第2-24話 照勇の提案

「ではこうしましょう。崔丹は郷試に合格してください。合格できなかったら弓月をあきらめる。合格できたら弓月に再度身請け話を申し込んでください。そこで断られたら会試を目指しましょう。会試に合格したらもう一度身請け話をする。試験に一回合格するごとに弓月の意志を確かめるのです。弓月も朱老太婆も未来の出世頭を無下むげにはしないはず。どうですか」


 何年も何十年ものあいだ、二人が待てるかはわからない。出征した夫の帰りを何十年も待ち続けた妻の話などはあるが、待つことが珍しいからこそ物語として残るのかもしれない。


 ぼくはまだ恋心を知らない。


 恋をすればもっといい案が生まれるのかもしれない。恋をしなきゃ、などと考えて頬が熱くなった。恋をする言い訳なんていらない。まったく素直じゃない、と恥ずかしくなる。

 最初に訴えを聞いたときは、崔丹を説得して諦めさせるのが最善かと思っていた。

 いまは二人が夢を追いたいなら、追わせてあげればいいと思う。


「それに郷士になれば現地採用の胥吏として政庁で雇うこともできますし。そうですよね、丁知事」


 弾かれたように、弓月は顔をあげた。崔丹と視線が合う。

 ここが落としどころか。


「ですが、売ってしまった書物を、気が変わったので返してほしいなどとは言えません」


 崔丹は肩を落とす。

 照勇は解決策をひとつ思いついたが、口にするのがためらわれた。崔丹を信じていいのか、わからないからだ。

 弓月を見る。弓月の目には不安と希望が宿っている。崔丹への複雑な気持ちのあらわれだ。

 彼女の心を楽にしてあげたい。照勇は弓月のために口を開いた。


「科挙受験に必要な書物がただで手に入りますよ」


「え、どうやって」


 その場にいる全員が照勇に注目した。


「とある廃道観を訪ねてください。場所はええと、説明するよりも地図を描いたほうが早いかな」


「これを使え」


 照勇がきょろきょろしていると、丁禹が二つ折りにした紙を卓子に置いた。


「ちょうど持ち歩いていた反故紙だ。筆もある」


 知事の従者が携帯の筆と墨入れを用意した。丁知事がいつでも使えるように常に用意しているのだろう。


「では遠慮なく。あ……」


 筆に手を伸ばしたとき、袖の中から布をまいた小刀が滑り出た。

 腕に結びつけていた紐が緩んだのだ。照勇はこほんと咳をした。


「昨日厨房を手伝っていたときに袖にするんと入ったようです。うっかりと忘れておりました。朱老太婆、お手数ですが、阿辺さんに返しておいてください。えと、では、か、描きます!」


 大声でごまかせるものではないだろうが、周囲の関心は筆先に集中していたのが救いとなった。

 反故紙というからには今見えているのは裏側で、表側には丁禹の即興詩でも書かれているのかもしれない。科挙に合格するには詩文の能力が必須だ。丁禹がどんな詩を書くのか、ひろげて読んでみたいと思ったが、いまは誘惑をおさえよう。

 苑台城市から逆に辿って道観のある山を描いた。途中で三娘に視線を送る。三娘がうなずいたので、そっと筆を置いた。


「南側の裾野から山頂までつづら折りの階段があって、八千段を登ると廃道観があるんです。そこはもう誰も住んでいないけれど、書庫にはたくさんの本があるし、とうぜん四書五経もあるから、好きなだけこもって勉強するといいですよ」


「八千段……。はい、わかりました」


 崔丹は途方に暮れた表情になったが、すぐに口元を引き締めた。弓月の目じりがうっすらと赤く染まる。桃の花のようだと思った。


「ほほう、廃道観か」


 興味深げに丁禹が地図をのぞき込む。

 やはりそうだ。丁禹が暗殺部隊と通じているようすはない。官符を持っていながら、彼らは地方政庁に寄らなかったのだ。少年一人を探索するだけなら県庁に支援を求めればいい。だが彼らの目的は照勇の痕跡を消すこと、完全に闇に葬ることなのだ。


「丁知事、いまわたしが言ったことに問題はございますか」


「ない。隣の県の管轄だ。さて、最後にひとつ聞くが、崔丹。なぜ弓月を妻と言ったのだ」


 崔丹はもじもじとしながら、小声で答えた。


「妻と言えば動いてもらえると思って。妻は夫のものですし……」


「そうか、なるほどな。これで落着でよいのかな。わたしは帰るぞ」


 意味ありげな質問だったが丁禹は深くは追及しなかった。

 丁禹は満足したのだろうか。しかしどうやら褒美をもらえるほどではなかったようだ。


「はい、ありがとうございました」


 照勇は頭を下げた。自分はこのまま妓楼に残ることになるのだ。せめて知事一行を見送ろうと腰を上げると、照勇をわきに除けるようにして丁禹が卓子に寄った。


「地図をもう一度見せてくれ」


 丁禹は折りたたんだ反故紙を卓子に広げ、丁寧に両手をあてて半分に裂いた。地図が描かれているほうを崔丹に渡し、白紙のままの半分は懐にしまった。


「まだ使えるからな」


 にこりと微笑む。照勇の脳内で警鐘が鳴った。なにかを企んでいる顔だ。


「ところで女将、五娘の契約証文の件だが」


「はい……?」


 話が唐突に変わって朱老太婆が面食らった。


「もう一度検証したい。持ってきてもらえるかな」


「はい、知事さま。いますぐに」


 だが朱老太婆はなかなか戻ってこなかった。やっと戻ってきたら今度は、


「あの……見当たりませんでした。なぜか五娘のものだけ。うっかりとなくしてしまったのかもしれません。でもおかしいですね。知事さまが全員分を検められてからすぐに鍵をかけて自室にしまっておいたのです。誰も開けていないのに……」

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