30.少女のジレンマ
⁂
目が覚めた時、自分が保健室のベッドにいると気づくのに長い時間はかからなかった。
トラバーチンを模した天井。辺りを囲う真っ白なカーテン。微かに鼻をつくアルコールの匂い――。
舞白にとってはどれも馴染み深いものだった。純桜の保健室を利用するのはまだそれほど多くはないが、外界から隔絶されたようなこの景色だけは、小学校の時とほとんど違いがない。
でも、どうして自分がここにいるのか……。
その記憶は酷く曖昧で、思い出そうとすると微かな痛みが頭の芯に走る。
いや、本当は覚えているはずで、ただ思い出さないようにしているだけかもしれない。
都合の悪いものほど、記憶の片隅へと押し込んでしまう。
いつの間にか身についた癖。現実からの逃避。
こうなってしまった以上はどうしようもないと自覚できている。思い出してもまた悲しい気持ちになるだけ。考えないでいる方が、ずっといい――。
舞白は上体を起こし、台の上にあった手鏡を見ながら身支度を整えていく。
髪や服装をどれだけ直しても、変わることのない弱々しい眼差しとやつれた顔つきが気にかかり、不安が胸の中で際限なく膨らんでいく。息が詰まりそうになる度、何度も深呼吸を繰り返す。
(やっぱり、ダメ。こんな私なんかが……)
気持ちを落ち着かせ、冷静になればなるほど鏡を見つめてしまう。自分自身の疎ましさに気づいてしまう。
このまま閉じこもっていられるならどれほど楽だろう。いっそのこと、誰もカーテンを開けないままでいてくれたら――誰からも嫌われなくて済む。
(でも、そうしたらもう、誰にも好きになってもらえないのかな)
板挟みの寂しさに、舞白は膝を抱えた。
かつては当たり前だった孤独が酷く虚しいものに思えてくる。失うことが恐ろしく感じられてしまう。
――『わたくしたちはもう充分にお友達よ。そうでしょう?』
篝火に照らされた満開の桜が彩る庭園、さんざめく景色の中で聴いた優しい言葉。
温かな光景は記憶の中で未だ鮮明だったが、現実の庭園はすでに色合いを変えている。
なにもかもが、幻だったかのように。
――『私は、あなたのお姉さまだから』
賑やかな入学式の夜とは対照的だった月夜の庭園。呼吸も忘れて聴き入った演奏。
ぼんやりとした灯火のようだった憧れは輪郭をはっきりとさせ、大きな喜びと、確かなジレンマを心の中に生んだ。
――初めての親友に、仮初めの姉。
どちらにしても、自分にはもったいないほどの存在。
ずっと好きなままでいたい――だからこそ、罪悪感を覚えてしまう。
(もう、戻らないといけないのに)
カーテンの白い繊維から杏子色の光がうっすら透けている。土曜日のため夕のお祈りに行く必要はないが、いつまでも保健室にいるわけにもいかない。
分かってはいながら中々ベッドを下りる気になれないでいた時、部屋の奥でスライド式のドアが開く音がした。舞白は抱えていた膝を広げて布団をかけ直す。ノックがなかったため養護の先生が戻ってきたのだろうかと思った。
しかしカーテンに浮かんだ人影は、想像よりもずっと小柄なものだった。
「――稲羽さん、起きている?」
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