第83話 リフレイン


 いよいよ奈良公園。予想以上に鹿が居た。

 鹿の風下だの風上に鹿が居るだのとギャーギャー言うトアリに振り回され……気付けば人気の無い路地に着いていた。


「ゴホッ! ゴホッ!」


 そこには、体を丸くしながら咳き込む老婆が居た。

 昨日の老婆だった。


「あっ、どうも」


 俺が会釈すると、老婆は弱々しく微笑んだ。


「あらあら、どうも」


 ゴホゴホッと、老婆は咳き込む。


「おや、そちらのお方は?」


 老婆はトアリに気付いていないようだ。昨日はノンフルアーマーだったから仕方ない。


「昨日のマスクしてたやつですよ」


 ほら、と俺はトアリの背中を押した。


「昨日の礼言っとけよ」


「わ、分かってますよ……」


 微笑み、至極ゆっくりと首を傾げた老婆に、トアリは言う。


「昨日はその……心配してくれてありがとう……ございます……」


「あらあら、そんなこと気にしなくていいのよ?」


 ゴホゴホゴホっと老婆は咳き込んだ。それに超反応して、トアリは老婆から距離を取る。


「あの、城ヶ崎じょうがさきくん、もう退散しましょう……。あの人、色んな菌をまき散らしてます……」


「あのな、そういうこと言うなって」


「で、でも……」


「おまえが潔癖症なのは解るけどさ――」


 ゲホッゲホゲホッと、老婆は更に激しく咳き込んだ。とても苦しそうに。

 そして、

 ドサッ……と、その場に倒れ込んでしまった。


「だ、大丈夫ですか?」


 俺はすぐさま駆け寄った。老婆は横たわり、咳き込み続ける。


「お、おいトアリ! スマホか何かで誰か呼んでくれ!」


 トアリは震えていた。前にも後ろにも動かず、ただ震えていた。


「おい、どうしたんだよ! 早く――」


「嫌……」


 トアリは呟いた。


「……嫌です私!」


 走り去ってしまった。


「くそ……! しょうがない、俺が救急車を呼ぶしか!」


 俺はポケットに手を突っ込んでスマホを出したが、信じられないことに電源が切れていた。電池切れだ。


「マジかよ! こんな時に!」


 俺は勢い良くスマホをポケットにしまった。


「あの、おばあさん! スマホとか持ってませんか!」


 呼び掛けたが、老婆は咳き込み続けるだけ。急いで老婆のポケットやらを探したが何も無かった。


「落ち着け……今から人気のあるとこに言って助けを求めるか? それか俺が運んで……いや、下手に動かしたらまずいかもしれないし……」


 頭が上手く回らなかった。

 もうどうしたらいいのか分からなかった。

 目の前で更に苦しそうにする老婆。

 初めて体験する焦燥で……、

 歪む視界。

 失われる感覚。

 麻痺する嗅覚。

 何も感じなくなる味覚。

 そして閉ざされそうになる聴覚に、光が差し込んできた。


「城ヶ崎くん!」


 トアリの声だった。ハッと俺の五感が呼び覚まされる。


「トアリ?」


 トアリがケータイの入ったビニール袋を手に駆け寄ってきた。


「これで119を!」


 トアリがビニール袋を差しだしてきた。


「でもこれ出したら――」


「いいから早くしてください! 私はおばあちゃんを見てます!」


「あ、ああ!」


 俺はビニールを破って、中からケータイを取りだした。

 そして、震える手で人生初の119をダイヤルした。

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