17.小公女の評判





 この日の午後、一年A組の体育はマット運動だった。

 四人一組に分かれての練習で、アリサはいつものメンバーでグループを組んでいた。


「ほら菊乃ちゃん、もっと足伸ばさないと倒立じゃないよ」


「ちょ、ヒナ! これ以上は、無理だからっ」


「いけるいける、菊乃ちゃんならもっとやれるよ! 立派な足してるし!」


「さりげに、気にしてること、言うなっ……んっ!」


 マットの上で、菊乃が倒立前転の姿勢に悪戦苦闘している。

 小雛が補助に入っているものの、菊乃はどこかくすぐったそうにも見受けられた。


(菊乃さん、平衡感覚がないのかしら。足はヒナさんの言う通り立派だけど)


 倒立前転についてすでに問題がないアリサは、壁にもたれて一休みしている。

 隣には舞白も座っているが、彼女はまだ成功していない。

 それどころか舞白は、入学してからまともに体育の授業に参加していなかった。

 この日も多くの生徒が夏服で授業に励む中、舞白だけは上下冬服のジャージを着込んでいる。


「ねえ、稲羽さんって今日も見学? どうして?」


「足首があまりよくないんですって。あなたまだ知らなかったの?」


「そうなの? じゃあ運動は得意じゃないのかな」


「あのバイオリンの腕前に、フランス語まで堪能なんですもの。きっと深窓のご令嬢なのね。運動が不得意でもなんだか納得してしまうわ」


 別グループのひそひそ話がアリサの耳にも聞こえてくる。

 今の舞白は、運動をしないことさえ令嬢らしく映るようで、その理由が午前中のフランス語の授業にあることは明白だった。


 宿題の提出に不備があったため、図らずもみんなの前で発表することになった舞白。

 挽回のチャンスにしても荷が勝ち過ぎているかに思われたが、舞白は美しいフランス語を披露して見事に称賛を集めた。授業が終わったあとも舞白の評判で持ち切りで、中には『小公女リトル・プリンセス』の一幕に喩える者もいたほどだ。


「あなたのお噂ばかりね。ねえ、聞こえているのでしょう?」少しだけうんざりした声でアリサが訊ねる。


「う、うん。でも私、お嬢さまなんかじゃ」


「ならそう言えばいいじゃない。みなさん悪気があって言ってるわけじゃないんだから。あなたが少し注意すれば慎むはずよ」


「そんな、私が注意なんて」小さくかぶりを振る舞白。


 予想通りの反応だが、さすがのアリサも焦れったく感じた。


「そんな風だから、いつまで経っても打ち解けられないのよ」


「え?」


「フランス語の宿題、すべてお一人でやったのでしょう? セイラさまに頼ることなく」


「……うん」


 舞白が白状するように頷くと、アリサは短く溜め息をついた。


「わたくしがフランス語の宿題について訊ねた時、あなたは珍しく前向きなことを言ったわ。『大丈夫だと思う』って。それでわたくし、もしかしてと思ったのよ? 少しはセイラさまと仲よくなれているのかもって」


「ううん、全然」


「そうでしょうとも。あなたは元々フランス語ができるから自信があっただけ。セイラさまに頼らずともできたんですもの、当然よね」


 あえて意地悪に言ってみるも、舞白はなにも言い返さずにしょんぼりと俯く。


 アリサは「冗談よ」と、安心させるような声と共に身を寄せた。


「でも、せっかくの機会だったのに、逸したのは痛手だと思うわ。話しかけやすい話題だっただけに。まあわたくしも、お姉さまの方からお気遣いいただいた身だけど」


「清華さんが?」


「ええ。わたくしも一人でやるべきか迷っていた時に、お姉さまから話しかけていただけて凄く安心したの。セイラさまはなにも仰らなかったの?」


「普段通り、だったけど」舞白が更に顔を俯かせる。


 気の毒に思うアリサだが、セイラがなにも言わずに過ごす様は容易に想像できた。


(やっぱり相性がよくないんだわ。どちらも自分から話しかける方じゃないもの。今はわたくしも違う部屋だし、瑠佳さまもいらっしゃるから遠慮しているけれど、もし同じ部屋だったら迷わず声をかけていたはずだわ――ああもう、わたくしと稲羽さんが逆だったらよかったのに!)


 悶々とするアリサだったが、小雛がタブレットを手に近づいてくるのに気づくとすぐに微笑みを取り戻し、


「菊乃さんはどう? 倒立前転、成功したの?」


「うん! ヒナが最後まで支えてあげたから!」


「それは成功と言えるのかしら……」


「菊乃ちゃん的にはばっちりだよ? 凄く可愛い菊乃ちゃんも撮れたし!」


 喜々として言いながら、小雛は抱えていたタブレットで動画を見せてくる。

 菊乃が倒立した状態を保ったのち、力尽きたようにばたりと倒れるまでの様子を映した映像で、そのあとはハーフパンツの裾が引き上がって露わになった太もものアップや、疲れ果てて紅潮した菊乃の顔がどうしてか収録されている。確かに可愛らしい映像かもしれないが、フォーム確認のための動画には蛇足と言うほかない。


 マットに目を向けてみると、菊乃がぐったりと横たわってこちらを見つめていた。立ち上がる気力も湧かないほど疲れた様子なのが伝わってくる。

 ヒナは「菊乃ちゃんファイトぉ!」と能天気な具合に励ましたのち、アリサたちに向き直って腰を下ろした。


「二人でなんのお話してたの? 内緒のお話?」


「いえ、内緒というほどでも。そういえば、ヒナさんのお姉さまはどんな方なの? あまり聞いたことがなかったけれど」


「お姉さま?」小雛はきょとんとした顔になる。


「スリーズのことよ。同室のお姉さま」


「あ、えっと、そっか。お姉さまなんだっけ」


 その誤魔化すような笑みを見て、アリサはもしやと思った。


(ヒナさん、『お姉さま』とは呼んでいないのね。だからピンとこなかったんだわ)


 勘繰りつつも、余計な詮索は控えることにした。

 伝統や慣例も大事だが、スリーズの関係は様々ある。公な場ではともかく、それぞれの仲の深さに合った呼び方があっても不思議ではない――瑠佳がアリサを気遣ったように。


「ヒナのお姉さまはね、ヒナたちとおんなじなんだって。だから『お姉さま呼びは恥ずかしい』って言ってた」


「同じ? どういうこと?」


「なんかね、今年編入したから一年生みたいなもので、でも四年生なんだって」


 たどたどしい説明だったが、アリサが理解するには充分だった。

 純桜は通常、高等部での生徒募集を行っていないため、中等部の入試で合格しなければ入学できない。


 しかしスリーズ制度で生徒数を合わせる都合上、欠員募集という形で転編入試が行われることもある。小雛のスリーズも、この転編入試で純桜生になったと考えられる。


「純桜に編入するのは、一般入試より難しいと聞いたことがあるわ。学科や実技があるのはもちろんだけど、フランス語の基礎も問われるらしいから」


「そうなの? なんかね、一般入試の時はお家が大変で受けられなかったんだって。でもお母さんが通ってた学校だからどうしても入りたくて、それで編入したって言ってた」


「そう、色々と事情があったのね。で、ちゃんと聞いているの稲羽さん? ヒナさんなんてこんな込み入った事情まで聞けるくらい仲よくなっているのよ? 未だに一言も話せていないなんてあなたくらいよ」


 アリサが顔を覗き込もうとすると、舞白は頬を染めてバツが悪そうに目を逸らした。


「さすがに、一言くらいは。あ、挨拶とか」


「言葉の綾よ。そもそも、そんなのが一言のうちに入ると思うなら、あなただってこんなに悩んだりしていないでしょう?」


「う、うん」


 対照的な二人の様子に、小雛は「?」と首を傾げる。


「アリサちゃん、なんのお話? 尋問ごっこ?」


「なによその怖い遊び。違うわ、スリーズのことよ。稲羽さんの」


 舞白が抱えている問題について、アリサが手短に説明する。

 聞き終えた小雛の目は、どこかぼんやりとしたものだった。


「舞白ちゃんのお姉さまって、アリサちゃんの本当のお姉ちゃんなんだよね?」


「そうよ。稲羽さんはご覧の通り、奥手な性格が洋服を着て帽子まで目深に被っているみたいな人だし、セイラさまも自分から声をかけるような方ではないのよ。おまけにフランス語の宿題も一人でできてしまったから、きっかけまで逸して」


「アリサちゃんが行ってあげればいいんじゃないの? 舞白ちゃんのお部屋に」


「そうね、わたくしだったら一言どころか、きっと毎日のようにお話を……え? わたくしが?」


「うん。二人の仲を取り持ってあげるの。そしたら仲よくなりやすいんじゃないかな?」


 純粋無垢な笑顔で提案する小雛。

 アリサは押し黙り、仄かに体が熱くなるのを自覚した。


(わたくしがお姉さまのお部屋に? それは願ってもないことだけど、でも――)


 密かに悶えながら横を見ると、舞白がなにか言いたそうな、縋るような眼差しを向けてきていた。


「ねえ、舞白ちゃんもそれがいいと思うでしょ?」


 小雛が確認すると、舞白はようやく重たい口を開けた。


「もし、清華さんさえ、よかったら……」


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