2.ふたりの新入生代表
新入生代表は、二人いる。
アリサもよく知っていたが、姉との再会に浮かれていたせいか頭から抜け落ちていた。
純桜の入試は一般的な学科試験とは別に実技試験もあり、自身が最も得意とする楽器の演奏を見せなければならない。
ほとんどの受験生はピアノで臨み、アリサもそうだった。
バイオリンも姉からの影響で習っていた経験はあるが、自分には姉ほどの才覚がないと分かる程度までで辞めてしまっていた。
「バイオリンで代表なんて凄いのね。子供の時からやっていたの?」
入学式前、二人は広々とした会議室で担当教諭からの案内を待っていた。
その間に舞白との交流を試みるアリサだったが、返ってくる声はどうも弱々しい。
「えっと、そんなに長くじゃ、ないですけど」
「そうなの? わたくしのお姉さまもバイオリンで受験して新入生代表だったのよ。今は四年生、つまり後期課程の一年に在籍されているの」
「そう、なんですか」
「お姉さまはね、本当に凄いの。バイオリンは上手だし、学業だって今は学年首席なの。まだ四年生なのに、生徒会では副会長もしていて……今日の入学式でも、会長に代わって在校生代表の挨拶をするの。そのあとにわたくしが新入生代表挨拶なんて、本当に光栄! 思いがけず夢が叶った気分よ」
「そうなんですね……」
目を輝かせて話すアリサに対し、舞白の瞳は終始おどおどとしているように見える。
(てっきりもっと自信家なのかと思ったけど、拍子抜けしたわ。こんなに恥ずかしがり屋な子とお姉さまを見間違えただなんて、わたくしもきっと浮かれていたのね)
ふと舞白を見ると、こちらの顔色を窺うような視線をちらちらと向けてきている。
「なに? わたくしの顔になにかついていて?」
「い、いえ。そういうわけじゃないですけど」
「おかしいところがあるなら正直に言ってちょうだい。これから大事な式典なんだから、不格好なところがあるのならちゃんと直しておきたいもの」
「不格好なんて、とんでもないです。むしろ、綺麗な髪だと思って、見ていただけで」
思いがけない賛辞、けれど色白の頬が赤く染まったのを期にぱたりと止む。
アリサは『もっと言ってくれてもよかったのに』と惜しく思ったが、それでも、この出会って間もない同級生の言葉に初めて好感を持った。
「ありがとう。髪は母譲りなの。父は
また姉の話ばかりになりかけて、ハッと自分を律する。
もうすぐ姉に会えると思うと、つい気が逸ってしまう。そうでなくてもアリサはよく姉の話をしたがるため、聞き手を
「稲羽さんだって、綺麗な黒髪じゃない。長くて艶があって、素敵だと思うわ」
「そんな……私は違います。綺麗なんかじゃ」
「あまり謙遜しないでちょうだい。わたくし、稲羽さんが素敵な黒髪を靡かせていたせいで、お姉さまと見間違えてしまったんだから。多少は誇らしげにしてくれないとわたくしが恥を掻くばかりになるでしょう?」
「いえ、本当にそんなんじゃ……」
「慎ましいのも結構だけど、もう少し自信を持ってもいいじゃない。それに口の利き方だって、そんなに畏まらなくていいのよ? 同じ一年生なんだし、お友達に丁寧語ばかりでは却って親しみがないわ」
「お友達――私、清華さんとお友達になって、いいんですか?」
「もちろんよ。あなたがそのよそよそしい丁寧口調をやめてくれるのならね」
やや小粋な言葉によって、舞白の頬は今度こそ綻ぶ。
相変わらず控えめな笑みだったが、そこには確かな喜びが滲んでいた。
(なんだか不思議ね。大人っぽいから、微笑んだら淑女のように見えるはずなのに。むしろ子供っぽく感じられるなんて)
アリサが小さな疑問を抱いていると、舞白はぼんやりとした笑みから一転、また顔色を窺うような眼差しになって、
「あの、私からもお願いがあって」
「お願い?」
「もし、本当にお友達になってくれるなら、一緒に……――」
ためらいがちな声は、迎えにきた教師の声によって遮られる。二人は会議室をあとにし、ほかの新入生たちと合流する必要があった。
純桜の入学式は、敷地内にある聖堂で執り行われる。
整然と並ぶ木の長椅子。正面には荘厳な十字架と、聖者を模した幻想的なステンドグラスの光が淡く差し込む。ミッションスクールらしい雰囲気に満ちた厳かな空間だった。
入学式が始まると、新入生代表のアリサと舞白は最前列の長椅子に座った。
多くの新入生にはまだ馴染みのない聖堂も、アリサにとっては思い出深い場所だった。
(この神聖な空気、懐かしいわ。あの時はお父さまたちと一緒に二階席だったけど、今日はステンドグラスの光も近いから、より神秘的に見えるわ)
学院長が挨拶をする中、アリサは緊張しないようにと美しい思い出に浸っていた。
(あの時のお姉さまの代表演奏は今でも耳に残っているわ。この広い聖堂にバイオリンの音が余さず響き渡って、みんなうっとりしていて。もちろんわたくしも……)
緩みかけた口元を引き締めつつ、隣に座る今年の代表演奏者を密かに気にかける。
(それにしても稲羽さん、大丈夫なのかしら。わたくしと目も合わせられないほど恥ずかしがり屋なのに、これほど大勢の前で演奏だなんて)
深く俯いている舞白は、不安そうな目つきで手元を見つめている。これから舞台に立つとは思えない顔つきだった。
しばらくは心配していたアリサも、間もなくそれどころではなくなった。
在校生代表による歓迎挨拶に差しかかり、司会者が『清華
アリサはすぐに視線を戻し、壇上に上がった麗しい上級生の姿に目を輝かせた。
『庭園の花々にも麗らかな陽の光が降り注ぎ、春の祝福を授かる景色となりました。新入生のみなさま、ご入学おめでとうございます――……』
堂内に心地よく木霊するセイラの声。
アリサは自然と、胸の前で拝むように両手を組んでいた。
(お姉さま……口数の少ないお姉さまがこんなにも長くお話しされるところなんて、滅多に見られるものじゃないわ。いいえ、きっとこの学院にいれば珍しくないことになるのでしょうけど、だけど今だけは、誰になにを言われたって感動する以外にないわ! ようやくお姉さまと同じ時間を過ごせるんですもの)
壇上のセイラはステンドグラスから差し込む淡い光を羽織らせて気高く映え、アリサの中で一等星のように輝き続けている理想をより尊いものにさせた。
何色も入り混じることのない長く黒い髪、端正な顔立ちと切れ長の瞳。すらりとした長身や凜とした気配には、精悍な父親の面影を強く感じさせる。
常に表情を崩すことのない涼やかな面持ちも、感情豊かな母親から譲り受けたものではないことをアリサだけは知っていた。
清流のような淀みのない挨拶が終わると、万雷の拍手が湧いた。
やがて静寂に返る中、遂に『清華有咲』と名前が呼ばれる。アリサは「はい」と品よく立ちながらも、俄かに起こったざわめきに胸騒ぎを覚えた。
(このざわつきよう、当然かしら。だって『清華』なんて苗字、そうはないんですもの)
堂内にいる誰もが気づいたに違いない。
たった今、称賛の拍手を集めた在校生代表とアリサが、実の姉妹であることを――。
途端に体が強張る。口の中が砂漠のように渇いていく。
極めつけは、演台の傍らで迎えてくれたセイラの前に立った時。
セレブレーションの一環として、純桜生の
「おめでとう、アリサ」
そうマイクに乗らないほどの声で祝福されると、アリサはもういたたまれなかった。首にかけられたのはロザリオではなく重圧ではないかと錯覚した。
会釈を返すのも忘れて演台の前まで歩く。挨拶文を取り出す手は小刻みに震えていた。
『春の、柔らかな息吹に背を押されながら、わたくしたちは今日、純桜福音女学院中等教育学校の、門をくぐりました――……』
張りのない細い声が響く。自分の声とは思えないほど遠く感じられた。
姉の完璧さとはほど遠い余裕のなさが情けなくなり、挨拶文を見つめる目が徐々に熱い雫を溜めていく。
零さないようにと顔を上げれば、堂内のそこここから注がれる視線が身を貫き、脆弱に揺れる声がますます震える気がした。
けれどもう一度挨拶文に目を落とした時、胸元で銀無垢に光る十字架にハッとなった。
(お姉さま……そうよ、お姉さまが見ているのよ。しっかりしなさいアリサ!)
心の中で自分を鼓舞する。氷塊がつかえていたような喉は次第に通るようになった。
どうにか挨拶を終えた頃、聖堂はまた拍手の音に包まれた。
(お姉さまの挨拶には遠く及ばないけれど、なんとかやり遂げることができたわ。最後まで噛むこともなかったし……)
無事に自分の席まで戻り、ホッと胸を撫で下ろす。
同じ頃、もう一人の新入生代表の名前が呼ばれた。舞白の返事はやはりピアニシモで、隣にいたアリサでさえ聞き取るのが困難なほどにか細い。
(稲羽さん、本当に大丈夫なのかしら。わたくしでさえあんなに緊張したのに)
セイラからロザリオを賜る際の舞白の表情には余裕が感じられず、終始気恥ずかしそうに俯いているようにも見えた。
舞白は会衆席に向き直り、ぎこちない所作でお辞儀をした。あらかじめ壇上に準備されていたバイオリンを手に取り、軽く音を出して調弦を始める。
曲目は司会者から『アメイジング・グレイス』と紹介があった。元はプロテスタントの賛美歌だが現在はカトリックでも聖歌として親しまれており、バイオリン曲の中でも弾きやすいことから人気がある。アリサも習っていた頃に何度か弾いた覚えのある曲だった。
けれど裏を返せば、難易度の高くない選曲とも言える。
それで代表になるとはどういうわけか――そんな疑問は冒頭の一小節、あるいは初めの一音を耳にしただけで頭から消えた。
――ゆったりとした拍子の心地よい中音が響き、うっとりとした空気が生まれる。
柔らかな快さに自然と目蓋が下り、耳を澄まさずにはいられなくなった。
アリサも、聴衆の多くも、壇上で優雅に弓を引く舞白の姿に粛然と熱中した。
低く落ち着いた音色が聞き慣れたフレーズを終えると、音色は拍手を待たずに五線譜を駆け上がる。左手の繊細な指先が一つの淀みもなくサードポジションを跨ぎ、オクターブの上がったE線のCが長く高々と響き渡る。
緩やかだったビブラートも小刻みになって空気を震わせ、アリサの心をも震わせた。
(凄い……美しくて、力強くて、どこまでも伸びやかな音、まるで――……)
久しい戦慄に全身が粟立つ。
ふと見上げてみた壇上の舞白は、これまでとはまるで別人だった。微笑むように細めた淡赤の瞳をバイオリンに傾け、優美な旋律を紡ぐことに夢中になっているように見えた。
――演奏が終わり、美しい音色の余韻が漂う中、舞白が慌てたようにお辞儀をする。
割れんばかりの拍手が堂内を満たすさなか、アリサだけは胸の前で両手を組み、息を切らした子供のように両の頬を上気させていた。
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