Epistle VI — Bad and Better
26.お姉さまからの手ほどき
⁂
セリュールという名前の由来は修道士が鍛錬するための小部屋からで、更に元をたどれば小さな修道院を示す言葉だったと言われている。純桜のセリュールは略称で、正式名称は『セリュール・ド・ピアノ』であり、直訳すると『ピアノの小部屋』になる。
舞白が純桜を受験することに決めた理由はほかにあったが、このセリュールについても受験前から大きな関心を持っていた。バイオリンの音色を心の拠り所にしている舞白にとって、気兼ねなく弾ける環境が整っていることは小さくない喜びだった。セリュールの中でいつまでもバイオリンを弾いている自分を夢想する夜もあった。
けれど実際に入寮してみると、『ほかに使いたい人がいるのでは』と遠慮してしまい中々利用できない。同級生だけでなく四年生も同じ宿舎内にいるため、自分のような新入生が入学早々に入り浸ってよいものか尻込みしていた。
しかしこの日の夜、舞白は遂にセリュールを利用するに至った。
彼女のためらいは思わぬ形の免罪符を得て取り払われていたが、代わりに大きな緊張と気恥ずかしさを伴うものだった。
(本当に、これでいいのかな……)
恐る恐る音色を奏でながら、舞白はちらりとバイオリンから視線を外す。
アップライトピアノ前の椅子に、美しいナイトウェア姿のセイラが姿勢よく腰かけている。目を瞑って微かに俯き、舞白が弾く『あめのきさき』の音色に耳を傾けている。
――きっかけはなんだったのだろう。
確かなことは分からない。セイラは相変わらず凪いだ水面のような静けさを湛え、普段通りの義務的な挨拶も、色味に乏しい表情もなに一つ変えていない。少なくとも夕方までは、二人で過ごす部屋はやはり息苦しいばかりの空間だった。
けれど、この日の夜もセイラはバイオリンを手に、舞白をセリュールまで連れ出した。
そうしてなんの脈絡もないまま、『あめのきさき』の楽譜を手渡され、今まさに舞白は楽譜通りの音色を奏でている。
いや、脈絡がないわけでもないかもしれない。
昨晩にセイラの演奏を聴いた時から、舞白は『自分ならどう弾くだろうか』と密かに考えていた。
より正確に言うなら――自分なら、どんな音色になるのか……。
一度聴いただけでは想像するにも限度がある。優雅に弓を引くセイラの姿、手つき、弦を弾く繊細な指先の動きは目に焼きついていたが、自分自身の感覚として再構成するには一晩の記憶のみではあまりに足りない。日中も授業に身が入らないほど考え続けていたものの、この不足を埋めるにはどうしても正確な音符を知る必要があると分かっていた。
そんなやるせない気持ちでいることを、見抜かれたのではないか。
セイラならありえる気がした。昨晩、舞白のすべてを理解しているような温かい言葉と音色で包み込んでくれた彼女なら……。
再びバイオリンに視線を戻そうとした時、ドアの小窓から覗くいくつかの好奇な目が気にかかった。舞白とセイラがセリュールにいることを知って見に来た生徒たちで、無音で注がれる期待めいた視線が弓を持つ手を強張らせる。
(私がセイラさまのようになんて、できるはずないのに……)
心の中でそう呟いた時、セイラが目蓋を開けていることに気づいた。
「まだ、音に迷いがある」
独り言を呟くようにセイラは言う。それでもこの狭いセリュールの中、舞白は自分に向けられているとしか思えない。
「す、すみません。どこか間違えたでしょうか」
「今、なにを考えて弾いていたか言える?」
「昨日の、セイラさまのようにって」
「セイラさま?」
「あ、いえ……
言いながら、頬がかあっと熱く火照っていく。
昨晩以降、舞白がうっかり『セイラさま』と呼ぶと、セイラは暗に指摘してくるようになった。時には返事をせずにただジッと見つめてくることもあり、その度に舞白は『お姉さま』と言い直し、込み上げてくる恥ずかしさに堪えていた。
「あなたの演奏は、とても上手。だけどどの曲も、あなた自身の音には感じられない」
「私自身の音、ですか?」
「入学式の時もそうだった。あの『アメイジング・グレイス』は、あなたにとってのお手本を可能な限り模倣したもの。だから淀みや迷いがなかった。それがあなたの本質」
またしても、なにもかもを見透かしたような言葉。
確かに舞白の演奏は、ある時まではバイオリンの先生が聴かせてくれた音を限りなく真似たものに過ぎなかった。立ち振る舞いから細やかな指先の動きに至るまで頭の中にイメージし、ぴたりと重なるように練習する――それこそが舞白にとっての、理想的な音色を作り出す唯一の術だった。
本当は理解している。先生もよく言ってくれていた――真似ることも大切だが、自分らしさを表現することが音楽であり、より楽しい演奏ができるようになると。
それでも、未だに模倣を続けているのはなぜだろう。
唯一と言うべき理想を失い、寄る辺を見失った。
気づけば、独りきりで蹲っていた時、画面の向こう側で奏でられている新たな理想を聴いた。
それがあの『アメイジング・グレイス』――純桜の入学式であの曲を弾くことは、舞白にとって未来を祝福する意味を持たず、むしろ過去の理想や自分自身から離れるためだった。『アメイジング・グレイス』の詞が表す告別の意にあやかるように。
いや、あるいはもっと単純な望みで、ただ聴いてもらいたかっただけかもしれない。
かつて画面越しに想いを馳せた、自分にとっての新たな理想に。
「やっぱり、いけないことでしょうか」
自然と、縋るような声が零れる。
「バイオリンを弾くのが、好きなんです。それが自分の音じゃなくても……いえ、むしろ、自分の音じゃない方がいいんです。そうじゃないと私、きっと弾けないから」
「そう、あなたはそうやって線を引いてきた。自分の弱さと聴衆の間に線を引いて、切り離すことで理想の音色を保ち続けてきた。誰かに聴いてもらうためではなく、誰かになるために弾き続けてきた。それがあなたにとっての音楽」
静かな、けれど滔々と流れる清水のような言葉が舞白の心に染み入ってくる。
それは肯定とも否定とも言いがたい。セイラはただ事実を述べているだけ。
不純物のない氷のように透き通った瞳で舞白の本性を見抜き、的確に言語化している。
舞白の中に不思議な気持ちが生まれていた。今のセイラの言葉は、昨夜の包み込むような優しさを帯びたものではない。気配そのものはむしろ、昨夜より距離を感じる。
けれどその距離こそ、舞白に安心感を与えた。セイラは必要以上に歩み寄らず、何歩か引いたところから舞白の存在を見極めようとしているような、慎重な意図が感じられる。
「……セイラさまはどうして、バイオリンを弾かれるのですか」
そんな疑問を零したのは、ほとんど無意識に近い感覚。『お姉さま』と呼ばなければいけないことも頭にないほどだった。
セイラも、この時は訂正を求めることもなく、
「子供の頃、祖父の家に行った。夏休みで、長く滞在していた」と、答えには遠く思われる地点から話し始めた。
「祖父の家にはあらゆる楽器がコレクションされていた。グランドピアノ、フルート、トランペット、クラシックギター。そこにはない楽器でも望めば手に入り、なんでも弾くことができた。休みの間は自由に弾いて構わないと言われ、私は一通りすべての楽器の弾き方を習得した」
途方もなく恵まれた話だったが、セイラの口ぶりは実に淡々としていた。
「滞在の最終日、祖父は私に『この先も弾き続けたい楽器はあるか』と訊ねた。その時に選んだのがバイオリンだった。なぜか分かる?」
「一番上手に弾けたから、とか……」
「少し近いわ。正確には、一番上手に弾けなかったから」
まったく近くはなく、むしろ逆ではないかと舞白は首を捻る。けれどセイラの口調は淡然としたままで、冗談を言ったわけでもなさそうだった。
「どの楽器もすぐ手に馴染んだ。頭の中で鳴っている音を再現するのに長い時間はかからなかった。だけどバイオリンだけは――音が途切れた」
「途切れた?」
「演奏中に、弦が切れた。意図しない破裂音がして、頬に鋭い痛みが走った。平手打ちみたいな激しい音で、手に馴染むどころか、楽器から拒絶されたように感じられた」
セイラは右手を自分の顔にやり、左の頬をそっと撫でた。痛々しいエピソードとは裏腹に、切れ長の目元にはどこか懐かしむような気配が滲んでいる。
弦が切れるのはさして珍しいことでもなく、ガット弦であれば湿度の変化に弱いため特に切れやすい。恐らくセイラが直接的な原因ではなく、演奏をする前から切れかかっていたに違いない。
しかしいくら切れやすいとはいえ、それで体が傷つけられたケースはあまり聞かない。もしバイオリンに触れて間もない頃、それも幼い頃に経験すればトラウマになってもおかしくはない。
けれどセイラは、それこそがバイオリンを選んだ理由であるかのように話している。
「……痛いのが、好きだったんですか?」
不思議に感じた舞白は、気づけばそんな不躾な質問を口走っていた。
セイラは少しだけ呆気に取られたのち、やがて静かに破顔する。
「そう言ってしまうと、まるで被虐趣味ね。あるいはマゾヒスト」
「い、いえ、そんなつもりで言ったわけじゃ――」
舞白は目を泳がせて頬を染めた。それが下手な取り繕いを恥じてか、あるいはセイラが不意に零した笑みにどきりとしたせいかは分からなかった。
「こんな私でも、あなたは、私のようになりたいと望むのね」
セイラは立ち上がり、「バイオリンを構えて」と命じながら舞白の背後に回る。
言われるがままバイオリンを肩に乗せ、チンレストに顎を置こうとした時――腰から背中を撫でてくるセイラの手の感触で思わず声を上げそうになった。
「なっ、なんです、か……?」
「常にそれくらい背筋を伸ばすことを意識して。猫背のままだと、旋律まで縮こまってしまうから」
そんな冷静なアドバイスさえ、間近で囁かれれば体を火照らせる原因となる。
(だ、ダメなのに。こんなに近づかれたら――)
のぼせるような感覚が強まる中、舞白は微かな目眩を覚えて足元をふらつかせた。セイラに両肩を支えられて事なきを得たが、今までより余計に距離が近くなっている。
「大丈夫?」
「は、はい。すみません」
耳の先まで真っ赤にさせたまま答える舞白。
今日は午前中にあった巡礼でそれなりの距離を歩いている。普段ほとんど運動をしない舞白にとってはかなり辛いもので、疲労を覚えるのは当然と言えた。昨晩からセイラのことで頭がいっぱいで疲れを感じる暇もなかったが、ここに来て体が黄色信号を点し始めたのかもしれない。
しかし疲労というなら、セイラたち四年生もオリエンテーリングでかなり歩いたと聞いている。
それでも自分の演奏を見てくれていることや、セイラと打ち解けられる機会を逃すことが惜しく思え、舞白は目眩の理由を打ち明けることはしなかった。
セイラの手を借りながら体勢を立て直そうとした時、舞白はふと、ドアの小窓から覗く一つの視線と目が合った。
(今の、清華さん……?)
顔を視認できる間もなく人だかりの中に消えていったが、どうしてかそんな気がした。すぐにでもドアを開けて確かめに行きたいとさえ思った。
けれど両肩は未だセイラに抱かれたままで、これを振り払って飛び出すことは、舞白にはできなかった。
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