第2-5話 いるはずのない男

「卑しい食べ方ねえ、下賎げせんの生まれとまるわかりじゃないの」


 芙蓉は眉をひそめ、手巾で笑みを隠した。情夫が見習いに目移りしないようにおとしめたいのだろう。

 ぶたれて怒られてあざけられて散々だが、照勇はこの妓女を憎めない。好きな男を引き寄せたくて必死になっているだけだからだ。

 一方李高は照勇の顔をながめてちびちびと酒を飲んでいるが、童女によこしまな感情を抱いているようにも見えない。

 このふたりはやはり愛し合っているのだ。そう思うと、なぜか照勇は少しだけ照れた。


「芙蓉、おれもちっちゃいころは貧乏だった。飢えて苦しい思いをしたんだ」


 李高がぼそりと呟くと、芙蓉は気まずそうな顔で「もっとお食べ」と照勇に皿をまわした。

 ふいに、背後からガタンと大きな音がした。


「ひいい、蛇だあ!」


 声のした方を振り向くと一匹の蛇が床でのたうっていた。大人が伸ばした腕ほどの長さがある。慌てて飛び退いた妓女が卓子をひっくり返す。

 蛇は珍しい生き物ではない。だがここは妓楼である。


「クサリヘビだ、毒がある!」


 李高が断じると、そこかしこから悲鳴があがった。


「ああ、それはわたしの蛇です。すぐに捕まえます」


 別の卓子の客が慌てて飛んできた。途中でけつまずいて、別の卓子の衝立が揺れた。男はすぐに蛇を捕まえて、蓋つきの魚籠にいれた。さらに布袋にいれて口を縛ると、ほっと息をつき、ほかの客に丁寧に頭を下げた。男は蛇を愛玩していて常に持ち歩いているのだとにこにこと笑いながら説明した。


「妓楼に毒蛇を持ち込むなんて困りますよ。お帰りの時までこちらで預からせていただきます」


 朱老太婆は客から布袋を取りあげた。口がしっかりと閉じていることを確認して、それでも摘まむようにして持つ。


「いやあ、犬や猫と一緒でかわいいもんなんだけどねえ」


 客は反省しているふうはない。冬場はほとんど動かずにじっとしているので油断したのだとか、酒肆の暖かさと酒の匂いにつられてうっかり遊びに出たのだろうと蛇の気持ちを代弁していたが、朱老太婆は預かると言って譲らなかった。


「やれやれ、迷惑な客だ」


 趣味や嗜好しこうは人それぞれ。危害がこちらに及ばないならご勝手にどうぞ。口々に愚痴や意見が飛び交った。

 安心した客たちは鷹揚おうように杯を乾かし、寄り添う妓女らも笑顔を取り戻した。


 ただ一人、照勇だけは凍りついたままだ。

 昨夜からいろんなことがありすぎて、頭が麻痺してしまったのだろうか。

 一瞬のことだったが、ありえないものを見たのだ。

 衝立の囲いが揺れて、わずかにできた隙間の中に。

 ほんの一瞬だった。だから見間違いかもしれない。


沢蓮至たくれんし……」


 言葉だけでも、場違いだった。

 だが眼裏まなうらで鮮明によみがえる顔貌がんぼう。ぶわっと鳥肌が立った。


「まさか……」


 かぶりを振ったが消えてくれない。

 衝立の向こうには幾人かいるようすだ。友人と一緒にいるのだろうか。買い出しにおりたついでに羽を伸ばすことは、いままでにもあったのかもしれない。なにしろ照勇は俗世のことは無知なのだから。

 沢蓮至は十年間、照勇を育ててくれた父のような存在である。殺し屋にとらえられたか殺されたのではないかと心配していたのだから、生きていたなら喜ばしいことだ。

 だが風貌ふうぼうが似ている別人の可能性もある。たしかめたい。


「にぎやかになってきたわねえ。ちょっとうるさいくらいに……」


 芙蓉が不満をもらしたので、照勇は見習いの分際を思い出す。


「上階で静かに過ごされてはいかがでしょうか」


 照勇がうながすと、李高は片方の口端を引き上げて笑った。


「酔っ払いの喧噪けんそうより、芙蓉の月琴を聴きたいな」


「もちろん、いいわ」


 芙蓉はぱっと顔を輝かせ、男の腕を引いた。

 二人で過ごす最後の夜になるのかもしれない。階段を上がる途中で照勇を見下ろした芙蓉は初めて笑顔を見せた。人を惹きつける魅力と美貌は必ずしも比例しないものらしい。自信に満ちあふれた芙蓉に、しばし目を奪われた。


「す、すみません!」


 弓月の声だ。声のした方を見ると弓月と酔客が向かい合っていた。


「酒をぶっかけて、どういうつもりだ?」


 酔客が弓月を責めている。ぶつかってしまったようだ。

 しかし見たところ、酒のほとんどは弓月がかぶっている。


「ま、上階でもてなしてくれりゃ、ゆるしてやるか」


 嫌がる弓月の腰に手をまわして、引きずるようにして客は階段をのぼっていく。

 止めにいこうとした照勇の前に朱老太婆が立った。


「まかせときな。あたしの出番さ」


 近寄る朱老太婆に向かって酔客がなにごとかに叫んでいるが、喧噪にかき消されて聞こえない。

 振りあげた拳が朱老太婆にあたりでもしたら、今度は店の用心棒が黙っていないだろう。階段の下に用心棒が控えたのを見てほっと安堵する。朱老太婆の背が大きく見えた。


 意識は衝立に戻る。見間違いか本物の沢蓮至か、確認しなければ。

 本物なら、道観が襲われたことを知らないはずだ。

 衝立の隙間に手を差し込んだ。


「なんの用だ!」


 険を含んだ声が頭上にとどろく。岩石みたいな顔が衝立越しに照勇を見下ろしていた。


「お、お酒は足りていますか」


 わずかな隙間から中を覗いた。岩石を含めて、男が四人いる。

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