願望

佐藤凛

願望

 ビルの屋上からの帰り道、私は吊革を弱弱しくつかみ電車に揺られている。電車の最前列。度々訪れるガタンという激しい揺れと共にゆらりと体が合わせて揺れて、私の心臓は跳ね上がる。その繰り返し、繰り返し。目の前には赤子を抱いたその子の母親と思われる女の人が座っている。赤子はワンワンと泣き喚いていて、それが縦長の狭い車内に響き渡る。それを母親は必死になだめていた。いい子だから泣かないの。ほら、いい子いい子。バァ。ね。ほら、大丈夫大丈夫。そんな調子で。しかし赤子は泣き止む気配はなく、むしろなだめればなだめる程ひどく喚いていた。愛想をつかした母親は、椅子からスッと立ち上がり、申し訳なさそうな顔で私の顔を逸らしながら中腰でそそくさと電車の連結部分まで歩いて行った。女は勢いよく扉を開けて静かに閉めた。女は相変わらず赤子を連結部分の真ん中でなだめていた。さて、私の前にはぽっかりと穴が開いたように、一人分の空席ができていた。私はそこに、穴を埋めるように座った。右隣の初老の男が文庫本を読みつつ咳ばらいをはさみ、私から少し距離を置くように座りなおした。


 電車は無機質な悲しみを私にくれると思う。誰も私を気にしてはいないし、私も誰も気にしていない。目の前の窓ガラスに映るのは見慣れた景色がまるで、シャッターを連続で切るかのように流れている。夕日が私を見つめて隠れてを繰り返す。家々が連なる住宅街を走らずに走る。私はまるで映画のワンシーンのような気持ちでそれを眺めていた。私はおもむろにスマートフォンを取り出して、ワイヤレスヘッドホンをつけた。音楽再生アプリを起動して、適当に縦にスクロールし止まったプレイリストをタップした。ヘッドホンから流れてきたのはFrank Sinatraの「That's Life」だった。軽快なリズムとコーラスの上で

Frank Sinatraのなだらかな歌声が交差する。この曲は映画「Joker」で使用されたことでも有名だ。私は本当に映画のワンシーンにあるような気持ちになった。そして思い出す。「Joker」での有名なシーンを。アーサーが電車の中で三人の男を銃殺するシーンを。


 私の心臓は一層跳ね上がった。私はそれをしたくなっていたのだ。この電車の中の乗客を一人残らず殺して見たくなった。理由は分からない。そもそも、私は今日死ぬ予定だったのにも関わらずだ。なんで死のうとしたのかも分からない。文豪、芥川龍之介にそれば「将来に対する漠然とした不安」であると思う。哲学者ニーチェにそれば「ニヒリズム」の状態である。ともかく私は、今日ビルの屋上に死にに行っていたことは間違いがない。それが、今となれば殺してみたいと思うのだから、人間というものは、少なからず私は随分と身勝手だと思う。私の殺してみたいという願望は電車がガタンと揺れるたびに強くなっていた。殺してみたい、殺してみたい。脳の中に願望が跳ね返り、心臓に届き二重にして脳に返している。二進数の要領で私の願望は増大している。私の手と足がガタガタと震え始めていた。


 私の願望はもう抑えられずにいた。周りを見渡すと男八人、女九人がいた。私はすかさずポケットに手を入れる。そうすると鉄の重みを確かに感じたのだ。それは明らかに拳銃のそれだった。私は神に祈りをささげた。神は私に告げたのだ。殺せ、と。私は興奮の真っただ中にいる。殺せる。人の命を身勝手に途中で終わらせてしまうことなど、この日本で誰が出来よう!


 私はポケットから拳銃をすくりと取り出して、右隣の初老の男にトリガーを引いた。バン!と大きい音がして、初老の男は頭から脳が飛び出してぐったりとしていた。辺りには血が散乱していた。私は何とも言えない感覚に陥っていた。殺した。殺したのだ!一人目を!それから私は左隣の女を、殺めた。対面に座っている女子高生二人も。マスコットの小さいぬいぐるみをバックに着けた男も。音楽に合わせて。「That's Life」のリズムに合わせて。次々と、次々と。トリガーを引くたびに人の形は驚くほどに変わり果てる。頭を狙うと脳が、腹を狙うと腸やらの内臓が、心臓を狙うと大量の血が、飛び散った。私の頭はドーパミンでグラグラと揺れていた。私はいつの間に全員を殺しきってしまった。私の周りにはかつて人だったものが散らばっていた。私は多幸感に包まれた。私は赤子と女以外は殺しきった。なぜなら、私はその二人が聖母マリアとイエスに見えたからだ。その二人を殺すわけにはいかない。赤子の方を見やると、いつの間にか泣き止んでおり、私の方をじっと見つめていた。そして少し微笑んだかと思うと、段々と瞬きをしはじめ、眠りに落ちていった。


 いつの間にか電車は、私の降りる駅についていた。私は靴に血がつかないようにそっと列車から降りた。振り返ると電車の窓は私が殺した計十七人の血液でいっぱいになっていた。嗚々、もうこの列車は悲しみくれなくてよいのだという安心感が私を挟んだ。僕の体は風船のように軽くなって、今にも浮いてしまいそうだった。私は軽くなった体で電車を見送った。

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願望 佐藤凛 @satou_rin

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