33.お茶会とカッターナイフ
ダンスパーティーに向けた篝乃会の練習は、月曜日の放課後から講堂を貸し切って行われた。この間、一般生徒は立ち入りを禁じられたため、静まり返った堂内は舞台の上だけがささやかに賑わった。
演目となるカドリーユはペア四組の八人構成を基本としている。本来の篝乃会であれば頭数は充分だが、現在は会長と書記一名が不在。庶務として加入予定のアリサと舞白を含めても七人しかいないため、あとの一人は指導役の教員が加わることになった。
社交的な付き合いを苦にしないアリサにとって、ダンスパーティーの練習は至福の一時だった。初日こそステップをその場で行うだけの基礎的な練習だったが、二日目からは実演形式となり、念願だったセイラとのダンスも早々に叶った。アリサの浮き足立つステップに対してもセイラの導く手に淀みはなく、ダンスがこなれるほどの数を重ねても興奮が冷めることはなかった。
カドリーユにはバレエの基礎的なステップがいくつか用いられているが、役員の中で最も優れていたのは瑠佳で、あとから聞いた話では小学生までバレエを習っていたという。上手いはずだ、とアリサは舌を巻いた。
片や舞白は心配していた通りで、ステップの基礎にさえ苦労して特別に手解きを受けていた。今回のカドリーユは比較的易しい曲が選ばれており、体力的にもそれほど消耗はしない。それでも舞白は頻繁に休憩を要求し、その度に舞台を下りて手洗いに行っては戻ってくるまでに時間を要すなど、ダンスそのものに難儀している様子だった。
そもそも舞白は、足首の故障が原因で体育の授業を休むほどである。いくら動きが緩やかなダンスと言えど辛いのではと思ったが、本人曰く『足首や体力は大丈夫』とのことだった。
「その、緊張して。あんまり、踊ったこととか、なかったから」
まだ観客もいないのに緊張か、とアリサは呆れかけたが、そもそも舞白はバイオリンで舞台慣れしているはずだから、緊張というのはむしろお姉さま方と一緒に踊ることにあるのかもしれないとも思った。
舞白がステップに苦心していることを除けば、練習の全体的な進み具合は良好だった。
今週は木曜日に祝日が一日あり、平日を一日挟んだのちにゴールデンウィークへ入る。土曜日から来週の水曜日まで学院は休みで、この休暇中は帰省が推奨されており、ほとんどの生徒が夢見荘を離れる予定となっている。篝乃会として集まることもないため、最初の三日間であらかたの見通しが立ったのは順調と言えた。
木曜日の祝日は練習が休みだったが、午後から新加入の一年生をもてなすための慣例的なお茶会を行うとのことで、アリサと舞白は生徒会室へと招かれた。
アリサはまたセイラと共にいられることを期待していたが、お茶会に参加したメンバーは存外寂しいものだった。
「あらあら、セイラさんはまたアリスさま参りかしら。初めてのお茶会だというのに、相変わらず仕様のない人ですこと」
皮肉めいた言葉といかにも高慢そうな笑みを零しながら、綺麗な茶髪の上級生が副会長席に腰を下ろす。
――
亜麻色がかったブラウンの長い髪には丁寧な編み込みや縦巻きが要所に鏤められ、後ろ髪を結ぶ純白の大きなリボンにまで手入れが行き届いており、一つの皺も見当たらない。
上背は高校生としては平均的だが、均整の取れた体型は理想的な曲線を描いてしなやかで、ダンス練習の際も自信に満ちた優美な佇まいが印象的だった。
「アリサさんや稲羽さんのご心中もお察しいたしますわ。二人の妹と初めてのお茶会だと言いますのに。薄情なお姉さまで、お可哀想なこと」
言葉の割に声はどこか愉快そうで、それを慎むかのように綻ばせた口元にやんわりと手を添えている。聞くところに寄ればかなりの潔癖症らしく、両手には常に白い手袋を着けており、ダンス練習の時でさえ一度も外しているところ見なかった。
下級生に対しても上品な敬語を用いる美弦の慇懃さに、アリサは確かな苦手意識を感じていた。セイラに対して手厳しい発言が多いことも気にかかる点で、ダンス練習の際から感じていたことだが、どうやらセイラに対してライバル心を燃やしているようだった。
「あの、五十鈴川さま。セイラさまには一度、お茶会に誘っていだきましたわ。その際は舞白さんもいましたし、今日が初めてというわけではありませんでした」
アリサは毅然と言い返してみせる。角が立たないようにと急拵えの微笑みも添えて。
「あら、そうでしたの? けれどまあ、本日が二度目ともなりませんでしたわね。いずれにしても、お可哀想なこと」
美弦はまた愉悦たっぷりに目を細めた。純桜は名門ゆえにお嬢さまが多いものの、ここまで高飛車で皮肉家な生徒は滅多に見ない。情報通の悠芭曰く、この高慢な嫌味節がむしろ人気を集めた理由の一つらしいが、今のところアリサには同調しがたい衆望だった。
「お言葉ですが五十鈴川さま、新入生の前で同じ副会長の陰口はいかがなものかと存じますが」
アリサの隣に座っている瑠佳が淑やかに指摘するも、落ち着き払った美弦の薄笑いに変化はなかった。
「陰口だなんて、手厳しいお言葉。わたくしはただ、すげないお姉さまをお持ちになったお二人を衷心から憐れんでいるだけですわ」
「少なくとも、アリサさんの姉は私でもあります。五十鈴川さまの憐れみは無用かと」
「あら、そうでしたわね。アリサさんも大変ですこと。お姉さまがお二人、それにどちらも篝乃会だなんて。ますます同情してしまいますわ。もちろん、稲羽さんにも」
「は、はあ」
視線を向けられ、舞白は戸惑ったような生返事と共に俯く。セイラという後ろ盾がないせいか、ダンス練習の時よりも居心地が悪そうだった。
アリサも一人きりならば心細かったかもしれないが、こういう時こそ瑠佳が隣にいてくれることは大きかった。
「あまり気にしないで。五十鈴川さま、裏がありそうでまったくない方だから。慣れてくると、案外ユニークな方よ」
美弦の目が舞白に向いたのを見計らい、アリサにひっそりと耳打ちしてくる瑠佳。その声はなぜか楽しげで、単に上級生の肩を持つためとも思えない。
(瑠佳さまがこう仰るんですもの、きっと悪い方ではないんでしょうけど……お姉さまをあんな風に言う方と上手くやっていけるのかしら)
一抹の不安はあったが、丁寧な言葉遣いや優美な佇まいなどは見習うべき部分も多い。瑠佳の言葉を信じて悪い人間だとは思わないようにしようと留意した。
「アリスさま参りのセイラさんはともかくとしましても、ほかにも空席が目立ちますこと――ねえ
美弦の微笑んだ眼差しが、今度はアリサの向かいに座る別の上級生に向けられる。
上級生というには幼過ぎる体躯であるその女子生徒は、懐に抱えていた
「……練習試合、バスケ部の」と、先輩に対してとは思えない端的過ぎる言葉だけで返答を済ませる。
――
舞白とそう変わらないほど色白で、華奢な両肩まで伸びた髪も混じり気なく黒い。舞白との違いは眉の上で整然と切り揃えられた前髪で、黒目勝ちの大きな瞳がはっきりと見えている。絖のような光沢を放つ黒髪には唐紅の組紐が飾られ、骨細な体躯も相まってさながら日本人形のような風貌だが、それだけに懐で大事そうに抱えられているテディベアが不似合いな気がした。
「あの方にも困ったものです。それとも、今日がお茶会だとお伝えにならなかったの?」
「伝えた、きちんと。でも、試合に行くって」
「そう、新入生の歓迎よりも試合が大事でしたのね。なにからなにまでお可哀想なこと」
美弦の薄笑いがまたアリサたちに向けられる。
「お言葉ですが……」言い返したのはやはり瑠佳で、「
「分かっていますわ貴船さん。決して新入生を歓迎したくなくてこの場をご欠席なされているわけではないと。アリサさんと稲羽さんも、そこはご理解いただけますわね?」
「はい、もちろんです」
アリサは取り繕った笑顔で即答し、舞白はためらいがちに頷いていた。
瑠佳の言う『長妻さま』とは讃と同じ会計職を務める役員、長妻
三期連続で役員に選出された古株だが、バスケ部と掛け持ちのため普段の篝乃会の活動に出席できないこともあるという。今週から行われているダンス練習にはすべて参加していたが、一人だけ体操着ではなく部活の練習着で踊り、終わればすぐに体育館へと駆けていくエネルギッシュな姿が印象的だった。
(今日はなんだかギスギスしているけれど、練習の時はそうでもなかったのよね。やはり長妻さまの存在が大きかったのかもしれないわ)
練習中の雰囲気を思い返してみたアリサは、その時の活気が主に長妻藤花からもたらされていたことに気づいた。
篝乃会に在籍している最上級生は、留年及び療養中のアリスさまを除けば二人いるが、残る一人はフランスに留学中と聞いている。実質的には一人しかいない最上級生がムードメーカーになるのもそれほど不思議なことではない。
「それにしても讃さん、長妻さまがご不在の時はいつもその縫いぐるみをお持ちのようですけれど。そろそろ、前期課程の最上級生としての自覚の方をお持ちになってもよろしいのではなくて?」
「自覚は、ある。そこの二人よりは、大人」
美弦からの皮肉をかわしつつ、ジッとアリサたちを見つめてくる讃。
――『別に、いなくてもいいのに』
それは、初めてダンス練習のために集まった日に、讃から脈絡なく受けた言葉。
突然のことで辛辣に響いたものの、その際も讃は無表情だったため悪意があるかは分からなかった。そもそも初対面で悪意を向けられるのもおかしな話だが、いずれにしても好ましい第一印象でなかったことは言うまでもない。
(姫裏さまはお姉さま以上に言葉数が少ない方だから、いまいちなにを考えていらっしゃるのか分からないわ。なのにわたくしや舞白さんのことをただ見つめてきたり……スリーズの長妻さまなら意図が読めるのかしら)
ダンス練習の時は、藤花とよく会話している場面を目にした。
と言っても藤花が一方的に話しかけ、讃は黙って聞いているだけのようにも見えたが、それでも藤花の方は楽しそうで、やはりスリーズにしか分からない感覚があるのかもしれない。
「ええ、讃さんはもう立派なお姉さまのお一人だと思っていますよ。ですからぜひ、お言葉だけではないところもお見せしていただければと」美弦がまた丁重に当て擦り、「ほかに誰もいらっしゃらないようですし、そろそろお茶会を始めましょうか。讃さん、いつものようにお願いいたしますわ」
「お茶会の準備でしたら、今日からもう引き継いでもらってはいかがでしょうか」讃が席を立つ前に瑠佳が口を挟む。「本来であれば、今日は新入生二人の歓迎が目的ですが、この人数で歓迎というのもなんですし、少しでも早く庶務のお仕事に慣れてもらうのもよろしいかと」
「わたくしは構いませんよ。では讃さん、早速お姉さまらしく、お二人にお茶会の準備についてご指導してくださるかしら」
「別に、いいけど」
瑠佳の提案と美弦の承認により、アリサと舞白もお茶会の準備を手伝うことになった。飲みものや菓子の準備は舞白が讃から習うことになり、アリサは瑠佳からテーブル周りのセッティングについて指導を受けた。そもそもは庶務の仕事らしく、庶務職が空席や欠席の場合は学年が最も若い役員が担う取り決めだという。
全員分のコーヒーと菓子が舞白と讃の手によって行き渡った時、美弦が「ちょっと」と声を上げ、
「こちら、わたくしのカップではありませんわ。讃さん、どういうおつもりですの?」
「それ置いたの、そこの一年生」
讃の目が舞白を示す。唐突に針の筵となった舞白はきょろきょろと目を泳がせた。
「ええ、見ておりましたわ。しかし讃さん、あなたのご指導が不足していたことが原因ではありませんの? ――ねえ稲羽さん、あなたは讃さんからご教示いただきましたか? わたくしに対しては必ず、金の縁のカップとソーサーを運ぶようにと」
「い、いえ。コーヒーの入れ方しか」
萎縮した声で答える舞白を見て、美弦は「そうでしょうね」と呟き、
「稲羽さん、すぐに取り替えてくださる? わたくしのカップは……アリサさんのもとにあるようですね」
確かに、アリサの前にあるカップとソーサーは金の縁だった。ほかの役員はどうか分からないが、少なくとも潔癖症の美弦は自分が普段使用するものを定めているらしい。
舞白はすぐに立ち上がり、アリサと美弦のものを取り替えた。その間、讃は特に悪びれることもなく手元のテディベアを弄んでおり、その様子を見ていた美弦はわざとらしく溜め息をついた。
「讃さん、新入生に対するご指導不足について、なにか申し開きはございませんの?」
「素で忘れてた。ごめん」
「潔いお言葉ですこと。稲羽さんが運んでいるさなかにもお気づきにならなかったのですか?」
「美弦こそ、運ばれてきた時に言えばよかったのに」
「あえて申し上げず、讃さんのご指導があるか見ていたのです。その口ぶりですと、本当はお気づきになっていたのでしょう?」
「あ、って思ったけど、讃はもう座ってたから。別にいいやって」
「諦めがお早いこと。ところで、先ほど新入生よりは大人と豪語されたのはどなたでしたかしら。まさか未だに人を呼び捨てにしたり、ご自分のことをお名前でお呼びになったりするような幼稚な方ではございませんよね、讃さん?」
「じゃあ、ずっと子供でいいや」
「……大人の方を諦めてしまわれるだなんて。本当に、潔いこと」
これまでの薄笑いとは異なり、困ったような微苦笑を浮かべる美弦。讃は相変わらずのマイペース具合で、美弦に向けたテディベアの背に自分の顔を隠すそぶりを見せている。
二人の奇妙な距離感にアリサがぽかんとしていると、隣の瑠佳から角砂糖が満杯に入った瓶が回ってくる。
「ね、眺めていると結構、面白いものでしょう?」
微笑ましそうな顔で耳打ちしてくる瑠佳に、アリサは苦笑いを返しながら頷いた。
(小競り合いのようにも見えるけど、はっきりとものを言い合える関係と捉えることもできるわ。ある意味、中高の垣根がない純桜ならではの光景と言えるのかしら)
前期課程の讃が、後期課程の美弦に対して物怖じすることなく気持ちを伝える。内容そのものは些細だが、こういう雰囲気も案外悪くないかもしれないとアリサは思った。
美弦と讃による静かな言い合いがまた少し続き、それが一段落するのと同時にお茶会はようやく幕を開ける運びとなった。
「与太話が過ぎましたわ。せっかくのコーヒーが冷める前にいただきましょう――そう、それと、アリサさんと稲羽さんの前途を祝して、ですわね」
思い出したように言って微笑むと、美弦は優雅な所作でカップに口をつける。それを機に、めいめいコーヒーを飲んだり菓子を口にしたりと、ようやくお茶会らしい光景となった。
アリサもまずはカップから手に取ろうとした時、席を離れた舞白がアリサの傍にあった角砂糖の瓶を取りに来た。
「わざわざ席を離れなくても、言ってくれれば取ってあげたわよ?」アリサが小さな声で言った。
「本当は飲まないつもりだったから。でも、やっぱり失礼かなって」
「舞白さん、コーヒーはお砂糖を入れても飲めないものね。給湯室でこっそりミルクでも入れてカフェオレにすればよかったのよ」
「そうしたかったけど、ミルクが……――」
アリサがコーヒーをかき混ぜていたスプーンを持ち上げた時、舞白の声がおかしな具合に詰まった。
「あ、アリサさん、それ――」
「え? ――――ッ!」
アリサの手からカップが落ちる。
深紅の絨毯に身を投げ出されたコーヒーが血液のように滲んでいく。何事かと美弦は腰を上げ、讃も珍しくハッとした眼差しをアリサに向けた。
「大丈夫? 火傷はない?」立ち上がった瑠佳が心配そうに訊ねてくる。
アリサはテーブルにあった布巾を手に取りながら、すぐさまその場にしゃがみ込んだ。
「だ、大丈夫です。思ったより、熱かったものですから。驚いてしまって」
平静を装いながら絨毯に布巾を当てる――コーヒーによる浸食を食い止めるためではなく、自分がカップを落とすことになった、決定的な原因を隠すために。
(どうして、こんなものがカップに……)
見間違いであってほしかった。
しかし拭き取った布巾の裏には、小さくも鋭い感触が確かにある。
もしも舞白が声を上げなかったら、気づけなかったかもしれない――コーヒーの表面でチカチカと、カッターナイフの小さな刃が鈍く光っていたことに。
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