第12話 樫の木と子猫

 ちょうど食堂に足を踏み入れたところで、お盆を手に厨房から出てくるフィルを見つけた。様子見も兼ねて声を掛けてみる。


「おはよう」


「おおおおおおは、おは、おはょう」


 「お」はたくさんついてるし、どもっているし、顔は真っ赤だし。

 緊張なのか、恥ずかしいのか、そのどっちもかな。


 目線を合わせるともっと慌てるだろうと思い、すでに食卓の準備がされていたテーブルに向かい歩き出す。

 椅子を引き寄せて座れば、バロンもその脇にお行儀よく座って、フィルを見上げている。


 幸いお盆を落とすことなくテーブルに近づいたフィルが、ティーポットとカップをテーブルに降ろして朝のお茶を用意してくれる。軽やかなこぽこぽという音に合わせてカップを満たすのはミントの香りがするハーブティだ。


「はい、どうぞ」


 うっすらと耳が赤いままだが、それでも平静を装った感じでカップを渡してくれる。


「ありがとう。今日もいい香りだな」


 カップから立ち昇るハーブティの香りは心地よい。


「母さんのハーブティはいつだって素敵だもの」


 ハーブティを褒められてふふっと嬉しそうな笑顔が出たところで、いつもの雰囲気を取り戻したようだ。そのまま視線をバロンに向けて、


「バロンも今日はここで食べる?お野菜スープにパンを入れて、卵を落としてあるよ」


「わふっ!」


 すっかり泥が落ちて綺麗になったバロンが、待ちきれないと言いたげに足踏みする様を見て、くすくすと花びらが零れるように笑う。


「バロンもここで食事するなら、フィルも一緒だな」


 昨夜の食事は同席しなかったが他に泊り客もいないことだし、誘っても問題ないだろう。何より彼女の様子も確かめたいし。


「えっ、いや、そんな」


 お盆を小脇に挟んで両手を胸元で無理無理とでもいいたげに振りながら、顔を赤らめて答えるフィルだが、もう一押しかな。


「一人で食べても淋しいんだよな。せっかくのおいしい食事なのに」


 がっかりした感を全身で表しつつ、すっと視線を窓の外に向ける。


「う、また、そういうことを……」


「…………」


 こういう時は瞳を合わせずに無言を通すのがいい。

 窓の外を見つめたままに頬杖をついて、ふぅーっと落ち込んだような息を吐いてみる。


「……用意、してくる、から」


 うううっという謎の声を上げた後に、かなり小さな声でそう告げてパタパタと厨房へ逃げていく様が子犬のようで可愛いらしくて、横目で追いかけながら小さく笑ってしまう。


 少し待つ間、昨日の話を思い出しながらぼんやりと窓の外を見る。

 

アルベルトさんとロゼリアさんがいなくなったことで、フィルがこの宿をおしまいにするつもりでいることは想像できた。

 両親と3人で切り盛りしていた宿屋だ、成人したての彼女一人で切り盛りすることは難しいだろう。とはいえ、宿屋を終わらせてその後、彼女はどうするつもりなのだろうか。


 さわやかなミントが香るハーブティを口にしながら、そのことについて聞いた方がいいのかどうか、少し迷っていた。


 ――聞いたところで、俺は何か出来るのだろうか?


   聞くだけでも、彼女の辛さを和らげることは出来るのか?


 どこまでが優しさで、どこからが自己満足なのか。


 二年前に三カ月ほど一緒に暮らしただけの俺が何かしていいのか、何か出来るのか。


 彷徨っていた視線が、窓枠に切り取られた風景の中に佇む樫の木に捉われる。

 あの樫の木は、フィルが中ほどの枝で竦んで動けなくなってしまった子猫を助けようと木登りをして、子猫の場所まで行けたはいいが降りられなくなってしまった思い出の木だ。あの時は俺が登ってフィルと子猫を助けたんだっけな。


 何となく両手を軽く握ったのは、あの時抱き上げたフィルの感触を何となく思い出したからだ。俺より五つ下で、当時はお兄ちゃん的な存在がいなかったせいかよく懐いてくれていた。なので妹のような存在だったなと思いだして、軽く握った両手に無意識にきゅっと力がこもった。


「――……?」


 ずいぶん懐かしいことを思い出したな。ふるっと頭を軽く振るう。

 そんな風に思ったところでフィルの声がして、今に意識が戻ってくる。

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