18.お姉さまに誘われて
体育の時間を境に、アリサの心中は穏やかではなくなっていた。
夜になり、湯船に体を浸している時でさえ、煩悶とする思いが消えないままでいる。
(子犬みたいな目で見つめてくるんですもの、頷かないわけにはいかなかったわ。友人として心配しているのも本心だし、断る理由だって――ああ、でも、本当にいいのかしら。お姉さまの部屋に、わたくしが……)
口元まで湯面に沈ませ、ぶくぶくと気泡を浮かせる。
顔はすっかり林檎色で、もう何時間も入っているような火照り具合だった。
(お姉さまに会いたくないわけではないわ。むしろずっとお話ししたかったし、お部屋にだって遊びに行きたかった。もしお姉さまと同室になれていたら、ここまで気兼ねしなかったでしょう。
でも今は、違うんですもの。お部屋にはお姉さま以外に稲羽さんもいて、お姉さまと二人きりになれるわけじゃない。まして今回は、お姉さまと稲羽さんの仲を取り持つためですもの。わたくしが望むような時間にはきっとならないわ。
いえ、でも、お姉さまに会えるのよ? それだけでも充分じゃない、なにをためらうことがあるの?)
のぼせる前には風呂から上がり、いつもより長くドライヤーの涼風を当てた。
頬の妙な熱は相変わらずだったが、頭の中は少しだけ冷静になれた気がした。
(もう約束してしまったことですもの、悩んでいても仕方ないわ。それよりも、瑠佳さまに篝乃会がお休みの日を伺っておかないと)
髪を乾かし終えて洗面所を出ると、アリサは珍しい光景を目にした。
「ええ、次の試験では必ず。分かっています……――」
学習机に向かう瑠佳が、スマートフォンで誰かと電話している。
その声は丁寧ながら力のないもので、どこか疲れ切ったものに感じられた。
(お電話なんて珍しいわ。スマホをお持ちなのも知らなかったけど)
純桜の生徒は原則的に、夢見荘に電子機器を持ち込むことができない。電話をする際は一階のロビーにある公衆電話を利用する。
しかし四年生以上に限っては、保護者同意のもとで携帯電話の所持が許されている。
それでも使用できる時間は制限されており、使用目的も保護者との連絡用のみ――つまり瑠佳が電話をしている相手も、推測するのは容易だった。
まもなく電話を終えた瑠佳が、深い溜め息と共に顔を俯かせる。
アリサは声をかけずにはいられなくなった。
「あの、瑠佳さま」
「……アリサさん、もう上がっていたの」
振り返った瑠佳の顔には、微かだが気まずげな笑みが浮かんでいた。
「もしかして、ずっと聞いていた?」
「いえ、たった今出てきたところで」
「そう……ごめんなさい、気を遣わせたかしら。もう終わったから大丈夫よ」
その言葉に安心したアリサは、気兼ねなく自分のベッドに腰を下ろす。
洗い髪を梳かそうとヘアブラシを手に取った時、瑠佳がおもむろに近づいてきた。
「私がやってあげましょうか」
「え? そんな、瑠佳さまにやっていただくほどのことでは」
「遠慮しないで。自分で言うのもなんだけど、結構上手なのよ? 私がまだ下級生だった頃、お姉さまの髪をよく梳かして差し上げていたから」
「でしたら、むしろわたくしが瑠佳さまの髪を」
「私はこれからお風呂だもの。ほら、早くしないと綺麗な髪が台無しだわ。私の前に座って、楽にしてくれて構わないから」
柔らかな声で押し切られ、瑠佳の懐に収まるように座り直す。背中に感じる仄かな体温が心地よく、思わずもたれてしまいそうになった。
ブラッシングが始まると、心地よい気分はいっそう膨らんだ。
二つ結びを解いたローズブラウンの髪が、瑠佳の優しい手つきによって滑らかに梳かされていく。自分でするよりもわずかにくすぐったく、けれど特別な幸福感に包まれているような、不思議な感覚だった。
「どう? 中々悪くないものでしょう?」
「ええ、とてもお上手ですわ。けど、どうして急に?」
「綺麗なものに触れていたいと思ったのかも。分かってもらえるかしら」
「そ、それはその、お褒めに預かり恐縮と言いますか」
アリサは仄かに顔を赤らめる。
褒められることには慣れているはずだが、今は少しだけむずがゆい気持ちになる。髪の隙間を流れるように縫うブラシの心地よさのせいだと思うことにした。
「綺麗なものに触れていると、触れている自分まで綺麗なものになれる気がしてくるの。本当に美しくなれるわけじゃなくても、気持ちを癒やしてくれるだけの、ほんのわずかな間でもいいから」
「そんな、瑠佳さまはお綺麗な方です。それは学院の誰もが認めていることですわ」
「あら、新入生のあなたが使うには、少々大き過ぎる主語のように思うけれど?」
「少なくとも新入生の間では、瑠佳さまはみなさんの憧れです。歓迎会で初めてお目にかかった時から、誰もが瑠佳さまをうっとりとご覧になっていましたわ」
「そう? 私も捨てたものではないのね。アリサさんにそこまで言われると、本当にそんな気がしてくるわ」
どこか物憂げな言葉が、アリサを微かに不安がらせた。
「あの、お訊きしにくいのですが、なにかおありになったのではありませんか?」
「なにかって?」
「その、先ほどのお電話……普段の瑠佳さまと、雰囲気が違って見えましたので」
「やっぱり、聞いていたわけね」
溜め息混じりの返答に、アリサは体を強張らせる。
「申し訳ありません、立ち聞きをするつもりではなかったのですが」
「分かっているわ。本当に大したことではないの。あれは祖母からの電話だから」
「お祖母さまですか?」
「ええ。私の成績を気にかけて、時々電話をくれるのよ。大抵はいつも、不機嫌になって電話を切られてしまうけど。機嫌を損ねるくらいなら無理にかけることもないのに、そうもいかない人だから」
「瑠佳さまは学年次席になるほどの成績ですのに、どうしてお祖母さまが不機嫌に?」
「学年次席だからよ。お祖母さまは首席になってほしいの。自分がそうだったように」
「ということは、お祖母さまも純桜の?」
「ええ、OGよ。お祖母さまは卒業まで首席で、当時の篝乃会の会長、アリスさまでもあったわ。私にもその両方の期待をかけているらしくて、でも私は、そのどちらも応えられそうにないのよ」
アリサはすぐに理解した。
瑠佳にかけられた二つの期待。そのどちらにも応えられない原因がなんなのか。
「その、申し訳ありません」
気まずさからそんな言葉を零した時、ふっとブラシの感触が消えた。
「どうしてアリサさんが謝るの?」
「瑠佳さまの気も知らないで、わたくし、お姉さまのことを誇らしげに話してばかりで」
「いいじゃない、本当に誇らしいお姉さまなんだから。セイラさんのような方が姉だったら、私だって自慢げに話したと思うわ。私なんかよりとびきり優れている方だから」
「そんなことは――」
とっさに否定しようとするも、具体的な言葉が続かない。
それでも、瑠佳は微笑みを絶やさなかった。
「ありがとう、アリサさん。その気持ちだけでも嬉しいわ」
「気持ちだけではありません。わたくしは、本当に」
「いいのよ、無理しなくても」
「無理などではありませんわ! 本当に、素晴らしい方だと思っていて」
「そう? ……じゃあ、ハグしても構わないかしら」
「そのようなことくらい、いくらでも――えっ?」
振り返った時にはもう遅く、アリサの華奢な背中は柔らかな温もりに包まれていた。
「ふふっ、湯上がりだから温かいわね。それにとってもいい匂い」
「る、瑠佳さま、急になにを――」
「あら、温かいを通り越して熱くなっていくわ。大丈夫?」
心配の言葉とは裏腹に、瑠佳は少しずつ抱擁を強めてくる。
首筋に当たる吐息がくすぐったく、背中にこれでもかと当たっているふくよかな感触にさえドキドキせずにはいられなかった。
「~~っ、もう離れてくださいませ! こ、こんな、いきなりハグだなんて」
「いくらでもって言ってくれたじゃない。あの言葉は嘘だったの?」
「あ、あれはよく聞かずに言ってしまったからで。というか瑠佳さま、またお戯れですのね? 気を落としたふりをして、わたくしをからかっているのですね?」
「あら、もうバレてしまった?」
調子のいい声と、悪戯っぽい笑みが耳朶を打つ。
アリサはまたかあっと頬を熱くさせた。
「もうっ、このようなお戯ればかり。こんなにからかい好きな方だったなんて」
「幻滅した?」
「上品でお淑やかな方だとは思っていますわ。でも、時折、とっても意地悪です」
「ふふっ、ごめんなさい。誰にだってこうしたいとは思わないのよ? アリサさんは特別なの。今だけは私の妹なんですもの、妹を可愛がりたいと思うのは自然なことじゃないかしら」
「それは……ですが、限度というものが――んっ」
気恥ずかしさに身が竦むと、華奢な体はよりいっそう心地よい瑠佳の懐に沈んでいく。
額は微かに汗ばみ、耳の先まで熱っぽくなっているのが分かった。
「こんなハグくらい、アリサさんは慣れっこでしょう。本当のお姉さまがいるんだから」
「そんな、セイラお姉さまからハグだなんて考えられませんわ! わたくしが小さかった時でしたら……いえ、それさえも定かではありませんし」
「そうなの? 髪を梳かしてもらったことは?」
「記憶にはありませんわ。そもそもここ三年は、お姉さまと離れていましたから」
「姉妹って、こういう触れ合いがよくあるものだと思っていたけれど」
不思議そうに言いつつ、瑠佳はまたやんわりと腕に力を込めていた。
「じゃあセイラさんは、この温もりを知らないのね。滑らかな髪の手触りも、温室のお花のような香りがすることだって」
「あの、瑠佳さま、そろそろ離れていただければと……でないと、わたくし――」
アリサはすっかり頬を上気させ、振り絞るような声で訴えた。
瑠佳はくすくすと笑いながら拘束を解くと、アリサの隣に座り直し、
「大丈夫? 手で扇いであげましょうか?」
「け、結構ですわ。焼け石に水です……それと、お戯れもほどほどにしてくださいませ。わたくし、瑠佳さまのことを本当に案じていましたのに」
「ええ、おかげでとっても気が安らげたわ。家のことなんか忘れられるくらいに」
感謝の言葉も、とびきり楽しそうな笑みと共にあると額面通りには受け取れなかった。
「それだって、わたくしをからかうための演技だったのではないですか? 電話をお切りになった時からそうだったに違いありません」
「あら、鋭い。だけど認めないでおきましょう。また慰めてもらえるかもしれないから」
淑やかな微笑みのままおどけたように言うと、瑠佳は立ち上がって軽く伸びをした。
「そういえば、私はお風呂がまだだわ。なのに抱き着いたりして、ごめんなさいね」
「謝るところはそこではない気がいたしますが……そういえばわたくし、瑠佳さまにお願いがありましたの。すっかり忘れていましたわ」
「あ、もしかして一緒に入りたい? シャワーも浴びていない私にべたべたされたから」
「入りません! 今度こそ本当にのぼせてしまいますわ!」
「今度こそ?」
「いえ、こちらの話ですが……瑠佳さまには、篝乃会がお休みの日を教えていただきたいだけです」
「お休み? そうね、明日はなにもない予定だけど、どうして?」
「セイラお姉さまのお部屋に伺うためです。篝乃会のお仕事がない日の方がよいと思いましたので」
「あら。やっぱりアリサさんは、セイラさんの方が……」
「もうその手には引っかかりませんわ。涙をお拭いになるそぶりもやめてくださいませ。稲羽さんがどうしてもお姉さまとお話しできないと言うので、わたくしが仲介に行って差し上げるだけです」
「そう、アリサさんは友達思いね。それとも、本当はセイラさんに会いたいからかしら」
「いえ、わたくしは本心から、稲羽さんのためにと思って……もちろん、お姉さまとお話しできることも楽しみといいますか、嬉しくないわけではありませんが、目的はあくまで稲羽さんのためで――」
次第にもじもじとして頬を緩めていくアリサ。
まるで片思いを募らせる少女のようで、話がループしていることにさえ自覚がないほど落ち着かない様子だった。
「そんなにセイラさんと一緒がいいなら、アリサさんも篝乃会に入ってみる?」
見兼ねた瑠佳の提案は、アリサには思いがけないものだった。
「わたくしが篝乃会に? ですが、わたくしはまだ一年生ですし、生徒会執行部は選挙によって決められるものでは」
「役員は確かに選挙よ。でも篝乃会では毎年、新入生から庶務のお手伝いをしてくれる方を募集しているの。条件もあって若干名だけど。てっきりアリサさんは知っていると思っていたわ」
「初耳です! ぜひ、詳しいお話を!」
驚きと喜びのあまり、今度はアリサの方から抱き着くような体勢になっていた。
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