抜きにして、ひとまずこのページをご覧ください」


 随分都合のいい図書委員だと思いながらも、悠芭が開いた古い文芸部誌のページに目を落とすアリサ。どうやら件の伝承について記したページらしい。

 内容に関しては悠芭から聞いていた通りで目新しいことはなく、むしろ気にかかったのは、見出しの部分に記されている『Down the Garden-Path』という英題についてだった。


「この英文……なにかで見た覚えがある気がするんだけど、なんだったかしら」


「おお、そこに気づかれるとは。さすがはアリサさんですね――見覚えとは、恐らくこちらの目次ではございませんか?」


 悠芭はスカートのポケットから小さなメモ帳を取り出し、その中の一ページを開いて見せた。


 I. Down the Rabbit-Hole

 II. The Pool of Tears

 III. A Caucus-Race and a Long Tale

 IV. The Rabbit Sends in a Little Bill

 V. Advice from a Caterpillar

 VI. Pig and Pepper


 次のページにもまだ続いているようだったが、アリサが「ああ!」と気づくには最初のIだけでも充分だった。


「『Rabbit-Hole』――これ、『不思議の国のアリス』ね」


「ご名答、『不思議の国のアリス』の目次でございます。この伝承を書き綴った方がアリスさまという呼称にちなんでつけた題名みたいです。詳しく調べてみると、これが中々、興味深い意味が込められていそうなんですね」


「興味深い意味?」


「二つの英文の違いは一見『Rabbit-Hole』と『Garden-Path』の部分だけです。単語同士の間にハイフンを入れる形まで同じです。しかしこの部分が変わることで、文頭の『Down』の意味合いも変化します。『Down the Rabbit-Hole』は『兎の穴に落ちて』という訳ですから、『Down』は『落ちる』という意味ですね。対して『Down the Garden-Path』の方は、道案内などでよく言われる『Down the Street』的な用法ではないかと考えられます」


「つまり、『庭園の小道に沿って歩く』のような意味合いということ?」


「さすがはアリサさん。英語も守備範囲でしたか」


「悠芭さんだってよく分かっているみたいじゃない。その方が驚きだわ」


「フィンランドの血は胸ばかりに注がれているわけではないのです。えっへんです」


 恐縮した物言いながら、これでもかと豊満な胸を張ってみせる悠芭。

 フィンランドは英語が公用語ではないものの、習得率が高い国として知られている。一般的な日本人よりは英語に馴染みのあるルーツを持っていることは間違いない。


(考えてみれば、実力考査で下から数えた方が早いくらいの悠芭さんが純桜に合格できたのも、英語という一芸に秀でていたからなのかもしれないわ)


 入学後の実力考査は国数理社の四教科のみで、外国語の科目は省かれていた。

 しかし入試の選択科目には外国語があった。悠芭はそちらで高得点を収めて入学できたのだろう。


「話を戻しますが、『Down the Garden-Path』の訳は基本的にはアリサさんが言った通りでよいかと思います。疑問なのはなぜ、『Rabbit-Hole』を『Garden-Path』にしたのかです。伝承の内容を読む限りでは庭園らしきシーンはありません。登場するといえば山の中、どことも知れない桜の木の下です。にもかかわらず、なぜ筆者はこのような題名を付けたのか――その謎を解く鍵が、部誌の最後の方に記されていました」


 悠芭は慎重な手つきでページをめくっていき、『編集後記』のところで手を止める。


「ここは各章を担当した筆者の後書きが記されたところで、『Down the Garden-Path』を書かれた井俣いまたゆいさんという方の言葉が載っています。要約すると、井俣さんは学院で語り継がれているアリスさまの伝承を形あるものとして残すべく、部誌のページを借りて筆を執られたそうです――しかし、多くのお姉さま方やOGの方々から話を聞くうち、伝承には表になっていない秘密が隠されていることに気づいたそうです」


「秘密?」


「はい。ですがその秘密は結局暴けず、語り継がれているおとぎ話以上のことは記せなかったそうです。暴けなかった理由は具体的には書かれていませんが、文面の言葉尻から察するに、なんらかの圧力がかけられたのではと」


「圧力って……少し大袈裟ではないかしら。そんなおとぎ話くらいで」


「では、抵抗とでも言い換えましょうか。詳しい事情はともかく、井俣さんは初代アリスさまの秘密を知ろうとして、それを好ましく思わない方々からの抵抗に遭われた。調査を断念せざるをえなくなった井俣さんは、当時の自分の思いを『Down the Garden-Path』という英文として残したのではないかと」


「井俣さんの、思い?」


「『Garden-Path』の直訳は確かに『庭園の小道』なのですが、それがくねくねと曲がった出口が分かりにくい道のイメージから転じて、『道に迷う』や『袋小路』というニュアンスで用いられることがあります。相手に嘘をつく時にも『lead you down the garden path』――『出口が分かりづらい道に案内する』、転じて『相手を騙す』という意味になる表現もあるほどです」


「そう……つまりこの『Garden-Path』は、単に『庭園の小道』という意味ではなくて、その英語的表現による井俣さんの当時の心境が込められているということ?」


「私はそう思います。井俣さんはアリスさまの伝承の秘密に足を踏み入れていながら、その出口を見出すことができなかったのです」


 眼鏡の奥で潑溂と輝かせる瞳を向けながら迷いのない調子で言い切る悠芭。宝の地図でも見つけ出した子供のように無邪気な眼差しに見える。

 まだ根拠に乏しく憶測の域は脱していないが、それでも悠芭のペダンチックな語り口は軽妙で、ミステリー小説の謎解きに加わっているような面白さがあった。アリサも少しずつ興味が湧き、悠芭が開いたままにしている井俣結の編集後記にもう一度目を通した。

 その中で、アリサは気になる一文を見つける。



 ――『あなた方には神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてがたとえパラブルで語られる』



「ここの文章、前に悠芭さんが言っていなかったかしら。確か福音書の言葉って」


「はい、私もこれには驚きました。まさか私と同じ糸口をきっかけにされていたとは」


「同じ糸口? どういうこと?」


「私はこの福音書の言葉を、先日の巡礼の際に偶然知ったのです。ある生徒がシスターの方に聖書の信憑性について訊ねた時に、シスターがご教示されたのがこの言葉でした……その生徒は、福音書でイエス・キリストが起こしたという奇跡の数々が本当なのかどうか訊いてみたかったようです」


「キリストの奇跡……正直、わたくしはあまり詳しくないのだけど」


「たとえば有名なものですと、漁のお話です――ある日、漁師たちが湖で漁をするのですが、魚が全然獲れずに困り果てていました。そこを訪れたキリストが一緒に船に乗ったところ、まったく獲れなかったはずの湖で信じられない数の魚が網にかかったのです。キリストは漁師たちに対して『これからは人間をとる漁師にしよう』と言い、漁師たちもキリストについて従うようになったという逸話です。

 この話を額面通り受け取るなら、キリストが同乗しただけで魚がわんさと獲れるようになったという奇跡体験です。アンビリーバブルです――しかしこの話が『Parable』、すなわちたとえ話だとしたらどうでしょうか」


「さっきの『Garden-Path』みたいに、別の意味が込められているということ?」


「その通りです。今回注目すべきは『魚』の部分。実は初期のキリスト教団では、信徒のシンボルに『魚』を模した形が用いられていました――」


 悠芭はまたいそいそとメモ帳をめくり、『α』を横に引き延ばしたような図形が描かれたページを見せた。かなり簡素化されているものの『魚』と言われれば、確かに理解できないこともない形ではある。

 しかし図形よりも気になったのは、ページの下部に記されている『IXΘYΣ』という言葉で、どう読めばいいのかアリサは首を傾げた。


「これはなに? 英語ではなさそうだけど」


「こちらは『IXΘYΣイクトゥス』と読むそうで、ギリシャ語で『魚』を意味する単語です。俗説ではこの『IXΘYΣ』が、キリストの信徒を示す文章の頭文字を取った符牒であるとも言われています」


 悠芭の言う符牒については、メモ帳の次のページに記されていた。


 IHΣOYΣ=イエス

 XPIΣTOΣ=キリスト

 ΘEOY=神の

 YIOΣ=子

 ΣΩTHP=救世主


 アリサはそれぞれの単語を目で追い、「なるほど」と合点がいった。


「この文章の頭文字を取ったら『IXΘYΣ』で『魚』、それが教団では信徒のことを指していたわけね」


「そうです。この符牒を踏まえて漁の話を読めば、キリストが実際に大量に獲得したのは『魚』ではなく、新たな『信徒』ではないかと考えることができます。そもそも『魚』が獲れないと嘆いていた漁師たちも、実際は別の教団の勧誘員だったのではないかと」


「別の教団?」


「当時はユダヤ教を基礎とした様々な教派があって、キリスト教もその中の一つでしかありませんでした。各教派がこぞって勧誘に勤しむ中、キリストは当時では画期的な手法を用いて信者を獲得していき、その様に感銘を受けた別の教団の勧誘員たちも、自然とキリストに付き従うようになった――そういうたとえ話ではないかということです。

 もちろんこれはあくまで俗説ですから、奇跡を奇跡として信じている敬虔なクリスチャンの方々の信仰を否定するものではありません。ここで重要なのは、超常現象的に思えるキリストの逸話をたとえ話として捉えることも可能であり、そうすることで筆者が真に込めた意味や教義が見えてくるかもしれないということです――私がなにを申し上げたいのか、アリサさんなら分かってくださいますか?」


 勿体ぶるような訊き方だった。アリサは再び井俣結の編集後記に目を落としつつ、初代アリスさまの伝承を思い返してみた。


「そう……なんとなく分かったわ。悠芭さんはアリスさまの伝承も、一種のたとえ話だと考えているのね」


「その通りです――自らの命を賭して親友をお救いになったというアリスさまの言い伝えも、表面的に捉えれば奇跡としか言いようがありません。それだけでも友愛という教義を表現するには充分ではありますが、もしもあの伝承がキリストの奇跡と同じようにたとえ話だとすれば、また違った意味や真実が見えてくるはずです。初代アリスさまが実在していたのか、実在していたとすればどんな方だったのか、たとえ話だとすればなぜそんな形で言い伝える必要があったのか……それらこそが、井俣さんや私の叔母が追い求めてきたアリスさまの真実なのだと私は思います」


「思ったより壮大な話になってきたわね。正直、ちょっとした道楽のつもりで付き合ってきたんだけど」


「私の中では初めから壮大でございましたよ。大河ばりの歴史ロマンミステリーとして」


「大袈裟だけど、悠芭さんの雄弁な語りを聴いていると興味深く思えてくるから不思議ね……でも、どうしてわたくしにだけ教えてくれたの? 舞白さんや菊乃さんはともかく、ヒナさんなんかも面白がって聴いてくれそうなものだけど」


「現段階ではまだ、秘密が隠されているかもというのが分かってきた程度ですので。もちろんなにか解き明かせた暁には、みなさんにもお話しする予定です。

 この度、先立ってアリサさんにだけお伝えしたのは、せっかくなのでどなたかにはお話ししておきたいなというひけらかし心もあったのですが、一番の理由は調査へのささやかなお礼を込めてです」


「わたくし、調査を手伝うようなことをした覚えはないけれど」


「巡礼のレポートでございますよ。実は本日の午前中に道徳の授業がありまして、僭越ながらアリサさんのレポートを一位評価にさせていただいたのですが、それを読んでピンときたことがございまして」


 悠芭が言っているのは、道徳の課題を評価する上で取り入れられている生徒間評価システムのことである。

 オンラインで提出したレポートを隣のクラスの生徒が評価するものだが、一人の生徒がランダムに抽出された六人のレポートを読んで順位をつける。悠芭がアリサのレポートに当たる可能性は高くはないが、ありえないと断じるほど低くもない。


「でも、あの評価システムは匿名で、誰のレポートかは分からなくなっているはずよ。悠芭さんがわたくしのものを読んだとは限らないわ」


「限りますとも。入学式での挨拶文然り、確かな文章力とほかの方とは違うユニークな着眼点。紛れもなくアリサさんのレポートだったと確信しております――マリア像のお足元にあった本来の花は、シクラメンではなく白い彼岸花でございますよね? 実に興味深いお話でした」


「そこまで褒められると、満更でもなくなってしまうわね。上手い具合に答え合わせをされたのは少し癪だけど」


「あのレポートのおかげで、やはり篝乃庭という名前の由来はシクラメンではなく、篝乃会の方にあると確信できましたから。あとから調べたところ、そもそも日本にガーデンシクラメンが普及したのは九〇年代後半のガーデニングブームの時らしいので。アリサさんのレポートにあった時期とも一致しています」


「そう……でもそれが確信できたところで、アリスさまの伝承と関係があるようには思えないけど」


「篝乃会が篝乃庭の由来なら、生徒会室などになにか記録が残っているのではないかと。あるいは、篝乃会のメンバーしか知ることのできない歴史があったりとか」


 恐縮したような悠芭の口調に、アリサはようやく得心がいった。


「要するに、篝乃会に入るわたくしを利用しようという腹なのね」


「いえいえ、利用しようだなんて。ただもしも、なにか興味深い情報が分かれば教えていただきたいなと。それに、篝乃会だけでしたら舞白さんもそうですが、こうしてアリサさんにだけ相談しているのは、聡明なアリサさんの推理力を期待してのことなのです。その辺り、なにとぞ汲んでいただければ」

「ほんと、達者な口車なんだから――でも、わたくしも楽しかったわ。忍び込む形なのは少しドキドキしたけど、古い書庫に入って謎解きだなんて、まるで探偵小説みたいで」


「おまけに薄暗い密室で二人きり、身を寄せ合って本を読む……私としては違った意味でドキドキしておりました」


「へ、変な言い方しないでくれるかしら。あなたがその本をずっと手に持っているから、体を近づけている必要があっただけよ」


 気恥ずかしげに反論しながら後ずさるアリサ。

 しかし悠芭はすぐに体を擦り寄らせ、眼鏡の奥でだらしなく目を細めている。仄かに漂う甘い香りや肩に当たっている胸元のせいか、アリサは瑠佳に抱き締められた時のことを思い出して顔を赤くさせた。


「別によいではありませんか、誰も見ておりませんし……ああっ、もう辛抱堪らんです。一度だけ、抱き締めてもよろしいでしょうか?」


「なっ――なんでそういうことになるのよっ」


「初めてお目にかかった時から思っていたのです。アリサさんの華奢な体、とっても抱き締め甲斐がありそうだと。ご安心ください、北欧じゃあ常識ですので」


「日本では非常識よ! とにかく、お戯れもほどほどにしなさい。こんなところを誰かに見られたら、まるで逢い引きしているみたいじゃないの」


「よしんば誰かに見られ、逢い引きと思われても私は――私、は……」


 途端、目と鼻の先まで迫っていた悠芭の動きが停止した。アリサはなにが起きたのか分からず目をぱちくりさせる。


「なるほど、逢い引き。二人だけの逢瀬とでも言うのでしょうか」


 ぶつぶつと意味の分からない言葉を呟くと、悠芭は完全にアリサから離れ、出入り口へと足を向ける。


「ねえ、急にどうしたのよ」


「調べたいことができましたのでお暇いたします! 肉欲より知的探求欲が勝りました!」


「ま、待ちなさいよ! というか、結局部誌を持ち出そうとしているじゃないの!」


 アリサの懸命な引き留めにも応じず、悠芭は足早に書庫を去っていった……。


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