第2-22話 新たな訴人

 三娘は苛立っている。その証拠に右手が落ち着きなく動いている。剣把を握りたいのだ。

 いくら三娘でも政庁の中で剣を抜いたら捕まってしまうだろう。


「大事な妹の顔にその腐った息を吹きかけるのはやめてもらえないか」


 三娘は照勇をかばうように前に立った。丁禹の顔が険しくなる。


「わたしはこの子の才能を伸ばしてあげようと──」


「余計なお世話だ」


「大事な妹を妓楼に預けるより、知事であるわたしに預けたほうがマシだと思わないのか」


「知事さん、あんた、妻子はいるのかい?」


 一瞬、虚を突かれた表情をしたものの、丁禹は動じなかった。


「いる。副都にあるわたしの屋敷に住んでいる」


 腑に落ちた。転任が延期して、いらだつわけだ。


「やっぱりいるんかい。五娘は妾にはやらねーよ」


 三娘は腕を組んでなぜか腹を立てている。妹の不遇にいきどおる姉を演じているなら迫真だ。

 丁禹はコホンと空咳をした。


「土地を区切ったり耕したりするのはわたしの趣味ではない」


 それは、照勇を凍りつかせた。

 丁禹はかまわずに続ける。


「意味がわかったんだな、五娘。やはり惜しい。うちに来れば杏の花も見つかるのに」


「……どういう意味だ?」


 三娘は当惑している。胥吏も同様だ。

 照勇は無駄と知りつつ、知事を睨みあげた。


「契約証文を無効と認めないのは身請け話を妓楼に持ちかけるためですか。別の機会を与えていただければお役に立つこともありましょうに」


「では仕事を手伝え。なるべく手間をかけずに迅速に適切にな。仕事をためるのは性に合わなくてな」


 そう言って書類の山をぽんぽんと叩いた。

 脅迫のようなものだ、と照勇は思った。丁禹はいますぐにでも照勇を怪しい人物として牢に繋ぐことができる。

 土地を区切るというのは漢字の『田』を意味する。耕すというのは農具を持つ腕を象形した『力』になる。田と力。つまり男の意味だ。

 杏の花は科挙合格の含意。杏の花が咲く頃、合格者を集めた祝宴が杏林のそばで開かれるのが由来である。丁禹の家で学んで科挙を目指してはどうだ、と提案されているのだ。むろん科挙は男子しか受験できない。

 脅迫でないとしたら、形を変えた賄賂の要求のようなものだと照勇は思った。

 便宜を図ってもらう代わりに丁禹に尽くさないといけないからだ。


「もしや、面倒なことになっているか……?」


 三娘の目元がかげる。これはまずい。三娘を無心にさせてはいけない。


「姉さん、少しの間、待っててもらえるかな」となだめてから丁禹に言った。「お手伝いいたします。茶商夫妻は解決しましたので、もし次に厄介なことがありましたら微力……いえ、全力を尽くします。働きぶりを評価いただけましたら……」


 自由の身にしてください。

 口にせずとも伝わったはずだ。


 丁禹は腕を組み、苛立たしげな指先をとんとんと動かして考えている。するとまたもや胥吏が廊下から駆け込んできた。


「丁知事、新たな訴人が面会を求めています。妻を奪われたので取り戻したいと言っています」


 県知事という仕事は思いのほか忙しい。照勇は丁禹の視線を感じた。照勇はこくんとうなずいた。




 男は書生で、名は崔丹さいたんといった。身なりは貧しいが、新緑の若芽のようなすがすがしい若者だ。

 崔丹の訴えは、妓楼に売られた妻を取り戻したいということだった。売ったのは義父だという。

 妓楼に交渉に行ったが、『契約は有効だ』と相手にしてもらえなかったのだそうだ。

 世の中には同じような話がいくつも転がっているものだ。


「いたしかたなく、身請けの代金を用意して妓楼に迎えに行きましたが、今度は本人と遣り手婆が拒絶してきたのです。納得がいきません」


「本人が断っただと?」


 丁禹は首を振った。今日の知事はおそらく機嫌が悪い。崔丹は運がない男だ。


「おい、五娘。おまえが片付けろ。説得してみろ」


 丁禹は五娘に命じたあと、崔丹に宣言した。


「そこにいる娘が知事代理をつとめる。敬意をもって相対あいたいせ」


「は、はい……」


 崔丹は不思議そうな顔をしたが、知事の娘かなにかだと勝手に勘違いしたようだった。照勇はひそかに安堵した。


「説得とは、この崔丹をですか。義父ですか。妓女や遣り手婆ですか」


「解決すればどれでもいい」


 ずいぶんと投げやりだ。面倒なのだろう。ここが照勇の腕の見せ所だ。


「なるべく手間をかけずに迅速に適切に……か」


 妓女本人に拒絶されたのならば諦めさせるのが一番だと思う。きっと心変わりされたのだろう。だが問題は崔丹を納得させられるかどうかだ。


「その妓女は心変わりしたのではないでしょうか。心当たりはありませんか」


「心変わりなどありえません。弓月はおれを愛しています!」


「弓月……」


 絶句した。丁禹まで目をみはった。詳しく聞いてみると、やはり朱老太婆の妓楼で間違いなく、あの弓月で合っているようだ。

 手間をかけるなと言われたが、これはかけなくてはなるまい。

 弓月に聞いたいきさつではたしか、金持ちの妾を断ったために妓楼に売られたはずだった。妾を断った理由は頭は良いが貧乏な恋人がいるためだと言っていた。妓楼で稼いで彼を援助したい、行く末は進士さまになる人だからと語っていたのだ。

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