27.友の異変
†
土曜日の朝食後。アリサは制服に着替え、タブレット片手に夢見荘をあとにした。
空は澄み切った青に明るい日の光を広げているが、小道を歩くアリサの表情は晴れやかとは言いがたく、その理由が昨晩に覗き見たセリュールの光景にあることは明白だった。
(別に、おかしく思う必要なんかないじゃない。あの二人はスリーズなんですもの)
バイオリンの話題でなら打ち解けられるのでは、と助言をしたのもアリサ自身である。セイラからバイオリンの手解きを受ける舞白は、むしろ望まれるべき姿と言っていいはずだった。
けれど、どうしてか穏やかな気持ちではいられない。
それどころか、昨晩の光景を思い出す度に胸騒ぎが強まっていく。
複雑な胸中に反し、立ち寄った篝乃庭は青天と同じく清々しい空気に満ちていた。普段なら賑わう声が聞こえる庭園も、休みの日の朝となるとまだひとけに乏しく、今朝に至ってはアリサ以外に誰の姿もない。
(桜ももう、すっかり散ってしまったわ。入学式の日は、あんなに見事に咲いていたのに)
葉桜に衣替えした瑞々しい木々に微かな寂しさを覚える。花篝で煌めいていた薄桃色の花びらは小枝にはおろか、地面のどこを見渡しても一枚も見当たらない。
アリサは庭園の中央まで歩き、マリア像の正面で立ち止まる。
足元には真っ白なガーデンシクラメンが咲き並んでいる。この光景だけはまだ、入学式からそう変わっていない。
――『みなさんは篝乃庭にあるマリアさまの像の前で、なにか一心に拝んでいらっしゃる上級生の方々をお見かけしたことはありませんか?』
不意に浮かんだのは、いつかのティーブレイクに聞いた悠芭からの問いかけ。
――『初代アリスさまは言わば学院内において聖者のような存在であり、友人との関係になにかと苦心しやすい年頃の生徒たちにとって祈りの対象となっていったわけです』
どうして今、こんな話を思い出すのか。
考えるまでもないことだったが、そうだと認めるには少し時間を要した。
(……わたくしも、悠芭さんに影響されてきているのかもしれないわね)
休日に朝早く出かけたのも、元はと言えば悠芭が関係している。もしもタブレットを抱えていなければ、実際に膝をついて見よう見まねで拝んでみていたかもしれない。
(あら? なにかしら、あれ)
ふと、マリア像の台座の奥に小さな桃色が付着しているのに気がつく。
裏手に回ればよく見えるだろうか、あるいはこのまま花壇を飛び越えた方が早いかもしれない――そんなことを迷っていた時、芝を踏みならす足音が背後から聞こえた。
「清華、さん」
振り返ると、微かに息を切らした様子の舞白が立っていた。制服姿のアリサとは対照的にナイトウェア姿のままでよく見ると頬の辺りが少しやつれ、雪のような肌の色も相まってかどことなく病的に見受けられた。
級友の常ならない姿に驚くアリサだったが、昨晩のことがまたふっと脳裏をよぎると、本来向けるべき心配の言葉が胸の中で霧散する。
「なにしてるのよ、そんな格好のままで」
代わりに口を突いて出たのは、自分でも顔をしかめたくなるほど嫌味な声。
「あの、朝ご飯は、今日は……」
案の定、舞白の返事は普段よりも更に怖じけづいているように聞こえた。
夢見荘では、学校がある日は全員が同じ時間に食事を取る。しかし休みの日は外泊届けを出して帰宅する者もいるため、食事は定められた時間内であればいつ取ってもよいことになっている。
これまでアリサと舞白は、必ず二人並んで食事を共にしていた。休みの日は普段よりも三十分ほど遅めに起きて朝食を食べていたが、これも必ず二人で時間を合わせていた。
しかしこの日、アリサは平日と変わらない時間に朝食を済ませて夢見荘を出ていた。そうすることを舞白に伝えないまま。
「今日はわたくし、先に済ませたの」
「どうして、急に……」
「道徳のレポートのために修道院へ伺うの。長く勤めていらっしゃるシスターの中で、わたくしがお聞きしたいことをご存知の方がいらっしゃるかもしれないと思ったから」
昨日の巡礼のさなか、アリサは伊緒から聞いたかつての純桜のこと、取り分け篝乃庭に咲く花のことが気になり、レポートにまとめたいと考えた。修道院のシスターに話を伺おうと決めたのは、昨夜の悠芭との会話がきっかけだった。
包み隠さず話したアリサだが、舞白は納得した様子を見せない。脆弱な小動物のように瞳を揺らし、なにか言いたげな表情でジッとアリサを見つめている。
「……わたくし、もう行くから。稲羽さんは戻って朝食を取るか、ほかの方に見られる前に早く着替えた方がいいわ」
幾分穏やかに言って踵を返す。金木犀の生け垣を抜け、修道院へと続く長い坂道に差しかかる。
しかしその坂の途中でアリサは足を止め、堪りかねたように振り返った。
「ねえ稲羽さん? どうしてあなたはずっとついてきているのかしら」
庭園を出た時から気づいていたが、無視していれば引き返すだろうと思っていた。
しかし上り坂を半分ほど過ぎても足音がやまないため、さすがのアリサも問いたださずにはいられなくなった。
「あの、謝らなきゃいけないと、思って」
「謝る? なにを」
「清華さん、怒ってるから……だから」
「質問の答えになっていないわ。そもそもわたくしは怒っていないもの。稲羽さんはなにを根拠にそんなことを言うのよ。朝食をご一緒しなかったから?」
「それも、あるけど……昨日の、セリュールのこと」
「――っ」アリサは思わず奥歯を噛み締める。
「本当はね、ちゃんと言うつもりだったの。でも、言いそびれて……ごめんなさい」
「別に、謝る必要なんかないじゃない。仲よくなれたのはいいことだわ」
「でも、約束してたから、清華さんに話すって。それに、仲よくなれたのも、清華さんのおかげで」
「わたくしの?」
「バイオリンのことなら、話しやすいだろうって。本当に、思っていたよりも全然、話しやすい人で、優しくて……時々、微笑みかけてくれたりも」
息を切らしたように途切れ途切れとなる言葉。
その端々に、舞白は確かな幸福の色を滲ませている。
「それに、清華さんのことも、教えてくれて」
「わたくしのこと? お姉さま、なんて仰ったの?」
「あ、あの、『アリサは寒がりで、よく抱き着いてくる』とか……」
「~~っ!」
アリサはとっさに背を向け、真っ赤になった顔を見せないようにした。
舞白の言う通り、アリサは寒いのを言い訳にしてよくセイラに抱き着いていた過去がある。幼い頃は理由もなしに純粋な好意からだったが、ある時から無性に恥じらいを覚えるようになり、以来寒がりを理由にするようになっていた。
(ああもう、今すぐアリスになれないかしら! ラビットホールでもなんでもいいから、穴があったら入ってしまいたいわ……)
両手で顔を覆いたかったが、タブレットを抱えているため片手で口元を押さえるだけで精いっぱいだった。
(あの凜々しくて美しくて気高さの塊のようなお姉さまから、そんなパーソナルな話題を聞き出せるほど打ち解けただなんて。本当にもう、お姉さまと稲羽さんは……)
一頻り恥ずかしさに苛まれたのち、アリサは小さく溜め息をついて背筋を伸ばし、
「もういいわ。わたくし、そろそろ行かないといけないから」と、毅然とした声になるよう努める。
「あなたがお姉さまと仲よくなれたことはよく分かったから。それで充分でしょう?」
「でも、清華さん、私まだっ……」
「だから、もういいって言っているじゃない。そうやって、あなたはお姉さまとの仲を深めていくの。わたくしよりも長い時間一緒にいて、わたくしの知らないお姉さまのことを知っていくのよ」
あえて突き放すように言うも、舞白は未だ言葉にならない縋るような声を上げている。
さすがに我慢できなくなって振り返った瞬間――舞白がアリサの体に抱き着いてきた。
「ちょ、ちょっと稲羽さん? その、わたくしは寒い時に抱き着くのであって、普段からこういうことを好むような、そんな趣味があるわけじゃ――えっ?」
突然のことで冷静さを欠くも、すぐさま異変に気づく。
――舞白の体がやけに熱い。
呼吸も荒く、白い頬が青ざめているのが分かった。
「稲羽さん? 稲羽さんっ――?」
アリサからの呼びかけに応えることもせず、舞白はぐったりと体の力を失っていた。
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