25.本物の姉妹のように



 巡礼による歩き疲れは夕食を終えた頃になると重たい気だるさを伴い始め、ほっそりとした肉しか付いていないアリサの太ももやふくらはぎに微かな筋肉痛として表れていた。

 幸い今日は金曜日のため、レポートをまとめる時間は土日にたっぷりとある。

 今晩のうちにと急ぐ必要もないため、今頃はみんな早めのバスタイムに入っているか、ベッドに倒れてせっかちな睡魔と格闘しているかもしれない――というアリサの想像は、本来そうした姿が似合いそうもないルームメイトに対して的中していた。


「瑠佳さま、大丈夫ですか? 随分とお疲れのご様子ですけれど」


「ええ、今日は午後から歩き詰めで……」


 ベッドに横たわったまま、普段より低い声で答える瑠佳。彼女がこれほど無防備にだらけているのも珍しい。

 今日の午後、後期課程の生徒は毎年恒例のオリエンテーリング大会で、敷地内の森を十キロ以上巡り歩いてクイズの書かれたポストを探し回ったという。夕食から戻ってきた瑠佳もしばらくは日課の自習に勤しんでいたが、ほどなく限界を悟ったのか、ベッドに身を投げたきりバッテリーが切れたようにぐったりしている。


「わたくしも、今日はくたくたになりました。もう今すぐにでも、瑠佳さまのように横になりたい気分です」


「私の横で眠りたい? 随分甘えん坊さんね。私はもちろん構わないけど……」


「瑠佳さまのように横になりたいと言いましたの。もう、本当にお戯ればかり」


 呆れたような小言にも瑠佳はすっかり慣れたようで、「眠気のせいで耳が遠いのかも」などと茶目っ気たっぷりの微笑みで開き直っていた。

 結局アリサは横にはならず、部屋を出て一階のロビーを目指した。巡礼中にふと湧いた子供に関する疑問、過去に教わった話の真偽を母親に電話で訊ねるために。


 階段を下りていく途中、アリサは何人かの同級生とすれ違ったが、彼女たちの表情が一様に色めいていることが少し気になった。なにか愉快な催しでも行われていたのだろうかと思って食堂を覗いたが、中は一人の生徒がタブレット学習に勤しんでいるだけ。

 その生徒が、実は悠芭であると気づくのに時間を要したのは、普段の丹念に編み込まれた三つ編みがすっかり解かれ、トレードマークの眼鏡もかけていないのが原因だった。見慣れた制服姿ではなく紺のパーカーを着ていることもあってもはや別人のようにさえ見える。

 悠芭だと確信が持てたのは、彼女がアリサの姿を捉えるなり人懐っこい笑みを浮かべ、


「おや、アリサさん。こんな時間に会うとは珍しい。さあさ、どうぞこちらへ」


 と、慇懃かつ陽気な誘い文句で手招きしてきたからだった。


「やっぱり悠芭さんだったのね。初め、誰だか分からなかったわ」


「そんな! たった数日会わないだけで忘れられるほどの存在感ですか、私?」


「そういう意味じゃないわ。髪型が普段と違っているし、眼鏡もかけていなかったから」


「私、部屋ではいつもこんな感じでして。申し訳ありません、文学少女感がなくなってしまって」


 予想外の謝罪をされ、アリサは思わず苦笑する。


「別にわたくしは気にしないけど、眼鏡はなくてもいいの?」


「あれ、伊達ですので。実は両目共にケニア人レベルなのです。祖母はフィンランド生まれですが」


「そうなの?」


「今の、笑うところなのですが」


 さっぱり意味が分からないため、アリサは視線を逃がすようにテーブル上のタブレットを見やった。


「巡礼のレポートでもまとめていたの?」


「いえ、別件です。しかしまったく関係ないわけでもないですね。今日の巡礼で分かったことも踏まえながら調査していますので」


「調査?」


「篝乃庭、延いてはアリスさまの謎についてですよ」


「……そういえば、そんな話もあったわね。そのために図書委員になるとかどうとか」


「はい。ここ数日で書庫の調べもそこそこ進みまして。本日の巡礼のことも踏まえながらタブレットにまとめていたところです」


「巡礼とアリスさまが、どう関係があったというの?」


「関係と言いますか、修道院で興味深い話が聞けまして。あそこのシスターは純桜の卒業生ばかりで、ご年配の方も多いですから」


「よく堂々と話が聞けたわね。授業とはなんの関係もないことなのに」


「そこはまあ、シスターは寛容な方が多かったので。それに結果的には、話が聞けたとも言いがたいものでした。なにせどなたも、アリスさまについて詳しいことを知る方はいらっしゃいませんでしたから」


「じゃあ、なにも興味深いとは言えないじゃない」


「そうでもないのですよ。むしろ私が立てていた仮説にとっては興味深い事実だったわけです」


「相変わらず持って回った言い回しね。わたくしはあなたがどんな仮説を立てているのかさえ知らないのよ?」


「失礼、しかしそれは当然でもあります。仮説はまだどなたにもお話ししていませんし、できる段階にもないものですから。けれどあえて興味深い部分についてお話しするなら、シスターの方々がが重要だったのです」


「知らないことが、重要?」


「ご年配のシスターでも詳細をご存知ないということから、アリスさまがご在学されていた時代を絞り込むことができます。元々、アリスさまは純桜ができて間もない頃の女学生という俗説でしたが、そこはだいぶ現実味を帯びてきた気がするのです」


「なるほどね……でもそれだと、アリスさまが実在したかどうかを訝しむ材料にもなりそうだけど。前に話してくれた伝承だって、非現実的で納得のいかない部分が多かったじゃない」


「ふっふっふっ、まあご尤もな疑問です。しかし今は、あえて答えないでおきます」


「あえてって、そんなに勿体ぶるほどのことでもあるの?」


「先ほども申し上げましたようにまだ仮説の段階ですので。強いて一つだけ明かしておくことがあるとすれば、福音書の言葉です――『あなた方には神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてがたとえパラブルで語られる』」


「……ますますわけが分からないわ」


 お手上げと言わんばかりにアリサは溜め息をついた。

 悠芭は悪びれる様子もないどころか満足げに笑うと、またいそいそとタブレットに文字を打ち込んでいく。充実した眼差しがアリサには不思議で堪らなかった。


「よくそれほど真剣になれるわね。いくら魅力的な謎だからって、そんなに夢中になって解き明かそうとしているの、悠芭さんくらいじゃないかしら」


「今となってはそうかもしれません。しかし私にとってこれは、憧れを超えるための通過儀礼でもありますので」


「憧れを超える?」


「はい。アリスさまと篝乃庭の謎は、博学審問な私の叔母でさえ解き明かすことが叶わなかった純桜最大の謎なのです。物知りな叔母は私にとって憧れの存在ですが、だからこそアリスさまの謎を解くことができれば、叔母の鼻を明かすことにもなるわけです」


 嬉々として話す悠芭の声が、アリサには少しだけ遠く感じられた。

 アリサにも、憧れの存在はいる。言うでもなく実の姉、セイラのことだ。

 けれど悠芭のように、超えたいと思ったことはあっただろうか……。


「偉いわね、悠芭さんは。ただ憧れているばかりじゃなくて、超えてみせようだなんて」


「いえいえ、お褒めに預かるようなことでは。それにアリサさんも、いずれはセイラさまを、とお考えなのではないですか?」


「さあ、どうでしょうね。少なくとも今は、想像もつかないほど遠く――」


「あ、セイラさまと言えば、アリサさんはなにかご存知ですか?」


「なんのこと?」


「昨日、偶然見かけたという生徒の間で話題になっていることでして。どうやら今晩も、らしいのですが……」


 続く悠芭の言葉で、アリサはいても立ってもいられなくなった。

 急いで食堂をあとにし、階段で二階へと上がる。

 ――先ほど、一階へ下りていた時、やけに色めく同級生たちとすれ違った。


(もしかして、彼女たちが噂していたのって)


 果たして、アリサの予感は的を射た。

 二階の奥、楽器を練習するためのセリュールの前に、何人かの同級生たちがたむろしている。みな、防音ドアの小窓から中の様子を窺っているようだった。

 微かに高鳴る鼓動を押さえながら、アリサは普段通りの歩様を心がけて群衆の後ろまで近づき、それとなく小窓の内側を覗き見た。


(あれは、お姉さま……じゃあ、やっぱり――)


 細長に切り取られた小部屋の中に見えたのは、一組のスリーズ。

 バイオリンを構える舞白を、セイラが背後から寄り添い、手解きをしている様だった。セイラの手が舞白の腕に触れる度に、覗いている生徒たちが『きゃあ』と声を上げる。

 本物の姉妹のように並ぶ二人の姿に底知れない戸惑いを覚える――その時不意に、小窓の向こう側ではにかむ舞白と目が合うと、アリサはとっさにその場から逃げ出していた。


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