15.フランス語の宿題





 一週間後。A組は一時間目に、二度目のフランス語の授業を迎える。


 授業前の教室は相変わらず賑やかだった。そのわけはもちろん宿題にあったが、宿題の出来不出来よりもスリーズのお姉さまについて盛り上がっている生徒が多かった。学院内で指折りの有名人とスリーズのアリサは特に興味を持たれ、また当然のように遊びに来ていた悠芭からも根掘り葉掘り質問された。


 アリサはそのすべてをやんわりと受け流し、瑠佳との特別な一幕についてはなにも語らなかった。二人だけの美しい秘密として心の中に留めておきたかった。

 アリサから聞き出すのが難しいと知ると、悠芭や周囲の興味は舞白に向いた。


 セイラとの寄宿舎生活を知りたがる者は当然ながら枚挙に暇がなく、アリサ自身も密かに耳を傾けていたが、舞白は相変わらず頬を染めて俯くばかりだった。

 それはそれで、結果的に周囲の想像を駆り立てたものの、アリサからすればもどかしい思いを抱かずにはいられない。


(この恥じらいようはどちらなの? 普段通りにも見えるけど、わたくしと瑠佳さまのようなことがあって照れているとも……いえ、もしそうならわたくしに話してくれると約束したわ。でも稲羽さんも、お姉さまと二人だけの秘密ができたとか。先週は珍しく前向きな様子だったし、本当にお姉さまとなにか――)


 単刀直入に訊けばいいものの、あれこれ考えるばかりで躊躇してしまう。

 瑠佳の言う通り、いかに自分がセイラを好きで、だからこそ過剰に気にしてしまっているのかを改めて自覚した。


「みなさん、そろそろ先生がお見えになるわ。授業の準備はできているの?」


 結局、口を突いて出たのはそんな注意で、少しだけ苛立った声になった。

 集まっていた生徒たちが大人しく席へ帰っていくと、舞白は俯いたままアリサに視線を向け、


「ありがとう、清華さん」


 そうか細い声で言ってきたが、アリサは聞こえないふりをした。

 授業は早速宿題の話から始まり、教師は机の上でタブレットPCを開いた。


「提出してもらった宿題ですが、みなさんよくできていたと思います。上級生を頼った方が多いと思いますが、今度はみなさん自身が頼られる四年生になれるよう、しっかり勉強していきましょう……ただ、お一人だけ気になったのですが、稲羽さん?」


「は、はいっ」


 名前を呼ばれた舞白が身を震わせながら立ち上がる。なぜ呼ばれたのか分からず戸惑っている様子だった。


「提出してくれたファイルね、あなたの覗き込む顔が映っているだけだったの。あれはどういうことなの?」


「え……あっ」


 指摘を受けると、舞白は青ざめた顔になった。


「す、すみません。たぶん、間違えて……最初に、撮ったのを」


 要領を得ない弁明。教室が微かにざわつく。

 ほとんどの生徒はどういう間違いなのか想像がついていないようだったが、タブレットの扱いに長けているアリサはなんとなく推測できた。


 今回の宿題は、オンラインクラスにある提出フォルダにファイルをアップロードすることで提出完了となる。

 ドキュメントにタッチペンで書いた形式のほか、紙のノートに書いたものをタブレットのカメラで撮影し、その画像ファイルを提出することも認められていた。


 タッチペンでは細かい文字が書きづらく、まだ不慣れなフランス語ということもあり、画像で提出している生徒が圧倒的に多いことは想像にかたくない。

 純桜のタブレットPCはキーボードと一体型で、カメラが画面上部とキーボード左下隅の二箇所に埋め込まれている。


 これはタブレットモードなどの用途で切り替え可能だが、察するに舞白は、最初にノートを撮影しようとした際、カメラの切り替えを誤った状態でシャッターボタンをタップしたと考えられる。外向きのカメラをノートに向けていたはずが、実際には内向きのカメラが作動していたため、自分の顔の方が撮れてしまったわけだ。

 しかし舞白も自らの失敗に気づき、きちんとノートを撮影した画像も用意した。それを提出したつもりだったが、実際に先生へ送られたのは失敗した画像の方だった。


 タブレットPCのフォルダがサムネイル表示になっていれば、ファイル選択の際に間違える可能性は低い。

 しかしデフォルトではファイル名の一覧表示のため、一見すると同じようなファイルに見えてしまう。順番や更新日時などで判別もできるが、もし押し間違えての選択ミスであれば気づかないままも充分にありえる。


 いずれにしても舞白の不手際には変わりなく、初歩的な撮影ミス一つ取っても、彼女がタブレットの扱いに不慣れなことは明らかだった。


「じゃあ、宿題そのものはやっているのね?」教師が慰めるような声で確認する。


「はい、ノートには、書いて……」


「そう。タブレットはあまり得意じゃない? 小学校で使っていたものと勝手が違う?」


「あの、よく分からなくて。そんなに使ってなかったので」


「タブレットのことは、上級生には訊ねなかったの? 宿題を教わる時に」


「それは……宿題は、一人でやって」


 教室がまた俄かにざわめく中、アリサは一人呆れたような溜め息をついた。


(お姉さまに教えを乞うことができなかったんだわ。なら先週の前向きな言葉はなんだったのよ! 強がるなんて稲羽さんらしくないわ)


 言いたいことは山ほどあったが、ぐっと心の中で留める。


 おろおろと視線を泳がせる舞白は、アリサと一瞬だけ目が合うと、バツが悪そうにしゅんと俯いていた。


「それなら一応、ノートを見せてもらえるかしら。期限は過ぎてしまっているから、みんなと同じ点数というわけにはいかないけれど」


 そう促され、舞白はまだ真新しいフランス語のノートを教壇まで持っていく。

 教師はその場で確認すると、ノートを開いたまま舞白の手に持たせ、


「稲羽さん、もしよかったらこれ、今この場で発表してもらえないかしら」


「え……?」


「遅れた分を取り返すチャンスということで。どう?」


 またとない提案だが、決して低いハードルではない。

 アリサは念のため読み方まで教わったが、一人で宿題をやったという舞白がそこまで余裕があったかどうか……。


 しかし意外にも、舞白は小さく頷き、おもむろに教壇の前に立った。

 教室にいる誰もが心配そうに見つめたが、結果的には全員が目を丸くすることになった――舞白の口から紡がれた、


 新入生の多くは、まだ生きたフランス語をほとんど聞いたことがない。実際、舞白が発している言葉の意味は誰も理解できていないだろう。

 それでも、はっきりと分かった――なんの飾り気もなしに話される舞白のフランス語、そこにあるアクセントがどれほど綺麗で、適切なものかを。


 小さな鈴の音のような声音ながら、教室の誰もがぽかんとした顔で聞き入っていた。


「ありがとう稲羽さん。素晴らしい発音だったわ」


 読み終えた舞白を、教師が満面の笑みで労う。


「みなさんは、稲羽さんがなんと言ったのか分からなかったと思いますが、お仕事の都合でフランス語が堪能なお母さんから教わっていた、という自己紹介でした。私もこの文章を見て、稲羽さんが話せる人だとすぐに分かったのです」


 教師がそう説明して拍手すると、生徒たちも同じように手を叩いた。

 代表演奏を思い起こさせる拍手の中、アリサは複雑な気持ちで舞白を見つめていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る