第5話 だからね、旅に出ようと思って
「朝ごはんが出来ましたよー」
宿の裏手にある小さな畑で鍬を振り下ろしているレオンに向けて声を掛ける。
今日もいい天気で、風も爽やかで、うーん、とっても気持ちいい。
こちらを振り向いたレオンが軽く手を挙げて答えてくれたのを見て、朝ごはんの仕上げをしちゃおうと思い室内に戻る。
「……と、念のため」
戻る道すがらにあるボイラーの前で足を止めて、魔石の上に手のひらをかざす。
「炎よ・熱となれ」
ちょっと手のひらが温かくてくすぐったくなる感触がして、魔力がふわりと魔石に向かうことが感じる。今のうちにボイラーを点火しておけば、ちょうどレオンがこちらに来る頃にはシャワーが使えるようになっているだろう。
「わん」
レオンと一緒に畑に出ていたバロンが一足先に戻ってきて、ひょいと足元に現れた。そのままいつものように体をこすって挨拶してこようとしたので、慌てて逃げる。
「わわっ!さすがにダメ!」
レオンの傍(つまり畑)で一緒に土をほじったりゴロゴロしたりしたのだろう、見事に泥だらけでさすがに触れたくない。
「くぅぅ~ん」
う、そんな顔と声を出して見上げても、ダメです。きゅんってしちゃうけど、ダメです。
「レオンに洗ってもらいなさい。それからご飯よ」
きぱ。と言い放って鼻の頭にちょんと触れる。それでもうるんだ瞳が見上げてくるが、ここで仏心を出したら宿屋の中が泥だらけになってしまうので、ぎゅっと気持ちを引き締める。
「お、何してるんだ?」
農耕具を納屋にしまって戻ってきたレオンが首にかけたタオルで汗を拭きつつ、私とバロンを見比べて声を掛けてくる。
「ごめんね、バロンと一緒にシャワーしてもらえるかな?」
「ああ、構わないぞ。というか、お前、その姿のままで宿に戻れるわけないだろうが」
しょんぼりと尻尾も耳も垂らしているバロンの様子を見て、ぷっと噴き出している。
「あぁ、ついでに野菜も収穫してきたぞ」
小ぶりなザルの中に、トマトとレタスとキュウリがちょこんと収まっていた。
わーい、ちょうどいい、朝ご飯のメニューに加えて楽しもう。
「ありがとう。じゃ、二人がシャワー浴びたら、すぐに朝ごはんだから」
もう一度よろしくね、とバロンのことをお願いしてからザルを手に厨房に向かう。
――うん、よし。レオンと普通に話せた。
彼が訪れた昨日、両親のことを聞かれてふがいなくも泣いてしまって、なんとも恥ずかしい姿を見せてしまった。
あの時は気持ちを抑えることが出来なかったし、ありのままに伝えるように頑張ったつもりだけど、あれ以上にどうにかうまくすることが出来なかったのも本当だと、今考えても思うけど、それでも、めっちゃ恥ずかしい。
今朝起きた時にはそんな思いが体中120%で駆け巡ってしまって、ベッドの上で10分以上悶絶していたのは、誰にも言えない。いや、言う人もいないですけど。
声にはならないけど、ああああ、とか、くぅぅぅぅ、とか。なんか、変な声を出しつつ真っ赤になっているだろう顔を押さえてシーツにくるまってじたばたと悶絶した。
とはいえ“踊る小鹿亭”のオーナーとしては、宿泊客であるレオンをほっておくわけにはいかない。当たり前だけど。
ひとまず身支度を整えて部屋を出て、厨房で朝ごはんの支度を始める。
いつもと同じ動作を繰り返すことで少しだけ冷静になれた気はする。……なれた気はするけれど、ベーコンエッグの黄身が丸く仕上がらなかったのは、まぁやっぱりそのなんというか……(ごにょごにょ)
朝ごはんの支度をしている間はそちらに集中していたので気にならなかったけれど、支度が全部終わったならば彼に声を掛けねば。
そう思った瞬間に、またしても悶絶120%の何かが強烈に襲ってきた。
ふゃああとか、うにゃぁぁとか、またしても変な声が唇から漏れてしまって、もう顔も赤いだろうなぁ、こんな状態でレオンの部屋に行くなんてハードル高すぎるよっ!
もうこんな時に気分を落ち着けるなら、バロン、バロンだ。バロンしかない。
はぁはぁと肩で息をしながら辺りを見て、はたと気付く。
いつもなら厨房の入り口で大人しく待っているバロンがいない。
厨房はお料理するところだから、バロンは入ってきたりしない。それでも私のそばにいることが多くて、私が厨房にいる時は入り口でごろごろと待っていることが大半だ。
「あれ、バロン?」
ぱちぱちと瞬きをして、目をこすってみて、それでも厨房の入り口にバロンの姿はなかった。
そういえば、昨夜も私の部屋には来ていなかった。
きっとバロンの優しさだったのかな。そう思う。多分なんだけど、私を一人にしてあげようって思ってくれたんだと思う。
母さんを、続けて父さんを失った時、目が腐っちゃうんじゃないかってぐらいに泣いた。ずっと泣いてた。涙が出なくなっても、気持ちはずっと泣いてた。
でもずっとずっと泣いていても、母さんも父さんも戻ってきてくれるわけじゃなかった。
だから、ある時、バロンに告げた。
「もう君の前で泣かないよ。これからは君と笑顔で過ごしていくんだ」
泣きはらした真っ赤な目で言ったのに、バロンはぺろんと頬っぺたをなめてくれた。
わかった。と言ってくれたようでもあるし、それでも泣いていいんだよ。と言ってくれたようでもあった。
だからなのか、私が様々な思いから涙を零しそうになったり、ひどく泣きたくなった時にだけ、ふっと姿を消すことがある。そして、私が泣き止む頃には傍らに戻ってきている。
まるで「もう君の前で泣かないよ」と言った言葉が本当になるように。
確かに昨夜はレオンに話したことで記憶の糸が解かれて、懐かしい思い出がこみ上げて涙が零れた。昔に比べれば少しだけだと思うけれど、でもやっぱり、母さんと父さんのことを思い出せば、自然と涙は零れた。
多分だけど泣き疲れて眠っちゃってた。そして今朝の悶絶120%に繋がるんだけどね。
「はぁぁぁぁぁ…」
とりあえず、ここでこうしていてもどうしようもない。てか、せっかくの朝ごはんが冷めちゃう。
ぱちん!と両手で頬を軽く叩いて。うん、と頷いて厨房から歩き出す。
レオンの部屋は2階の角部屋。多分、バロンもそこにいるでしょう。
扉の前で深呼吸して、やっぱり気恥ずかしくて、ブラウスとスカートとエプロンの付いてもいない埃を払って、もうごまかせる何かが無くなったので意を決して扉をノックする。
「…………?」
はて、応答がない。
以前宿泊していた時は、ノックして応答がないようなことはなかったんだけどな。
「えっとぉ、入り、ます、よ?」
昨日の事もあったので気まずいけれど倒れていたりとか何かあったらまずいかなと思って、もう一度ノックしてからそっと小さめに扉を開いて、まずはそろっと片眼だけで中を覗いてみる。
ありゃま、いない。
――ちょっと、ううん、かなり緊張してた。ことに、自然に「ほふっ」と息を吐いたことで気付く。
緊張した分だけ拍子抜けして扉をがばっと開き、ついでだと思って半開きになっていたカーテンを開けて、窓も開けて室内の空気の入れ替えをしちゃえ。
襟足で緩く結んだだけの髪を、窓から流れてきた穏やかな風がなびかせる。その心地よい空気にう~んと伸びをして、深呼吸をして。
私の中のぐちゃっとした行き場のない恥ずかしさを、その心地よい風が洗い流してくれたように感じて、気持ちいい。
うん、部屋にいないなら裏庭で鍛錬しているか、畑仕事をしているかでしょう。でもってバロンも付いて行っている、と。
うん。一つ頷いて裏庭へと移動して、予想通りに畑仕事をしているレオンとバロンを遠目に見つけて、声を掛けたのだった。
食堂からは朝ごはんのおいしい香りが漂ってきていた。
そちらに足を向かわせながら昨日のシチューもうまかったな。と思い出す。
野宿の間は携帯食をかじって水を飲むぐらいしか出来なかったので、温かい食事がおいしい味で出てくるなんて最高だなとしみじみ思う。
バロンもご飯が楽しみで待ちきれないようだ、ひょいと俺の前に出る。
半歩先を行くバロンのふさふさとした尻尾が大きく左右に楽し気に揺れて俺の足にぱさぱさ当たる。まだ水気が残っているせいか少し重みがある。
――ふむ。
自分の髪もタオルで乾かしはしたのだが、まだ水気が残っている。昨日のことも有るし、ちょっと試してみるか。
「水よ・舞い上がれ」
歩きながら軽く魔力を流すことで、俺の髪とバロンの身体に残っていたシャワーの水気が小さな粒になってぽわぽわっと舞い上がり、大きく薄く広がってすうっと消えていく。
このぐらいの軽い魔法なら昨夜のように魔力が乱れることはなさそうだ。数秒の後には俺の髪もバロンの身体もさらりとした手触りになった。
とはいえ、まだ強い魔法を使った時に魔力が乱れないかどうかに自信がないし、注意して様子は見続けた方がよさそうだ。
ちょうど食堂に足を踏み入れたところで、お盆を手に厨房から出てくるフィルを見つけた。様子見も兼ねて声を掛けてみる。
「おはよう」
「おおおおおおは、おは、おはょう」
「お」はたくさんついてるし、どもっているし、顔は真っ赤だし。
緊張なのか、恥ずかしいのか、そのどっちもかな。
目線を合わせるともっと慌てるだろうと思い、すでに食卓の準備がされていたテーブルに向かい歩き出す。
椅子を引き寄せて座れば、バロンもその脇にお行儀よく座って、フィルを見上げている。
幸いお盆を落とすことなくテーブルに近づいたフィルが、ティーポットとカップをテーブルに降ろして朝のお茶を用意してくれる。軽やかなこぽこぽという音に合わせてカップを満たすのはミントの香りがするハーブティだ。
「はい、どうぞ」
うっすらと耳が赤いままだが、それでも平静を装った感じでカップを渡してくれる。
「ありがとう。今日もいい香りだな」
カップから立ち昇るハーブティの香りは心地よい。
「母さんのハーブティはいつだって素敵だもの」
ハーブティを褒められてふふっと嬉しそうな笑顔が出たところで、いつもの雰囲気を取り戻したようだ。そのまま視線をバロンに向けて、
「バロンも今日はここで食べる?お野菜スープにパンを入れて、卵を落としてあるよ」
「わふっ!」
すっかり泥が落ちて綺麗になったバロンが、待ちきれないと言いたげに足踏みする様を見て、くすくすと花びらが零れるように笑う。
「バロンもここで食事するなら、フィルも一緒だな」
昨夜の食事は同席しなかったが他に泊り客もいないことだし、誘っても問題ないだろう。何より彼女の様子も確かめたいし。
「えっ、いや、そんな」
お盆を小脇に挟んで両手を胸元で無理無理とでもいいたげに振りながら、顔を赤らめて答えるフィルだが、もう一押しかな。
「一人で食べても淋しいんだよな。せっかくのおいしい食事なのに」
がっかりした感を全身で表しつつ、すっと視線を窓の外に向ける。
「う、また、そういうことを……」
「…………」
こういう時は瞳を合わせずに無言を通すのがいい。
窓の外を見つめたままに頬杖をついて、ふぅーっと落ち込んだような息を吐いてみる。
「……用意、してくる、から」
うううっという謎の声を上げた後に、かなり小さな声でそう告げてパタパタと厨房へ逃げていく様が子犬のようで可愛いらしくて、横目で追いかけながら小さく笑ってしまう。
少し待つ間、昨日の話を思い出しながらぼんやりと窓の外を見る。
アルベルトさんとロゼリアさんがいなくなったことで、フィルがこの宿をおしまいにするつもりでいることは想像できた。
両親と3人で切り盛りしていた宿屋だ、成人したての彼女一人で切り盛りすることは難しいだろう。とはいえ、宿屋を終わらせてその後、彼女はどうするつもりなのだろうか。
さわやかなミントが香るハーブティを口にしながら、そのことについて聞いた方がいいのかどうか、少し迷っていた。
聞いたところで、俺は何か出来るのだろうか?
聞くだけでも、彼女の辛さを和らげることは出来るのか?
どこまでが優しさで、どこからが自己満足なのか。
二年前に三カ月ほど一緒に暮らしただけの俺が何かしていいのか、何か出来るのか。
彷徨っていた視線が、窓枠に切り取られた風景の中に佇む樫の木に捉われる。
あの樫の木は、フィルが中ほどの枝で竦んで動けなくなってしまった子猫を助けようと木登りをして、子猫の場所まで行けたはいいが降りられなくなってしまった思い出の木だ。あの時は俺が登ってフィルと子猫を助けたんだっけな。
何となく両手を軽く握ったのは、あの時抱き上げたフィルの感触を何となく思い出したからだ。俺より五つ下で、当時はお兄ちゃん的な存在がいなかったせいかよく懐いてくれていた。なので妹のような存在だったなと思いだして、軽く握った両手に無意識にきゅっと力がこもった。
「――……?」
ずいぶん懐かしいことを思い出したな。ふるっと頭を軽く振るう。
そんな風に思ったところでフィルの声がして、今に意識が戻ってくる。
「お待たせ」
樫の木から室内に視線を戻せば、テーブルの上には野菜たっぷりのスープに丸パンが入った篭と自家製のジャムが並べられて。出来立てらしいベーコンエッグには、先ほど収穫した野菜を使ったサラダが添えられている。
ちゃんと二人分用意してきたことに安心して、口元が緩く笑みを浮かべた。
「バロンの分も持ってくるからね」
フィルが厨房に向かっている間に俺は席を立ち、向かい側の椅子の傍へと移る。
バロン専用の食器である大きめの深皿を手に戻ってきて、俺が立っているのを不思議そうに見つつ、行儀よく待っているバロンの前に身をかがめる。
大きめの布を敷き深皿を置く。中身は先ほど言っていたバロン用に作った野菜スープのパン粥だった。
「こちらへどうぞ」
少しだけ気取った声を出して、椅子を引く。キョトンとしたフィルの表情にぷっとした笑いが出てしまう。
「ほら、朝ごはん、一緒に食べるんだろ?」
促すように声をかけて、椅子の背をぽんぽんと叩く。
ハッとしたフィルがすぐに真っ赤になった。こういうやり取りに慣れていない様子がありありと伝わってきて、可愛らしいなと思ってしまう。
「ああああああありがと」
先ほどの「お」連続に続き今度は「あ」が連続で発音されているがそこは聞き流して、彼女の座る速度に合わせて椅子を整える。
ゆっくりテーブルの脇を回って俺も椅子につく。
「くぅぅー」
待ちきれないらしいバロンがねだるような声を出したことで、フィルが慌てて「こほん」と咳ばらいをひとつして、
「みんなで一緒にいただきますだからね?」
今にもボウルに顔をつっこみそうなバロンに告げながら、両手を合わせて目を閉じる。
「今日も食べ物に感謝して、元気にいただきます」
フィルにあわせて両手を合わせながら、あぁそうだ、アルベルト家族はいつもこうして食事の前にこの言葉を口にしていたことを思い出す。
「わぉん!」
バロンもいただきますの代わりらしい一声を上げて、すぐさまボウルの中へ顔をつっこんだ。
まぁ朝から俺と一緒に畑仕事というか遊びまくっていたのだから、空腹でもおかしくない。かくいう俺も腹は減っている。
丸いパンを半分にちぎり、切り分けたベーコンエッグをのせてパクリ。
「ん、うまい」
「んっふっふ、ジョゼフおじさんのベーコンだもん、おいしいよぉ」
俺の評価に喜んだのか、にこにことしたフィルは野菜スープを口にしている。
そのまましばし食事をすることに専念し、あらかた食べ終わったところを見計らって声を掛けてみた。
「――少しは落ち着いたか?」
「…ん。
昨日は…ごめんね。てか、ごめんねっていうのも変だよね」
「いや、あんな事情があるとは思わなかった。答えにくいことを聞いて悪かったな」
ちょっと俯いたフィルはぬるくなっただろうハーブティを口にして、それを飲み込むまでの時間を少しの沈黙に変えて。
「レオンが謝ることないよ。
逆にね、昨日はありがとう、話を聞いてくれて」
一晩経って少しは落ち着いたか、穏やかな笑みを浮かべながら軽く頭を下げて謝意を伝えてくる。ふんわりと広がった亜麻色の髪が窓から差し込む光の中で揺れて、とても綺麗だった。
「それで、踊る小鹿亭は今月末で……」
「うん。さすがに私一人じゃ切り盛りしていけないし、誰かを雇って続けるのも難しいし」
一瞬迷う。この先のことを俺が促していいのかと。
俺が問いかけを続けるより先に、フィルがほんわかと笑って言葉を続けた。
「だからね、旅に出ようと思って」
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