第2-4話 妓女と客

 とりあえず阿辺に言われたとおりのことをしておけばいいだろうと高をくくっていた照勇だった。

 ところが妓女は卓子をばんと叩いて照勇を睨む。


「あんた、新しい子? 誰に許可を得てうちの卓子についてるんだい、ずうずうしい」


「はい……あの、阿辺さんに言われて……与五娘です、今日からよろしくご教示お願いします」


「わたしを笑いに来たんだろ」


「え……いえ、状況がよくわからないので、なにが面白いのかわかりません」


「ああ、もう! 恋が終わるとこなんだよ。察しの悪い子だね!」


 妓女は男の袖に顔を埋めて、甲高い声でわんわんと泣き始めた。


「おい、新入りにみっともないとこを見せるもんじゃない」


 男は妓女をたしなめ、みずからは鼻をすすった。


「別れたくないのはおれだって同じだよ。はらわたがちぎれそうだ」


 男はしんみりと頭を垂れる。

 なぜ別れなければならないのだろう。男の身なりはけして悪くない。翡翠の指輪に金色の飾り帯まである。経済的な理由ではなさそうだ。


「いつかは帰ってくるんでしょう、李高りこう


「帰ってはこれないんだ。次の赴任先ふにんさきは遠いし。恨むなら吏部りぶを恨んでくれ」


 吏部とは官吏の人員配置を担当している中央官吏制度のことだろうか。

 だとしたら男は中央から任命されてこの地に来た官吏か。男はよくよく見ると眉目がすっきりとした、知的な美丈夫だった。

 任期を終え、別の土地に転任するにちがいない。


「李高さまは知事さまでいらっしゃるのですか? あ、すみません、急に話しかけてしまって」


「あ、いや。そんな高い地位ではない。知事の随員といったところだ」


 李高はゆるく首を振った。随員とはいえ中央から来て官衙で働いているのなら今の政治や社会の情勢はよく知っているにちがいない。亡くなったという照勇の父や母、祖父にあたる今上帝についても詳しいだろう。


「以前は皇帝陛下のもとでお勤めだったのでしょうか」


「中央で働いていたのは十年くらい前のことだなあ」


「十年前……」


 照勇が生まれたころだ。


「つかぬことをうかがいますが、そのころ──」


「このくそガキが!」


 ぱしんと、はじける音がした。


「あたしの許しもなく他人の情夫イロと話すなんてずうずうしい」


 目眩がして頬がじんじんと熱い。


「まだ年端もいかない見習いの子じゃないか。手荒いことはよしなさい、芙蓉ふよう


 ぶたれたとわかったのは李高がおろおろおしたからだった。目から温かい水があふれた。悲しかったわけでも悔しかったわけでもない。目を見開いたから、身体が生理的に反応したのだ。


「だってあんたに取り入ろうとしてたじゃないか。姐さんの男をとるのは妓楼では御法度ごはっとなんだよ。これはしつけ。あんたは口を挟まないで」


 そんなつもりはなかった──などと言い訳をすると火に油を注ぎそうだ。

 照勇はただ頭を下げた。ついでに腹がぐうと鳴った。


「おれはきみに夢中なのに。莫迦なことを言うんじゃないよ。それともおれのこと、そんなに信じてないの」


「あたしはただ……」


 照勇は頬を撫でながら男女の会話に聞き入った。沢蓮至たちが「まだ早い」と言って読ませてくれなかった物語がここにある。身分違いの恋、遊女のまこと、出会いと別れ、切ない恋。


「ほら、見習いも驚いてぼうっとしてるよ。きみ、よかったらこれを食べなさい」


 李高は卓子にある皿を照勇の前に寄せた。


「え、でも」


 目の前に並んだ料理はどれも美味しそうだった。鳥の蒸し煮、海老まんじゅう、青菜と卵のピリ辛炒め、炒飯。道観では簡素な食事が多かったから、よだれが出そうだ。


「ちょっと可愛い顔してるからっていい気になるんじゃないよ。こういうときは遠慮するもんなの」


 姐さんの指導は厳しい。


「はい、お心遣いはまことに──」


「芙蓉、そんなに怒ると美しい顔が台無しだ。これはおれのわがままさ。幼い子供が飢えている姿は嫌いなんだよ。見ていると涙が出てくるのさ。偉大な普丹国の官吏なのに、少しでも世の中を良くしたいと望む真心はいつも空回りする。ふがいなさで泣きたくなる」


「李高、優しい人、もう泣かないで。……じゃあ、いいわ。朱老太婆に見つからないように、さっさと食べちゃいなさい」


 芙蓉は照勇にあごで指示した。感情の起伏が激しいが冷酷な女性ではなさそうだ。

 許可が出たので皿を引き寄せ箸をつかんで一気に口腔に流し込んだ。

 君子たるもの、食の不満は漏らさないものだ。冷めていても不味くてもつましくても、文句を言ってはいけない。そう言われて育った。

 道観の食生活は質素で、満腹するまで食べるのはよくないとも言われていた。年に何回かはごちそうが出たけれど、はて、今思えばあれはなんの祝いだったのだろう。だが余計なことを考えてる余裕はない。

 ただ、がつがつと頬張った。


「おいひい」


 喉が喜びに震えている。胃が熱を発する。少し味付けが濃い気もするが、照勇の手はとまらなかった。


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