29.初めての生徒会室
瑠佳の言う『落ち着いたところ』とは思いのほか遠く、後期課程に在籍する生徒たちが利用する校舎側の一室だった。
「あの、わたくしが入って本当によろしいのですか?」
「構わないわよ。好きなところに腰かけていて」
「好きなところ、と言われましても」
アリサの声はやけに強張っていた。後期課程側の校舎に足を踏み入れること自体ほとんどないことで、ましてそれが
(ここが篝乃会の、お姉さま方がお仕事をされているお部屋――)
教室とは雰囲気がまるで違う。年季の入った木の床板は見えておらず、足元は落ち着いた赤い色のカーペットで満たされている。部屋の中央には横長の広い円卓が置かれ、その上には真っ白なテーブルクロスにキャンドルスタンド、色とりどりの花の飾りと、さながら西洋の宴会場めいていて煌びやかだった。
いつの間にか瑠佳の姿が見当たらなくなっていたが、『給湯室』と刻まれたプレートのドアが開いているのを見て、恐らくなにか飲みものを準備してくれているのだろうと察する。アリサは手伝いに行くべきか迷ったが、末席に座って大人しく待つことに決めた。
ほどなく、テーブルにコーヒーカップが置かれ、アリサはハッと顔を上げる。
「あ、ありがとうございます、瑠佳さ――ま……?」
「ふふっ、どういたしまして」
見慣れた微笑みを浮かべる瑠佳、けれどその格好は明らかに普段通りではない。
先ほどまで制服姿だったはずの彼女は、どうしてか高潔な修道服に装いを変えていた。
頭を覆うウィンプルまで律儀に被っているが、ウェーブのかかった長い髪は無理に隠されることもなくベールの隙間からふわりと零れ出ている。
「驚いた? 去年の篝乃会主催のイベントで使ったものなの。修道院からお借りしているものだから、正真正銘の修道服。でも勝手に着たことは内緒ね」
「内緒って、いけないことなのにわざわざ着用されたのですか?」
「いけないなんて言うほどでもないけど、あくまでお借りしているものだから。私的利用は好ましくないし、なにより私は、洗礼を受けているわけでもないもの」
そう答えながらも、瑠佳の顔に悪びれた様子はない。むしろ長いスカートの裾を摘まんでみせるなど、修道服姿を楽しんでいるようにさえ見える。
「お戯れもほどほどにしませんと、もしほかの役員の方が来られたら……」
「誰も来ないから着てみせたのよ。それよりこんな末席じゃなくて、もっと奥の席でもよかったのに。たとえばあそこ、一番奥の右隣とか」
「別に結構ですけど、たとえばとは?」
「あら、聡明なアリサさんなら分かるかと思ったけれど。一番奥の席が最上席、つまり『アリスさま』のための席だとすれば、その両隣は誰のための席かしら」
「――っ」
アリサはようやく気づき、瑠佳が指し示した席に視線を戻す。誰も座っていないはずの椅子に、一人の凜とした制服姿が浮かび上がった。
(アリスさまの隣は、副会長席。ということは、普段はあちらにお姉さまが!)
思わず夢想しかけるも、瑠佳からいたずらっぽく微笑んだ目つきで見つめられていることに気づき、ハッと平静を取り繕う。
「お、お姉さまの席ということはよく分かりましたわ。でも、だからってわたくしが勝手に座っていいことにならないと思います」
「ふふっ、それもそうね。でも、またアリサさんのいいお顔が拝見できたから、私としては大満足」
「もうっ、本当にお戯ればっかり」
アリサはそっぽを向き、用意されたコーヒーに角砂糖を溶かした。手作りの角砂糖二つによって苦味がまろやかな具合に薄れ、どれだけでも飲めてしまいそうなほど甘美な味わいに変わっていた。
瑠佳は隣の椅子に腰を下ろし、甘いコーヒーで渋面を和らげていくアリサを微笑ましそうに見つめている。その妙に楽しげな視線に気づいたアリサは、再び渋い面持ちになりながらカップをテーブルに置いた。
「あの、瑠佳さま。いつまでそんな格好をされているおつもりですか? わたくしならもう充分驚きましたから、そろそろ着替えられてもよいと思いますけど」
「あら、私がアリサさんを驚かせるためだけにこんな格好をしたと思っているの? 少し心外ね」
「え?」
「シスター相手の方が、悩みを聞いてもらいやすいような気がしない?」
「そういうことでしたら普通、神父さまのお役目ではないかと」
「懺悔ならそうだけど、あれは罪の告白でしょう? それともアリサさんが抱えているのは、そんなに罪深いことなのかしら。たとえば、そう――稲羽舞白さんが倒れたことを、自分のせいだと思っているとか」
なにもかも見透かしたような言葉に、アリサは得心がいく思いだった。
「やっぱり、ご存知だったのですね。稲羽さんのこと」
廊下でぶつかりそうになった時、アリサは瑠佳の言葉に微かな疑問を覚えた。
――『
ほかに誰か、具合を悪くした者を知っているかのような訊き方。
それをアリサに対して投げかけているのだから、考えるまでもないことに思えた。
「中高の垣根が取り払われている分、話や噂が広まるのも早いのよ。一人が見れば波紋のように伝播していく。私が聞いたのは、アリサさんが背の高い生徒に肩を貸しながら保健室まで向かっていくところを見たという話ね。それで私も急いでいたの」
「急いでって、どうしてですか?」
「妹が保健室へ行ったと聞けば、駆けつけるのは姉として当然のことよ。幸い、アリサさんはなんともなかったようで、安心したわ」
先ほどまでのいたずらっぽい微笑とは違う無垢な眼差しに見つめられ、アリサは湧き上がった温かな気持ちで頬を赤くした。
(なんて卑怯な方なのかしら。お戯ればかりかと思ったら、急にこんな……本当に、卑怯なくらい優しい方……)
恥ずかしさから視線を逸らしたアリサは、ふと最上席の右隣にある椅子に目を留めた。
「今日は、お姉さまはどちらに?」
「セイラさん? どうして?」
「い、いえ。養護の先生から、もし会えたら伝言をとお願いされたので」
事実を言っているに過ぎない声は、どうしてか後ろめたい響きを含んでいるような感じがした。
「セイラさんなら、今日明日は外出しているわ。『アリスさま』のお見舞いに」
「お見舞い――そういえば、ご病気でお休みされているとか」
「元々、お体が強くない方で、今はご実家から近い総合病院に入院されているの。去年までは旧寄宿舎で療養しながら勉強されていたんだけど」
「旧寄宿舎……」巡礼の際、小雛が話していたことが脳裏をよぎり、「あの場所、わたくしの友達が『さ……なんとか』と呼んでいたのですが」
「さ、なんとか? それはよく分からないけど、『サナトリウム』なんて呼んでいる生徒はいるわね。もしかしてそのことじゃないかしら」
「サナトリウム――なるほど、そのことかもしれません」
「私はあまり好きな呼び方じゃないけど、アリスさまのように療養される生徒や、感染症にかかった生徒が一時的に利用することから呼ばれるようになったの。それ以外は不登校だとか、スリーズと上手くいかなかった子が入ったりもしていたかしら……アリスさまがまだいらっしゃった時は、私もセイラさんとよくお見舞いに伺っていたわ。セイラさんにとってはほとんど日課でもあったわね」
懐かしむように語られる言葉にアリサは首を捻る。
「お姉さまがそこまでアリスさまを気遣われるのは、副会長だからですか?」
「え? ああ、アリサさんは知らないわよね。現在のアリスさまとセイラさんがスリーズだったこと」
「スリーズ? ですが、お姉さまとアリスさまでは学年が合わないのでは――あっ」
言いかけて、アリサはこれまでの瑠佳の話からとある可能性にたどり着く。
「そう、留年なされたのよ。ご病気が長引かれたせいもあって……」
アリサが考えた通りのことが、瑠佳の口から発せられた。
「本来であれば、会長としての役職からも退かれるはずだったの。理由はどうあれ、留年した生徒が篝乃会の会長を務めているわけにはいかないから。でも結局は、アリスさまは変わらなかった。セイラさんの強い働きかけもあってね」
「お姉さまの?」
「去年の選挙が行われる前、セイラさんはすでに学院中の人気を集めていて、アリスさまに推されてもおかしくないほど支持されていたわ。もしも後期課程のお姉さま方を差し置いて当選となれば史上初の快挙で、学院は異様な盛り上がりを見せていたわ――だけど、セイラさんはきっぱり言ったの。『お姉さまが学院にいらっしゃる以上、私は相応しくない』って」
「それほどに、お姉さまがアリスさまのことをお慕いに……」
「そうね。生徒の中には、後期課程のお姉さま方に遠慮した部分もあったんじゃないかという声もあったけど、私はそうは感じなかったわ。セイラさんはただ、自分のお姉さまにアリスさまのままでいてほしかったんだと思うの。私も友人のうちの一人だけど、セイラさんが本当に気を許している生徒は、アリスさまだけのように見えたから」
アリサは小さく俯いた。心の中に巣くうもやもやとした感情が瞳を暗くさせた。
同時に脳裏をよぎったのは――昨晩にセリュールで目にした、舞白とセイラの姿。
「……稲羽さんにも、気を許しているということなのでしょうか」
「稲羽さん?」
「わたくし、見てしまいましたの。稲羽さんがセリュールで、お姉さまからバイオリンの手解きを受けているところを」
「ええ、その噂なら私も聞いたけど」
「お姉さまが自らそんなことをされるなんて、わたくしには想像がつかないことでした。でも、もしも、お姉さまが稲羽さんにも気を許されているのなら――」
まくし立てるように言いかけて、アリサはハッとなり、
「いえ、それがスリーズとして望まれるべき関係であることは理解しています。稲羽さんからお姉さまとの関係について悩んでいると打ち明けられて、その時はわたくしも、心から励ましたつもりでした。なのにあんな、矛盾するようなこと、稲羽さんを突き放すようなことを言ってしまうなんて」
「そのせいで、稲羽さんが倒れたということ?」
「養護の先生のお話では、ここ数日の疲労や緊張が原因ということでしたが、わたくしの言葉にも非があったのではないかと」
アリサの素直な告白に、瑠佳は「そう」と優しく相槌を打つ。
「その矛盾は、二人のことを心の底から想っているからこそ生まれたものね。憧れの姉と親しき友人。その間をまるでふりこ細工のように、アリサさんの心が行き来している――たぶん、稲羽さんの心もね」
「稲羽さんも、ですか?」
「実は今朝ね、外出する前のセイラさんに会って、一つ報告を受けたの。聖母祭のダンスパーティーで踊るカドリーユに、稲羽舞白さんも参加するだろうって」
「――――っ」アリサは言葉を失った。
一年生がカドリーユに参加することは、篝乃会に庶務として入会することを意味しており、考えようによってはアリスさまになるための近道でもある。
セイラに憧れるアリサは当然のように参加を決めていたが、舞白は確か難色を示していたはずだった。
「セイラさん曰く、一度勧めてみた時は断られたけど、もう一度訊ねた時には反応が違っていたそうよ。少し考えさせてほしい、友達に相談したいからって」
「友達に、相談?」
「私は、アリサさんのことだと思ったけど。違うのかしら」
――『でも、清華さん、私まだっ……』
倒れる寸前の舞白は、まだなにか言いたそうにしていた。
その時のアリサは聞く耳を持たなかったが、もしもあれがそうだったとしたら――。
「私の憶測でしかないけど、稲羽さんは気づいているんじゃないかしら。アリサさんが抱えている矛盾に。だからアリサさんに相談しなければいけないと思った。自分の意思じゃなくて、親友からの
――『私、清華さんの気持ち、知っていたから』
考えてみれば、最初からそうだったのかもしれない。
舞白は、アリサの複雑な感情を見抜いていた。セイラと仲よくしたいと言いつつ足踏みしていたのも、アリサからの許しを得ていないと考えていたからではないか。
――『私、どうしてもダメで。
殊更に他人を気にしていた舞白の言葉。
彼女の心も、ふりこ細工のように揺れている――アリサとセイラ。二人の狭間で激しく揺さぶられ、少しだけ疲れてしまったのかもしれない。
「瑠佳さま……わたくしは、どうすればよいのでしょうか」
自然と口を突いて出たのは、そんな縋るような声。
「思い詰めることはないわ。アリサさんが願っていることを、素直に伝えればいいのよ」
仮初めのシスターの手が、アリサの頬に優しく触れる。微かにひんやりとした心地が、自身の体の熱っぽさを自覚させた。
「出ないでとアリサさんが望むのなら、あるいはその逆でも、稲羽さんは従うつもりなのでしょう――どちらにしても大切なことは、お互いにきちんと伝え合うことよ」
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