14.砂糖が溶けていくように
夜の自由時間は自習が奨励されており、生徒によっては夢見荘内にある黙学室や共同勉強室を利用している。
アリサは他人に努力する姿を見せたくない心理もあり、勉強は部屋の中だけで黙々と行うことが多い。この日は入浴を済ませたのち、机に向かって自習と
後ろの机では瑠佳も勉強に励んでいる。机に向かう間は互いに干渉しないことが、この部屋での暗黙のルールになりつつあった。
しかし珍しいことに、瑠佳は一息つくように伸びをしてから立ち上がり、
「コーヒーでも入れようかしら。アリサさんもどう?」と声をかけてきた。
「あ、コーヒーでしたらわたくしが」
「いいのよ、私は一段落したから。アリサさんはまだお勉強の途中でしょう?」
「いえ、今は勉強ではなく、『手紙』を書いていただけですので」
「手紙? 誰に宛てて?」
「将来の自分に宛ててです」
「……なんだか哲学的ね」瑠佳は頬に手を当てて不思議がる。
「それほど大それたものではありませんわ。その日にあった出来事をノートに書き留めているだけで、言わばただの日記ですけれど、それをただ手紙と呼んでいるだけです。変でしょうか?」
「いいえ、素敵な呼び方だと思うわ。確かに日記を読むのは、きっと将来の自分だけですものね。だから過去の自分からの手紙になる。そういうことでしょう?」
アリサは満面の笑みで頷く。
今の説明だけでここまで意味を読み取った者は、小学校時代の友人にはいなかった。
コーヒーは結局、二人で一緒に準備をした。そもそもアリサはドリップコーヒーを入れた経験がなく、電気ケトルの使い方さえ手解きを受ける必要があった。
「すみません、結局お姉さまのお手を煩わせてしまって」
「いいのよ。私だって、純桜に入学するまでこの手のものは触れたこともなかったから。だけど夢見荘では、もし部屋に学友やお客さまを招いたら、その部屋のスリーズがお茶の準備を行わなければいけないから。先輩後輩は関係なくね」
アリサは「分かりました」と相槌を打ちつつ、頭の中では別のことを考えていた。
(もしわたくしがお姉さまのお部屋に伺ったら、お姉さまがお茶を入れてくださるのかしら。いえ、スリーズということなら、稲羽さんも一緒なのよね)
「アリサさん、角砂糖はいくつ入れる?」
「え、お砂糖ですか?」
「ええ。大丈夫? なにか考え事?」
「いえ、なんでも――わぁ、このお砂糖、変わっていますね。色々な形や色があって」
動揺を悟られまいと、アリサは大袈裟な具合に感心してみせる。
実際、テーブルに用意されている硝子瓶にはカラフルな角砂糖がころころと収められ、形状も精巧なキューブ型ではなく丸みを帯びたものが多かった。
「夢見荘にあるコンディメントは家庭科クラブが選んでいてね、いくつかは手作りなの。私はいつもブラックだけど、アリサさんはお好みでどうぞ」
「ありがとうございます。それでは、わたくしも一つだけ」
せっかくなので、というニュアンスを醸したものの、アリサはまだコーヒーをブラックで飲んだことはない。角砂糖も普段なら二つは入れるが、瑠佳から子供っぽいと思われないよう小さな見栄を張ってしまった。
幸いだったのは手作りの角砂糖が一般的なものよりも大きめだったことで、一つだけでもアリサが飲めるほど甘くなってくれていた。おかげで渋い顔をせずに済んだが、無糖のまま美味しそうにカップを傾ける瑠佳を前にすると、いかに自分がまだ子供か思い知らされているようにも感じた。
共に一息ついた頃、瑠佳はカップを机の上に置き、
「だけど残念。アリサさんは勉強ではなかったのね」
「残念?」
「いえ、フランス語の宿題がね。そろそろじゃないかと思ったんだけど」
それを聞いて、瑠佳が自分を思いやって話しかけてくれたのだと理解した。
「ちょうど今日、初めての授業があったところでした」
「あら、じゃあ宿題も?」
「はい。お姉さまに相談するべきか悩んでいましたが、お姉さまの方からお声がけしていただけるとは思いませんでしたわ」
「フランス語の初めての宿題は、純桜の伝統みたいなものなの。だからどこの部屋も上級生が気にかけていると思うわ。仲よくなるにも打ってつけだし、下級生の方からは頼りづらいと感じるのも理解できるから」
やはりどこのスリーズも、この宿題を機に親睦を深めるものらしい。
上級生の方から気にかけてというのも素晴らしい伝統だと思ったが、アリサは微かな胸騒ぎも感じていた。
「……セイラさまも、ご自分からお声がけされるでしょうか」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。
「セイラさん? どうして彼女のことが気になるの?」
「い、いえ。気になるというほどではなくて」
自分でもわけが分からず言いあぐねていると、瑠佳はどこか大仰な具合に膝から崩れ、そのまま自分のベッドにへたり込んだ。
それから涙ぐむように目元に手を当て、
「やっぱりアリサさんは、セイラさんがお姉さまの方がよかったのね」
「お、お姉さま? 急になにを」
「そう、そうよね。そうに決まっているわ。だって実のお姉さまですもの。所詮私は仮初めの姉で、本当のお姉さまに勝ることなんてできないのよ。現にアリサさんは、セイラさんのことばかり気にして」
「ご、誤解ですお姉さま! そういうことではありませんわ!」
アリサは慌てて膝を着き、瑠佳の足元に縋る。
「ほんの少し、気がかりなことがあっただけで。決して、お姉さまを傷つけるつもりではなくて、お気に障ったのならこんなことはもう二度と……」
「二度と?」瑠佳が両手で顔を覆ったまま問いかける。
「その、二度と、セイラさまのことを口には――」
言いかけて、アリサはようやく気がついた。
表情を隠している瑠佳の口元から、「くすくす」と笑みが零れていることを。
「あの、お姉さま……?」
「ごめんなさい、少しやり過ぎたかしら」
手をどけて露わになった瑠佳の顔には、嬉しそうな微笑みが浮かんでいた。
アリサはカッと顔を赤くし、
「まさかお姉さま、お戯れになって……」
「アリサさんがあんまり真剣だったから。少し意地悪だったわね」
「ひ、酷いですわ! わたくし、なんと言えばいいのかと、本気で考えましたのに!」
「その結果、『セイラさんのことは二度と口にしない』なのね? ふふっ、健気なのね、アリサさんって。だけど守れない約束はするものじゃないわよ?」
「~~っ! もうっ、知りませんわ!」
アリサはぷいと顔を背けた。耳の先までひりひりと焼けるように熱くなっている。
瑠佳は膝元にあるアリサの頭を優しく撫で、
「本当にごめんなさい。戯れが過ぎたわ。私って演技が得意なのかしら」
「ええ、大得意だと思いますわ。少なくとも、わたくしを出し抜けるくらいには」
「そうみたいね。でも私、アリサさんがちゃんと怒ってくれたこと、嬉しかったわ」
「嬉しかった?」
「怒りの中には、その人の本心があるから。私はアリサさんの本心が見たかったの」
その言葉で、アリサは思わず顔を上げる。
瑠佳は柔和に微笑んだまま、アリサのローズブラウンの髪を撫で続けていた。
「アリサさんから見れば、私は三つも学年が離れた上級生で、リスペクトするのは当然だと思うわ。だけど尊敬のあまり気を遣い過ぎて、いざという時に頼ったり、本音が言えなかったりするのは、とても悲しいことだと思うの。純桜の『
髪を撫でるのをやめた瑠佳は、アリサを自分の隣に座らせた。
「今、私を怒ったみたいに、いつでも本音を言ってくれていいのよ。本音も言い合えない姉妹なんて寂しいもの。アリサさんもそう思わない?」
「寂しい、ですか」アリサは小さく俯く。
頷きと呼ぶには曖昧な具合で、しかし否定したいわけでもなかった。
(瑠佳お姉さまの考え方は美しいわ。わたくしだってそう思いたい、けど――)
なにを逡巡することがあるのか、アリサ自身も判然としない。
本音を言おうにも、自分自身がなにを言いたいのか分からないでいた。
「……わたくしがセイラさまのことを言ったのは、きっと心配だったからですわ」
「心配? なにが?」
「それはその、セイラさまとスリーズの……そう、稲羽さんのことが心配で。あの子はとても恥ずかしがり屋で、セイラさまとも上手く話せていないようなので」
本音か分からない言葉が、少しずつ溢れ出した。
「わたくしが知るお姉さま……いえ、セイラさまも……稲羽さんと同じで、自分から話しかけるような方ではないので。それが少し心配で」
「そういうことだったの。確かにセイラさんは物静かだし、自分からフレンドリーにという姿を想像するのは難しいわね」
「そうですの! 家にいた時も、わたくしが話しかければ答えてくれましたし、遊んでくれたこともあります。勉強やピアノを教わったこともありますわ。でも、どちらかと言えば一人でいるのを好まれる方なので」
「妹のアリサさんに対してもそういう感じなの? セイラさんらしい気もするけど、その稲羽さんって子がそんなに恥ずかしがり屋さんなら、相性はよくないかもしれないわね」
納得した瑠佳だったが、ふとなにかに気づき、
「でも稲羽さんって、代表演奏をした子よね。恥ずかしがり屋さんなの?」
「ええ、それはもうとびきりの。大抵いつも、顔を俯かせてはにかんでいますわ」
「堂々と演奏していたから全然そんな風に思わなかったわ。あの演奏は確か、セイラさんも褒めていたけど」
「お姉さまが? 褒めて?」
「え? ええ、セイラさんがね。もちろんアリサさんの挨拶も褒めていたわ。堂々としていて、相変わらず文章が上手だって」
「――っ!」
アリサは自然と頬を緩めた。破顔せずにはいられなかった。
なにより嬉しいのは――文章を褒められたこと。
アリサは幼い頃から国語が一番好きで、取り分け作文には自信を持っていた。
セイラもそれを理解して褒めてくれていることが、嬉しかった。
(お姉さまはちゃんと、わたくしを見てくださっていた。ずっと離れていても、わたくしが得意なことを、覚えていてくださった……)
温かな気持ちが胸の中に募っていく。
先ほどまで感じていた不安などすべて溶かしてしまうほどで、アリサは久しぶりに満たされた思いになった。
「その様子だと、やっぱり無理な約束だったみたいね。二度と口にしないなんて」
瑠佳のからかうような声で、アリサはまた面映ゆさを感じた。
「それは、お姉さまがおかしなことを仰るからで」
「照れることないのよ? セイラさんのことが本当に好きなんだって、とてもよく分かったから。だからね、アリサさん。私の前では、私を『お姉さま』と呼ばなくてもいいことにしようと思うんだけど」
「それは、どういう……?」
「私も、あなたのよき姉になりたいと思っているわ。だけどアリサさんにとってのお姉さまは、やっぱりセイラさんなのよ。ずっとそんな風に、理想のお姉さまとして、セイラさんを慕ってきたんでしょう?」
アリサは押し黙り、優しさで満ちた瑠佳の言葉に聞き入った。
「みなさんの前ではスリーズとしての体裁もあるから、これまで通りで呼んでもらいたいけど。私の前では、セイラさんをお姉さまと呼んでも構わないわ。その方が、アリサさんが自然体でいられるのなら」
「それは、ですが……」
「気を遣わないで。私だって妹を持つのは初めてなのよ? ううん、四年生は誰だってそうなの。みんな、よき姉になろうと努力している。卒業されたお姉さま方をお手本にしながら、次は自分たちが手本になれますようにって。それが純桜の伝統なの」
瑠佳はベッドから降り、少し屈んでアリサと目を合わせた。
「私はアリサさんから、本心からお姉さまと呼んでもらえるような、よき姉になりたいと思うわ。私がかつてのお姉さまを、心の底から慕っていたように」
その眼差しはどこまでも穏やかで、マリア像の瞳を連想させる。
聖母のような微笑みというと却って軽々な表現に思えたが、この瞬間だけは、瑠佳の優しさにマリアさまの慈愛に満ちた微笑みを重ねずにはいられなかった。
「お心遣い、感謝いたします……その、
迷った末、アリサはお姉さまとは呼ばないまま微笑みを返した。
「宿題のことでお願いがあるのですが、教えていただけないでしょうか?」
「ええ、もちろん。早速始めましょうか」
「あ、それと……お砂糖、もう一ついただいてもよろしいでしょうか? 本当はわたくし、いつも二つは入れていますので」
照れを忍んで打ち明けるアリサ。瑠佳は一瞬ぽかんとしていたが、やがて小さく噴き出すように破顔する。
砂糖を追加したコーヒーは普段よりも少しだけ甘く、最後まで優しい味で満ちていた。
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