Epistle I — Down the Garden-Path

1.念願の寄宿学校





 背の高い杉林が森々と広がる山道の半ば。

 アーチ状の瀟洒しょうしゃな正門をくぐり抜けると、深緑ふかみどりだった景色は薄紅うすべにに華やいだ。

 ――緩やかな長い坂道に、春爛漫の桜並木。

 車窓に遮られたまま見上げるばかりなんて、あまりに風情がない。


「ここでいいわ」


 堪らず、アリサは車を止めるよう使用人の熾乃おきのに命じた。

 車体は緩やかに停車し、まだ若々しい艶が目立つ一つ結びの黒髪を揺らしながら熾乃が振り返る。


「しかしお嬢さま、この坂はまだまだ続きます」


「知っているわ。冬にも受験で来たもの。でも今日は雪も降っていないし、それに、桜がこんなに綺麗だから」


「ロータリーまで無事にお送りいたしましたと、報告する義務がございます」


「その通り報告してちょうだい。本当のことは、二人きりの秘密」


 アリサは車を降りた。融通を利かせるのが苦手な熾乃は不安そうだったが、奔放盛りなお嬢さまの微笑みには敵わないようだった。

 遠ざかっていく黒塗りのセダンを見送ったのち、アリサは踵を返して坂道を見上げた。

 麗らかな春の息吹が心地よく吹き抜けていく。柔らかに薫る桜花の匂いで小さな胸を満たし、澄み切った朝の空に瞳を輝かせた。


(清々しい気持ち。まるであの門を境に、違う世界へ入り込んだみたい!)


 足取りは自然と浮き足立ち、二つ結びにしたローズブラウンの髪もはらりと弾む。

 ジャンパースカートの裾が舞い上がるほどに大きくターンしながら進む歩様は、衆目がある時なら『はしたないわ!』と慎んだかもしれない。

 それでもこの時ばかりは、小さなバレリーナでありたいと願った。


(だって、この坂をのぼって登校するなんて、滅多にあることじゃないんですもの)


 今日から通う純桜じゅんおう福音ふくいん女学院は、ヨーロッパの寄宿学校ボーディングスクールの流れを汲む全寮制の中高一貫校のため、毎日のように正門を通って登校するわけではない。

 だからこそアリサは車を降り、念願の学び舎へと続くこの華やかな通学路を自らの足で踏み締めたいと思った。


 再び吹きつけた一陣の風が、小枝の隙間を縫ってぱらぱらと花の雨を降らせる。

 華奢な身を包むサファイアブルーのボレロに春の色味がちりばめられ、深い藍色のベレー帽にも数多の花びらが積もっていく。

 そうしたことも気にかけないくらい見入っていたせいか、アリサは坂を下りてきていた女性の気配に気づけなかった。


「ふふ、随分と楽しそうなのね」


 微かにしわがれた女性の声。アリサはドキッとして振り返る。

 声の主は修道服に身を包み、モノトーンの大きな日傘を差した年配のシスターだった。

 皺の深い微笑みには、確かな気品と慈しみが感じられる。

 同時に、これから通う学院が、正真正銘のミッションスクールであることをまざまざと実感させられた。


「ごめんなさい、驚かせてしまったかしら。朝方にこの坂で生徒さんを見かけるなんて、滅多にないことだから」


 アリサは露わにさせていた動揺をすぐに取り繕い、品のある声音と笑みを心がける。


「こちらこそ、過度に驚いてしまいました。桜の木に夢中になっていましたので」


「もしかして、今日から通う生徒さんかしら」


「はい、新入生です。シスターは、学校にお勤めの方ではないのですか?」


「私は学院の中の修道院を時々訪ねているの。そういえば、今日は入学式なのね。入学、おめでとう」


「ありがとうございます、シスター」


「でも不思議ね。今はバスが出ているから、この坂をのぼることはないと聞いたけれど」


 その疑問に答えるには、アリサにとって誇らしい事実を明かす必要があった。


「ほかの新入生はもう少し遅い時間にバスで来ますが、わたくしは代表挨拶などの打ち合わせで早く来る必要がありましたの」


 今度はシスターが、「まあ」と口を開けて驚く番だった。


「それじゃあ、あなたが今年の……どうりで、利発そうなお嬢さんだと思ったわ」


 予想通りの称賛で、アリサ自身が常に欲している言葉だった。

 しかし与えられたからと言って、無邪気に喜ぶような子供ではいけない。


「お褒めに預かり、恐縮ですわ」


 自身の感情を律し、淑女のような微笑に留めた。


「私にとっても光栄なことよ。もしかしたらあなたは、将来のアリスさまかもしれないから。いいえ、そうでなくとも、あなたに会えたことを幸運に思うわ」


 思いがけない言葉に、アリサは制御できていたはずの微笑みを危うく崩しかけた。


(アリスさまだなんて。でもいつか、わたくしもお姉さまのように――)


 心の中に年相応の、あどけない嬉しさが募った。


「あまり長く引き留めては悪いわね。上手くいくことを願っています。どうか主の祝福があらんことを」


 シスターと別れた頃、坂道の上から甲高い鐘の音が微かに聞こえた。学院本館のタワーベルから響き渡る音で、始業前の祈祷が行われる時刻、八時三十分を知らせる鐘だった。


(大変、九時までに来るようにと言われていたのに!)


 アリサは慌てて坂道を駆け上がり始めた。

 右手で鞣革なめしがわのスクールリュックの肩紐を握り、左手は風で飛ばないようにとベレー帽を押さえているせいか、普段よりも推進力に乏しい気がした。まだ一つの皺もない制服も少し硬い着心地で、艶に満ちたローファーも走りやすいとは言えなかった。


 これまでの趣深い風情を蹴飛ばすように駆け、だらだらと長かった坂道をのぼり切る。乱れていた呼吸を急いで整え、優雅な足取りを取り戻してロータリーに踏み入った。

 正面ファサードの天辺にタワーベルを構える教会堂風の本館がもう目前に見えている。天井の高いゴシック式の造りだがカトリックでは珍しい質素な佇まいで、石造りの灰壁に赤いフランス瓦が印象的だった。

 まっすぐ校舎へ向かうつもりだったが、ふと視界の端に人影を捉えて足を止める。

 庭園に続く小道へと入っていく生徒の後ろ姿で、すらりとした長身や背中まで届く美しい黒髪を目にし、思いがけず胸を高鳴らせた。


「もしかして……お姉さま!」


 きっとそうに違いない――アリサは再び駆け出していた。

 我を忘れるのも無理はない。彼女が純桜に進学したのは、三つ年上である実の姉に強く憧れていたからだった。

 純桜は全寮制のため、家に帰る機会もそう多くはない。姉ともここ数年は一緒にいられる時間がほとんどなく、寂しい思いを募らせてきた。

 だからこそ姉の姿を見つけた瞬間、無我夢中で走り出していた。


(やっと、今日からやっと、お姉さまと一緒に通えるんですもの)


 金木犀の生垣が囲う短い小道を抜けると、アリサは万朶ばんだの桜が辺りを彩る華やかな庭園に踏み入った。

 庭の中央には、純白のマリア像が謐然と佇んでいる。

 白いガーデンシクラメンが台座を取り囲むように咲き並び、その花壇の前に姉と思しき後ろ姿を見つけた。


「お姉さま――セイラお姉さま!」


 自然と息が弾む。駆け寄る足取りも幼子のように素直だった。

 無邪気な声と足音に気づいたか、姉はハッと総身を震わせて踵を返したが――、


(違う――お姉さまじゃないわ!)


 振り返った顔を見て人違いと気づいたが、もう遅かった。

 動揺から足元がおろそかになり、思わず女子生徒の体に飛びついていた。互いのベレー帽がはらりと、シクラメンの傍に落ちた。


「あ、あの。大丈夫ですか?」


 バイオリンの弦を軽く爪弾いたような声が降ってくる。アリサは真っ赤にさせた顔をためらいがちに上げ、自分の体を抱き留めてくれている女子生徒と目を合わせた。


(綺麗な目……宝石みたい)


 長い前髪の隙間から覗く気弱げな瞳は、小さな撫子のような薄い赤みを帯びている。

 間近で見ると、改めて姉と似ている部分が多く見受けられた。

 背中まで届くほど長い濡れ羽色の髪。すらりとしたスレンダーな長躯。

 仄かに漂う芳香は彼女のものか、マリア像が従える花々からかは判然としない。

 いずれにしてもアリサにとっては心地よく、これが本当に姉の腕の中だったらと夢見ずにはいられなかった。


「あの、本当に大丈夫ですか?」


 また控えめな声を向けられ、アリサは現実に引き戻される。

 女子生徒の戸惑っている顔に気づくと、頬だけでなく耳まで薔薇色に火照った。


「ごっ――ごめんなさい! わたくし、その、人違いをしてしまいまして」


「人違い……?」


「あんまりお姉さまにそっくりだったものですから。つまりその、わたくしはお姉さまに会いたくて堪らなくて、だってもう何年も一緒にいることができず――いえ、そんなことは関係のないことだと思いますけど、本当に、ごめんなさい」


 自分でも分かるほどしどろもどろな声になり、余計に恥ずかしさが募った。


(もう、なんて初日なの! いくら似ていたからって、上級生の方にこんなこと……)


 焦りを露わにするアリサに対し、女子生徒は丸くさせていた目をふっと和らげる。


「私は、大丈夫ですから。それより、怪我とかないですか?」


「ええ、わたくしの方は。あ、もう自分で立てますので」


 抱き留められたままだったことに気づき、アリサはすぐに立ち上がった。


「本当に失礼いたしましたわ。わたくし、本日よりこの学院に入学する清華きよはな有咲アリサと申します。勘違いとはいえ、上級生の方にこのようなこと、お詫びの言葉もありませんわ」


「え……?」


「不躾とは承知ですが、このことはどうか秘密にしてください。上級生の方にこのような非礼を、それもあんな、はしたない真似……どうか、どうか秘密に、特に、セイラお姉さまにだけは絶対!」


「ま、待ってください。私はその――」


 懇願するような声のアリサに詰め寄られ、明らかに狼狽する女子生徒。

 柔らかな雪のように白い頬に、確かな赤みが差していた。


「上級生じゃ、ないんです。私も、清華さんと同じで」


「わたくしと、同じ?」


「その、新入生で。だから、上級生なんかじゃ」


 アリサはまた、顔から火が出る思いになった。


「なっ――なによそれ! どうして早く言わないのよ!」


「ど、どうしてって」


「背も高いし、学院の中にいたからてっきり上級生の方なんだと肝を冷やしたじゃない! 同じ新入生ならもっと新入生らしくしていなさいよ!」


「ご、ごめんなさい」

 しゅんとなって俯く女子生徒。

 こんな顔をされては、アリサもこれ以上文句を言う気になれない。


(そもそもわたくしの勘違いが原因じゃない。この子はなにも悪くないわ)


 冷静になってくると、自身が放った言葉の理不尽さに気づいて嫌気が差した。

 けれど姉との再会を期待した分、それが叶わなかったことの残念さも大きく、素直に謝る気にもなれなかった。


「まあ別にいいわ。それよりあなた、本当にわたくしと同じ新入生なの?」


「は、はい。そうですけど」


「どうしてこんな朝早くに学院へ来てるのよ。入学式は十一時からでしょう? わたくしは新入生代表としての務めを果たす必要があるから、早く登校したのだけど」


 アリサは得意げな笑みを浮かべ、称賛の言葉を待ち構えた。

 しかし女子生徒の反応は、またもアリサの期待を裏切るもので、


「私も、そうです」


「え?」


「私も、打ち合わせで。早く着き過ぎたかなと思って、このお庭に立ち寄ったんです」


 ぽかんとなって押し黙るアリサに、女子生徒はおずおずとした声のまま言った。


「私は稲羽いなは――稲羽舞白ましろと言います。清華さんの挨拶のあと、をするようにって」


 面映ゆげに答える彼女の足元には、使い古されたバイオリンケースが置かれていた。


(そうだったわ。入試は学科と実技に分かれていたから、つまりこの子が――)


 アリサはしげしげと女子生徒を見つめた。

 薄赤の眼差しは未だ気恥ずかしそうに揺れており、大人びた容姿には似つかわしくない小動物のような脆さが透けて見えるようだった。


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