23.ふたりきりの演奏会
⁂
春のひんやりとした夜気は、舞白にとっては馴染みの少ない感覚だった。
夢見荘に門限がある限り、これほど遅い時間に外出することは滅多にない。そうでなくとも舞白は、夜に出歩くことには嫌な思い出しかない。
しかしこの日、セイラから手を引かれるまま月夜の下に連れ出され、たどり着いたのは静まり返ったバージン・ガーデン――篝乃庭だった。
(門限、過ぎてる……)
庭園に立つ時計を見上げ、舞白の胸は強く脈打つ。
小学校時代を含めて、これほど大胆に規則を破ったことはない。
(大丈夫、だよね。きっと、宿舎を出てもいい理由があるんだよね)
リボンのような小道を進んだのち、セイラは庭園の中央から最も近いベンチに腰を下ろす。まだ手は繋いだままだったため、舞白も隣に座る形になった。
夜の篝乃庭は入学式以来だったが、あの時とはまるで別世界に感じられた。
ひとけはなく、篝火もない。青白い月明かりが柔らかく降り注いでいるが、辺りの桜はすっかり散ってかつての彩りには乏しく、マリア像とシクラメンの純白だけが取り残されているように見える。
「肌寒くはない?」前置きもなくセイラが言った。
声色は相変わらず単調で、舞白は気遣われていると気づくのに少し時間を要した。
「は、はい。大丈夫です」
「そう。寒かったら抱き着くといいわ。体が温まるから」
「はい……え? 抱き着く?」
舞白は困惑した。聞き間違いを疑うには、輪郭がはっきりとした鮮やかな声だった。
セイラは握っていた手を離すと、手にしていたバイオリンケースを膝の上で開く。
眼差しは真剣そのもので、冗談を言っているようには思えない。
「あの、なんで、抱き着くって」舞白は恥ずかしさを忍んで訊ねた。
弓に松脂を塗っていたセイラは、にこりともさせていない顔を上げて、
「体が温まるから。そう言ったはずよ」
「で、でも、だからって抱き着くなんて」
「あの子が、よくそうするから」
「あの子?」
「アリサのこと。寒い時は私によく抱き着くの」
「は、はあ」
級友の思わぬ秘密を知ってしまい、舞白は反応に窮した。
「昔から寒がりで、季節を問わず抱き着きたがるの。冷え性なのかしら。私やほかの家族は、そんなこともないけれど」
(それって、抱き着くための口実じゃないかな……)
思わず口が滑りそうになるも、寸でところで堪える。
同時に、アリサがセイラに無邪気な笑顔で抱き着く様を想像してしまい、頬の辺りがじんわりと熱を帯びた。舞白はぶんぶんとかぶりを振り、ほかのことを考えて気を紛らわせようと努めた。
「あの、どうして、ここに」
訊ねずにはいられない。しかし声は遠慮がちで、言葉足らずな質問になった。
「バイオリンを弾くためよ」軽く音を鳴らしながら答えるセイラ。
夢見荘の中には『セリュール』という名前の部屋が六つ用意されている。
生徒が心置きなく楽器を練習するための個室で、中にはアップライトピアノが一台設置されているが、バイオリンなどのほかの楽器を持ち込んで練習しても構わないことになっている。
「あの、バイオリンなら、セリュールでも」
「あそこは練習をする場所だから。聴いてもらうには相応しくない」
「聴いて、もらう?」
誰に、という疑問は不要だった。セイラの瞳はまっすぐに舞白を捉えていた。
「マリアさまと、あなたに」
ベンチから腰を上げ、バイオリンを構えるセイラ。
まもなく、穏やかなG線の響きがゆったりと波紋を広げる。
瞬間、通り過ぎていくばかりだった夜風が足を止め、時間の流れは静かに息を潜めた。庭園にあまねく降り注ぐ霜のような月明かりさえ、
同じフレーズがもう一度繰り返されたのち、豊穣な音色は微かな盛り上がりと共に変化を見せる。それでも思い切った派手さはなく、旋律はどこまでも悠然と流れたのち、再び元のフレーズに回帰した。どこかで、聞き覚えのある曲だと舞白は思った。
(たぶん、歓迎会の時の歌だ)
脳裏に聖歌隊の美しい歌声の束が浮かんだ舞白は、この曲の題名が『
アリサから聞いていた通り、セイラは優れたバイオリニストだった――奏でられる音の一つ一つが粒立っていながら、すべてがわずかなほつれもなく滑らかに繋がっている。柔らかな厚手の絹に包まれているような心地で、確かな温もりがじんわりと胸の中に広がっていく。
(とても優しい音色――やっぱり、
入学式の代表挨拶で見た時から、捉えどころの難しい上級生だと感じていた。その印象は同じ部屋で過ごすようになってますます強まった。
顔色も声色も常に一定で、わずかな波紋も許さない湖面のように澄み切っている。眺めるだけなら美しいだけで済むが、触れるとなればこれほど困難な存在はなかった。零す言葉一つにも気詰まりを感じ、色味のない虚しい時間を共にしてきた。
それが今は、見違えるほどに彩られている――舞白は深く息を呑んだまま、辺りを漂う温かな音色に心身を染めた。
やがて演奏を終えたセイラは、マリア像と舞白のそれぞれに丁寧なお辞儀を見せ、再びベンチに腰かける。それから興味深そうにバイオリンの弦を見つめ、
「クロムコアね。ナイロン弦は苦手?」
「い、いえ。買ってもらった時から、ずっとこの弦だったので」
これまでよりは幾分、声がすらりと出た気がした。
「スチール弦はチューニングしやすいからでしょう。変えてみたいとは思わなかった?」
「あまり、拘りがなかったので。セイラさまは、普段はナイロン弦を?」
「ガットよ。よりまろやかな音が出せるわ。馴染むには時間がかかるけれど」
「ガット……やっぱり、お金持ちなんですね」
思いのほか声が詰まらず、会話が続く。舞白は不思議な安堵感と、居心地のよさを覚えていた。
いつだったか、アリサから『バイオリンの話題なら話しやすいのではないか』と言われたが、それは半分当たっていたのかもしれない。
けれど最大の理由は、やはりセイラが奏でた優しい音色のおかげだと気づいていた。
「でも、スチール弦でもあんなに柔らかな音、凄いです。私なんかと、全然違っていて」
「そう。ありがとう」手短に応えると、セイラは丁寧にバイオリンを片づけ始め、「弓も、私のものより少し重いわね。速弾きの曲だと苦労するわ」
「私は、ゆったりした曲しか弾かないので。弓の重さは、あまり気にしたことがありませんでした」
「そう。バイオリンはご両親から?」
「それは……はい」
つかえることなく出せていたはずの音が、急に喉を通らなくなる。
答えは浮かんでいた。なんでもない会話のはずだった。
それなのに――上手く声に出せない。
「すべてを答える必要はないわ。誰にでも、言いにくいことはあるものだから」
「す、すみません」
「謝る必要もないわ。私ばかり訊ねても不公平だから、次はあなたから訊きなさい。私も答えられる範囲で答えるから」
セイラらしい命令口調で、これまでの舞白なら返事のみで黙り込むのが関の山だったかもしれない。
「……どうして今日、バイオリンを」
「私のバイオリン、点検に出しているから。あなたのを使うしかなかったの」
「いえ、そうではなく、どうして聴かせてくださったのかと」
「さあ。よく分からないわ」
舞白は反応に困った。答えられる範囲で、とはなんだったのか。
「ただ、こうする必要があると感じたの。お姉さまが仰ったことを思い出したから」
「お姉さま?」
「そう、私のお姉さま。かつてお姉さまは私に仰ったわ――『あなたは才気に溢れていて容姿も素敵だけれど、口数が少なくて無愛想だから妹としては全然可愛くないし、なにを考えているかも分からない』と。あなたもそう思う?」
「い、いえ。私はその、そこまでは」
「では、少しは思っているのね」
「~~っ。ぜ、全然、まったく……」
否定しようとするも、顔中が熱くなって思わず俯く。自分に対する非難を淡々と話すセイラが少しだけおかしかったが、笑うわけにもいかずなんとか我慢する。
「お姉さまの言葉には続きがあるの――『バイオリンの音色の方が、あなた自身よりよほど素直だったわ』と。だから私は、お姉さまにバイオリンを弾いて聴かせた。私がどれだけ、お姉さまを尊敬しているのかを伝えるために」
「伝えるために、ですか」
「そう。だから、今日も」
器用とは言いがたい声が続き、舞白はハッとなった。
セイラがバイオリンを聴かせてくれたわけが、少しだけ分かった気がした。
「演奏にここを選んだのは、シクラメンが咲いているから。あなたと、よく似ている」
「私と?」
マリア像を囲う真っ白な花弁の絨毯が目に入り、舞白は少しだけどきりとする。
「そう。シクラメンの花言葉は知っている?」
「確か、『清純』って」
「それは白いシクラメンの花言葉。花言葉は花弁の色によって違うことがあるけれど、あの子には白がぴったりだと思って言ったの。学校が用意したロザリオではなく、私からなにかお祝いしてあげたかったから」
透明なはずの声色に微かな後悔が滲んでいる気がして、舞白は不思議に感じた。
(私じゃなくて、清華さんに直接言ってあげればいいのに)
助言すべきか悩んだが、自分のことを棚に上げるような気がしてためらわれる。
ただ、セイラも自分と同じように口下手な部分があることが、少しだけ嬉しかった。
「シクラメンは元々、俯きがちに咲く花として知られているの。だからシクラメン全般の花言葉も、その特性にちなんでいる」
「特性?」
「そう――『内気』、『遠慮』、『はにかみ』」
「それは……確かに、私みたいですね」
そう肯定する時でさえ、はにかむような笑みを浮かべずにはいられなかった。
内気も、遠慮も、はにかみも、すべて自分に当てはまる言葉。
けれど舞白が俯くのは、そういうことばかりが理由ではなかった。
誰にも言えない秘密を、ずっと胸の奥深くに抱え続けているから――。
(セイラさまには、言うべきなのかな)
本当はスリーズになった時に、打ち明けておくべきことだったのかもしれない。
セイラならきっと、なんでもないことのように受け入れてくれるだろう。
それでもまだ、恐れている自分もいる。
拒絶された記憶。終わりの来ないリフレインのように、頭の中で鳴り止まずにいる。
「あの、セイラさま、私は……――」
ためらいがちに零れる声。上手く続けられず、喉の奥が見えないなにかにぎゅっと締めつけられる。白い頬が、恥ずかしさと焦燥感で熱の色を帯びていく。
「――すべてを答える必要はないわ」
震えてばかりいた舞白の唇に、セイラの人差し指が軽く触れる。
「そうアドバイスしたばかりよ。誰にでも、言いにくいことはあるものだからと」
混じり気のない黒い瞳に見つめられ、呼吸をするのも忘れてしまう。
まるで、すべて見抜いているような眼差しだった――もしかすると彼女は、自分のなにもかもを知っているのではないか。そんな風にさえ思えるような……。
「ありがとうございます、セイラさま」
今度は自然と、感謝の言葉が零れていた。
「バイオリン、聴かせていただけて、嬉しかったです」
「別に。必要があると思ってしたことだから」
「でも、私だけのために、外に出る許可までもらって」
「そんな許可は得ていないわ」
「え? でも、門限を過ぎてから外に出たら……」
庭園にある時計をおずおずと指差す舞白。
セイラも見上げて確認したが、その表情に焦りはなく、
「寄宿舎規則違反ね」と、冷静に告げた。
「もしかして、時間、見ていなかったんですか?」
「勝手口から戻れば、まだ見つからない可能性もあるわ。運がよければだけど」
舞白は青ざめ、すぐさまベンチから立ち上がる。
「と、とにかく戻らないと。あの、ケースは私が持ちますから、セイラさまも早く――」
「待ちなさい」
一刻を争うこの時に、セイラは焦る舞白の手を取って呼び止めた。
「私のことを、セイラさまと呼ぶのはおやめなさい」
「え……?」
「私は――あなたの、お姉さまだから」
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