第26話 仔猫は疾る
「……にーたん?」
シェルの手から、お土産にもらってきたパンの包みが落ちる。
引っ越してきて初めて友達になったマイアちゃんの家に泊まって、朝ご飯をごちそうになった。お母さん手作りのパンがすごく美味しくて、にーたんにも食べさせたいと言ったら持たせてくれたのだ。
嬉しかったけど。シェルは不安だった。昨日の夜から、バレットの温もりが感じられなかったから。近くにいなくても、どこにいるかはわかる。なにをしているのかも、どうしているのかも。ずっと、わかっていたのに。
なのに夜から、それが薄れていた。眠ったんだろうと思った。思い込もうとした。
家に帰る前から、嫌な予感はしていたのだ。ふたりで暮らす部屋の扉を開けると、誰もいない室内は冷え切っているように感じられた。
部屋にも寝床にも、バレットの残り香がない。冒険者ギルドの仕事に行ったんじゃない。きっと昨日の夜から、帰っていない。
「にーたん、どこ、いったにゃ……?」
シェルは急に不安になる。バレットは自分を置いて行ったりしない。それを疑ったことなどなかった。だからこそ、義兄が自分になにも告げず消えたことに焦り、戸惑った。
なにが起きたのか。まだ七歳のシェルには、考えてもわからない。助けを求める相手も知らない。マイアちゃんのお父さんとお母さんは冒険者だと聞いたけれども。バレットと同じ
薬草取りのときに着ていた、孤児院時代の野良着に着替える。ふたりで暮らすようになったときにバレットが買ってくれた街着は、かけがえのない大事なものだ。きれいにたたんで寝床の脇に置いた。
それが危険に身をさらす覚悟なのだということを、シェルはまだ自覚していない。
「にーたん、待ってるにゃっ!」
自分に力がないことは知ってる。
それでもできることはあるし、必要ならなんでもやってみせる。周囲には猫獣人だと思われているシェルだが、自分の身体を流れる血が猫獣人のものではないと、わかっていた。以前、孤児院を訪ねてきた猫獣人の商人と出会ったとき、妙な違和感があったからだ。
――このひと、よわい。
なぜか、そう思ったのだ。自分と比べて、ではなかった。自分の
猫に似て猫ではない自分が何者なのか、シェルは知らない。それほど知りたいとも思わない。自分は自分で、それ以外のことに意味はない。
バレットの“いもうと”であれば、それでいい。
きれいな服は脱いだ。かわいらしい靴も。髪飾りも。新しい自分は置いていく。穏やかな日々も、夢見た未来も、幸せも、みんな。
この街で手に入れたものは、
孤児院時代のくたびれた服に身を包み、院長先生の特製傷薬を持って、薬草取りに使う古びた短刀を腰に差す。部屋を出るとき、大きく深呼吸した。全身に力がみなぎるのを感じる。全身の毛が逆立つ。
通りを駆け出すシェルを見て、通りすがりの住人たちが怯えて飛び退る。
「なんだ、いまの」
「
全力疾走で、領府の北門を駆け抜ける。門番がなにか言っていたが、そんなことはどうでもいい。バレットの気配のする方へ、全力で走り出す。領府の北に出たのなら、向かう先は孤児院か、“
どこだろうと匂いの、気配のする方へ向かうだけだ。全力で駆け続けるシェルは、最低限の取捨選択でバレットの向かった先がダンジョンだと判断した。もちろん行ったことなどない。それどころか、ひとりで森に入ることさえ禁じられていた。自分には関係のないところだとさえ思っていた。
誰がなんと言おうと、どうでもいい。向かう先がどこでもいい。そこにバレットがいるのなら。そこが自分のいるべき場所だ。
森に入ると獣や魔物の気配が感じられるようになる。逃げてゆくものは無視して、近づいてくるものは避ける。襲ってくるものはいない。いたところで気にしない。
他者を害する力はないが、逃げ隠れ
シェルは走り続ける。ダンジョンに近づくにつれて、どんどん気配が強くなる。バレットの匂いが感じられる。残り香の薄れ方からして半日前、夜にここを通ったんだ。自分は間違っていない。きっと、すぐに追いつく。
興奮と喜びで些細な問題だと切り捨てていたが。シェルはわかっていなかった。
バレットの匂いよりも遥かに強く、濃くなってきているのが、迷宮内に撒き散らされた血と臓物の臭いであることを。
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