31.腹心の友に





 夕方、再び保健室まで赴いたアリサだったが、ドアの前でしばらく佇んでいた。中へ入ろうと取っ手を掴むも、開く勇気が中々生まれない。


(尻込みしていても始まらないわ。ちゃんと、気持ちを伝えるって決めたんだから)


 自らを鼓舞し、思い切ってドアをスライドさせる。

 照明が落とされた室内は、窓から差し込む夕陽の光に照らされているばかりで仄暗く、消毒液の匂いがどこからともなく立ち込めている。一見するとひとけがないようにも思えたが、最奥のベッドのカーテンはまだ閉ざされたままだった。


「稲羽さん、起きている?」


 カーテンの前でノック代わりの声をかけると、中でベッドの軋む音が微かに鳴った。


「き、清華さん?」


 ほどなく舞白の応答が続く。どこか驚いているような声に聞こえた。


「ええ、わたくしよ。中に入ってもいい?」


「あ、その。ちょっとだけ、待って」


 今度は慌てたような声。再びベッドの軋む音や微かな物音が聞こえたのち、「どうぞ」と控えめな声で中に入ることを許された。

 舞白は横たわっておらず、上体を起こして後ろの壁にもたれていた。顔色は幾分よさそうに見える。


「その、具合はどう?」


「うん……今は、なんとも」


「そ、そう。よかったわね」


 丸椅子に腰を下ろしてみたものの、続く言葉の見当はついていない。舞白も「うん」と頷くだけで黙り込んだため、二人の間に気まずい静寂が横たわる。


(な、なんて言えばいいのかしら。篝乃会の話をする空気ではないし、まずは今朝に酷いこと言ったのを謝って……でも稲羽さんのことだから、余計に気を遣わせてしまうんじゃないかしら。そうよ、とりあえず、当たり障りのない世間話からがいいわ)


 長考の末、アリサは今日一日を振り返りながら話題を定める。


「そう、結局ね、修道院には午後から行ったの。午前中は色々と慌ただしくなったから」


「……私のせい、だよね」


「いえ、違うのよ? そんなつもりで言ったわけじゃなくてね」


 却って気を遣わせる結果となったが、むしろこれが開き直るきっかけになった。


「謝らなければいけないのはわたくしの方なの。酷いことを言って、そのせいであなたを傷つけてしまって」


「清華さんのせいじゃ、ない。全部私のせいだから。私が、悪いから」


「そんな風に自分を責めなくてもいいじゃない。ここ何日か、とても疲れていたのでしょう? 巡礼で歩き回ったり、それにその……セイラさまとも、色々あったのよね」


「それは、あの……」


「いいの、分かっているから。稲羽さんが話してくれようとしていたこと、約束を守ろうとしてくれたこと。なのにわたくしがあんな……本当に、ごめんなさい」


 アリサは深々と頭を下げたが、舞白にまた気を遣わせまいとすぐに顔を上げ、


「わたくし、今度はちゃんと聴くわ。あなたとセイラさまのこと――だから、聴かせて、稲羽さん!」


「き、清華さん。その、近い――」


 気恥ずかしげに頬を染め、舞白は目を泳がせる。

 気づけばアリサの体はかなり前のめりで、舞白との距離が必要以上に近くなっていた。

 アリサは慌てて体を引き、はにかむような笑みを零す。


「……そういえば、初めて会った時もこんな風だったわね、わたくしたち」


「初めて?」


「入学式の日の朝、篝乃庭で会った時よ。わたくしが見間違えて、危うくあなたに突進しそうになってしまって。それでわたくしが何度も謝ったりして」


「……うん、覚えてる。清華さん、私のことを上級生って」


「し、仕方ないじゃない。あの時は、ほかの新入生はいないと思い込んでいて、それに、初めはお姉さまと見間違えて、それで抱き着きそうに――いえ違うのよ? 普段からそういうことをしているわけではなくて、あの時は久しぶりだったから、つい……」


 自然と早口になる。なぜ今更こんな弁明をしているのか、自分でもよく分からない。

 対して、舞白は少しずつ表情を和らげていた。アリサが顔を真っ赤に火照らされた頃には、舞白の顔は普段通りの、どこかあどけない微笑みを取り戻していた。


「なんだか、遠い昔のことみたい……清華さんと出会った時のこと」


「まだ一ヶ月も経っていないじゃない。懐かしむには早過ぎるわ」


「うん。でも、なんとなくそう思ったの。変だよね、私」


「いえ……実を言うと、わたくしも似たようなことは思っていたの。今朝、あの庭園を眺めていた時にね、妙に物寂しく感じられて。きっと桜のせいね。華やかに咲く割にすぐ散ってしまって、気がついたら葉桜なんですもの。なにもかも夢だったんじゃないかと思えるくらい呆気なく変わってしまっていて……」


 アリサはおもむろに、スカートのポケットから水色のハンカチを取り出した。


「でも、少なくともマリアさまは、わたくしに夢ではないことを教えてくださったみたい――ほら、これ」


 折り畳んでいたハンカチを開き、中に収めていたものを舞白の手のひらに乗せる。

 それは親指の爪ほどの大きさもないような薄桃色の花びらで、朝方にマリア像の台座で見かけたものだった。修道院での用事を済ませた帰り、再び篝乃庭を訪れた際に見つけて拾ってきていた。


「これ、桜の……?」


「いいえ、よく似ているけれど、これはシクラメンの花びらね。マリアさまのお足元に乗っていたのを見つけたの。真っ白じゃなくて桃色がかっていたから、まるで桜の花びらみたいに見えて。それでなんだか、無性に嬉しくなって。あなたに見せたいと思ったの」


「私に?」


「ええ、桜の花びらでもよかったんだけど、少し調べてみたら、こちらの方が稲羽さんにぴったりだったわ。シクラメンの花言葉、稲羽さんはご存知?」


 その問いかけに、舞白は少しだけ驚いたような顔をしたのち、ゆっくりと頷いた。


「――『内気』、『遠慮』、『はにかみ』」


「そう、それがシクラメン全般の花言葉で、ピンクは『憧れ』という言葉も持っているらしいわ。稲羽さんは元から知っていたの?」


「ううん、私は、セイラさまから教えてもらって。あのお庭で、初めてバイオリンを聞かせてもらった夜に」


「あのお庭って、篝乃庭で? 夜に?」


「うん。シクラメンの花言葉が私に似てるからって、お庭で」


 掴みどころに欠ける回想だったが、花言葉を理由にするのはセイラらしい気もした。


「じゃあそれを機に、お姉さまとの仲を深めることができたわけね。夜の庭園でバイオリンだなんて羨ましい……想像するだけで幻想的な気がするわ」


「凄く、よかった。セイラさまの音色、綺麗で、温かくて――だから、どうすればいいのか、分からなくなって」


 和らいでいた舞白の表情に、またぎゅっと力が込められる。


「分からなくなったって、どうして?」


「本当は、セイラさまと仲よくなれなくてもいいと思ってたから。アリサさんは、私とセイラさまがスリーズになったこと、気に入らないんじゃないかって……だから、アリサさんとお友達でいられるなら、それだけでもいいって」


 でも、と続ける舞白の唇は、確かに震えていた。


「セイラさまのバイオリンを聴いて、分かったの――この人なんだって。私が純桜に入りたいと思ったきっかけ。この人が、あの音色を奏でていた人なんだって」


「あの音色?」


「去年、学院のSNSの動画で耳にした音色……『アメイジング・グレイス』のバイオリンソロ。感動して、何回も何回も聴いて、練習して、同じように弾けたらって」


 舞白が言っている動画とは、恐らく去年の文化祭を紹介したもので、アリサも同じ動画を視聴した覚えがあった。

 動画の中では様々な生徒が文化祭で披露した歌唱や演奏、作品が紹介されており、セイラが弾いた『アメイジング・グレイス』のバイオリンソロを聴ける部分もある。


 けれど生徒のプライバシー保護の観点から、生徒の顔や名前は公開されていなかった。

 ゆえに舞白は、自分が憧れていた音色を奏でているのがセイラであることを知らなかったのだろう――篝乃庭でセイラの演奏を聴くまでは。


(入学式で弾いた『アメイジング・グレイス』も、稲羽さんなりにお姉さまの音色を真似たものだったんだわ。どうりでわたくし、この子にお姉さまの姿を重ねて――)


 当時の感動に確かな理由が伴い、アリサはどこかすっきりした気持ちになる。

 加えて、どうすれば彼女の苦悩を和らげてあげられるのかも分かった気がした。


「わたくしは、感じたわ。まるでお姉さまみたいって」


「え?」


「初めてあなたのバイオリンを聴いた時。気恥ずかしいからその時は言えなかったけど、本当にそう思っていたの。稲羽さんの演奏にお姉さまを重ねていた……あなたも、お姉さまに憧れていたからだったのね」


「……うん。でも、嫌だよね。私が、セイラさまと仲よくしていたら」


「ええ、嫌よ――子供っぽいからって自分を誤魔化してきたけど、こればかりは素直な気持ち。わたくしの知らないところであなたがお姉さまと仲よくなろうとしているなんて、とっても嫌」


 はっきりと言われたせいか、舞白はきゅっと唇を結んで俯く。潤んだ瞳が大きく揺らいだように見えた。

 それでもアリサは、自らの気持ちを声にし続けた。


「だからね、稲羽さん――わたくしと一緒に、ダンスパーティーに出てくれないかしら」


「え……?」


 今度は弾かれたように顔を上げる舞白。その拍子に大粒の雫が白い頬を伝う。

 アリサは「なんて顔をしているのよ」と微笑みかけながら、手元のハンカチを舞白の顔に当てた。涙を光らせる瞳は呆気に取られたように見開き、アリサのとっさの手つきにも動じる余裕さえなさそうだった。


「私が、出てもいいの?」


「そうお願いしているのよ。分からなかった?」


「でも、私がセイラさまと仲よくするの、嫌だって」


「わたくしの知らないところで、と言ったでしょう? だから一緒に出るのよ。わたくしと稲羽さんの二人で」


「私が、清華さんと一緒に――」


「篝乃会をお手伝いする新入生は、例年二人程度らしいから。その資格があるとしたら、わたくしたち以外にはいないと思わない? わたくしはそう思っているわ。新入生代表を務め上げた者同士として」


「清華さん……」


「ただし、一つだけお願い――そろそろ、そのよそよそしい呼び方をやめること。それでどうかしら」


「『清華さん』じゃ、なくてってこと?」


「ええ。わたくしもこれからは『舞白さん』と呼ぶから。悠芭さんたちもいつの間にか下のお名前で呼んでいるんですもの、わたくしたちもとっくにそうするべきだったんだと思うわ。『腹心の友』になるんだったら」


 アリサがあえて『赤毛のアン』のフレーズを出すと、舞白は呆けたような表情をようやく綻ばせた。


「じゃ、じゃあ――よろしくお願いします、アリサさん」


「なんで余計によそよそしくなっているのよ。おかしな人ね、あなたって」


 思わず苦笑しながら、アリサもきちんと姿勢を正して舞白を見つめ返し、


「こちらこそよろしくね、舞白さ――」


 言いかけたその時、くぅと可愛らしい音が重なる。

 どうやら空腹を訴える音で、舞白は耳の先まで真っ赤にさせて俯いた。


「ご、ごめんなさいっ……朝から、なにも食べてなかったから」


 蚊の鳴くような声の弁明に、アリサは「気にしないで」と答えながら笑うのを我慢したが、結局は堰を切ったように哄笑していた。これほど大胆に声を上げて笑ったのは純桜に入って初めてかもしれない。


「篝乃会よりも、まずは食堂からみたいね。ほら、行きましょう――舞白さん」


 アリサが手を貸すと、舞白はためらいがちに握りながらベッドから立ち上がる。


「ありがとう、アリサさん」


 はにかむように微笑む舞白の顔は赤いままだったが、カーテンを開けると夕映えの光に染め直され、手を繋ぐアリサと共に温かな色で満たされていた。


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