第2-23話 すれ違う心

「ちょっと妓楼まで行ってきます。あ、崔丹も一緒に」


 そう言って照勇が立ち上がると、


「ならば従者を手配しよう」


 丁禹は胥吏などを数人、照勇につけてくれた。しんがりに丁禹までついてきた。どうやら面白そうな風の匂いでも嗅ぎつけたようだ。




「妻ではありません」


 弓月はきっぱりと断言した。


「以前は将来を誓い合った仲でしたが、それは過去のことです。妓女となった娘のことなどはもうお忘れください」


「弓月……そんな……」


 目の前ではっきりと拒絶されたというのに、しかも二度目だというのに、崔丹は納得できないようだった。

 酒肆が開く前だったので、庁堂の卓子をはさんで照勇と崔丹が座り、弓月と朱老太婆が対座した。丁禹と従者は後ろで成り行きを見守っている。


 官衙から戻ってきた照勇を憎々しげに睨んでいた朱老太婆に向かって、丁禹が「五娘を知事代理とみなすこと」と伝えたものだから、彼女の顎は床に落ちるんじゃないかと心配になるほどだった。

 敬語を使うのもおかしいし、へつらうのは業腹だし、照勇の扱いに困り果てているようで、朱老太婆は崔丹のほうばかり見ている。


「あきらめてもらえませんかねえ。弓月はいいお客さんもついたことだし」


「いいお客さん?」


 朱老太婆は媚びるように笑った。


「茶商の息子さんがさっきいらしてね、そう、療養中の身でわざわざお越しになってね。これからは命の恩人の弓月をひいきにするとおっしゃって。ゆくゆくは身請けも考えてくださるそうなんだよ」


 弓月がそばにいてくれたら、なんでもうまくいきそうだ。そう思い込んでいるようすだったという。


「おれを捨てるのか、弓月……」


「身請けと言えば、崔丹さんもお金を用意したと聞きましたが」


 照勇がうながすと、崔丹は懐から巾着を出した。


「これだけあれば借金を返しても余るはずだ」


「弓月は運気を上げる妓女として今後売り出すんですよ。そんなはした金では……」


 朱老太婆は苦笑を浮かべて手を振る。弓月は無言でうつむいている。

 なぜ弓月は恋人が会いに来たのに、にこりともせず下を向いたままなのだろう。


「崔丹さんはどうやってこれだけの大金を用意したんですか」


 巾着の中身は、借金の額を超えている。

 弓月から聞いた話では、崔丹は貧乏な書生だったはずだ。金がたまったら会いに行くと約束した崔丹に、来なくていいから勉学に費やしてほしいと弓月は伝えていたはずだが。


「はい。断腸の思いで身の回りの物をすべて売りました。文房四宝はたいした金額にはなりませんでしたが、書写した本の類は科挙を志す友人らが高値で買い取ってくれました」


「え……売っちゃったの……?」


 照勇は思わず弓月を見る。弓月は唇をぎゅっと引き結んでなにかに耐えている。

 書物を買う金がないため遠方まで出向いて書写をさせてもらっていたはずだ。何年もかかっただろうに。それを全部売ってしまったのか。


「いつか進士になって都に行き、皇帝陛下に仕えるのはおれの夢でした。でもいまは弓月のほうが大事です。手放したくないのです」


 弓月が断った理由がわかった。崔丹は弓月の気持ちを理解していない。


「わたしのために夢をあきらめたと考えてほしくないの」


「弓月……二兎を追うことはできないよ……」


「妓女になって支えると言ったじゃないの。それなのに……」


「待って、弓月」


 照勇は崔丹を責める気持ちにはなれない。科挙及第は難しい。一生を費やす者もいるくらいだ。そのために弓月を待たせるのは崔丹もつらいのだろう。本音は、早めに見切りをつけたいのかもしれない。そうだとしたら、弓月のせいにするのは卑怯だ。


「自信はあるんですか、崔丹さん。科挙に及第する自信は」


「あ、ああ、まあ。でも受けてみないと……」


 崔丹の目がふらふらと泳ぎだした。


「郷試は受けたのか」


 それまで見守っていた丁禹が口を開いた。

 郷試は科挙の一次試験で全国の地方で行われる。受験者の数は十数万人。郷試に受かれば、次が会試。二百人程度に絞られる。最後は皇帝の目の前で行われる殿試。順調に進んでも何年もかかる。そもそもが難関の試験だ。


「まだ一度も……」


「弓月はどう。何年も、何十年も待てるの?」


「何十年も? そんなにかかるものなの? でも丁知事はお若いわ。若いころに科挙に合格されていますよね」


 弓月は科挙の過酷さを知らない。「夢を捨てないで」ということが残酷だとは思っていない。

 そうか。丁禹は殿試を受けたのだから皇帝に会ったことがあるのだ。ぼくの祖父に。


「ふふふ。わたしは勉強が苦にならない変態だからな」


「お、おれだって変態です……!」


 崔丹はなぜか張り合ってきた。

 書物を読むのはなんであれ楽しい。ぼくだって負けていない。

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