第2話 「踊る小鹿亭」
―――ここを訪れるのは、二年ぶりだろうか。
看板を見上げたレオンはそう思った。
暖かくなりだした季節の夕暮れに近い時間。太陽が稜線に近づいて闇の帳がゆっくりと降りてくる少し前の暮れゆく弱い日差しを浴びている看板には、宿屋を表す共通の印の上に跳ねている姿が踊っているように見える愛らしい小鹿が一匹描かれている。
深みのある琥珀色の視線を看板から玄関に向ければ、二年前の記憶と変わらぬ穏やかな佇まいが迎えてくれる。
ここはアルタリア国オランジェ村にある「踊る小鹿亭」という小ぶりな宿屋だ。
二年ほど前にこの近くに出没した魔獣討伐の依頼を受けて訪れた際に色々とあって、この宿に三カ月ほど逗留したことがある。
今回も近くの村に依頼された魔獣討伐の依頼を済ませて一息ついたところで、再発している魔力酔いにも似た原因不明の体調不良も相まって、そういえば。とこの宿のことを思い出したのだ。
あの魔獣討伐の際、事前に得ていた情報よりも強力な魔力を操る魔獣を倒すためにこちらもかなり強力な魔法を使ってしまい、ひどく魔力バランスを崩した。それが引き金になって魔力暴走を起こしかけ、かなり危ない状態に陥りそうになっていたところを黒犬のバロンと踊る小鹿亭の主人であるアルベルトに助けられて、この宿に運び込まれた。
氏素性も何もわからない俺をそのまま受け入れたアルベルトの度量もなかなかのものだと思うが、そんな俺をアルベルトの妻であったロゼリアと一人娘のフィランゼがせっせと献身的に面倒を見てくれたのだ。
実は討伐より一年ほど前からずっと続いていた魔力酔いにも似た体調不良もいつの間にかまったく感じなくなり、以前よりはるかに整った体調と魔力に驚きながらとても気分よくここでの生活を満喫していたのだが、三か月を迎えた頃には魔獣討伐の依頼主からいい加減討伐結果の報告をしに帰って来いという伝言が何度も届いて、しぶしぶながらも長逗留したこの宿を離れたのだ。
――きぃぃ。
二年前のことを昨日のことのように思い出しながら両開きの扉を開くと、上部に取り付けられたカウベルのような鈴がカランコロンと軽やかに音をたてる。
玄関に足を踏み入れて見渡せば入ってすぐの正面に受付台があり、左手には食堂へ向かう扉、右手には応接スペースという二年前と変わりない姿が迎えてくれた。
小ぶりな魔石のランプがほんのりと灯りを放ち、宿内のそこかしこはきちんと掃除がされていることが分かる。が、なんとなく違和感を覚えて辺りを見渡してしまった。
そうか、以前なら受付台にはよくフィランゼがおり、足元には黒犬のバロンが従者のように伏せていた。人が来たならば、すぐに笑顔で出迎える娘だった。そしてロゼリアとフィランゼが摘んできた土地の花々が活けられた花瓶があった。
笑顔と花瓶に花が無いこと、そのせいなのか灯りはあるのに室内の雰囲気に少し重苦しさがあることになんだか違和感を覚えたのだろう。
数歩の距離を縮めて、そっと受付台の奥を覗き込んでみる。
「――!」
受付台より低い位置に備えられた机の上に、豊かな亜麻色の髪が緩いウェーブを描きながら豊かに広がっていた。
どうやら机に突っ伏している人物がいるようだ。そして俺が知る限り、この滑らかな亜麻色の髪を持ち、ここにいるだろう人物はフィランゼしか浮かばない。
もしや何かあって倒れているのかと一瞬ドキリとしたが、すぐに健康的な寝息が聞こえてきた。どうやらカウベルの音でも目を覚まさなかったようだ。
そして覗き込んだことで、その奥で同じように扉が開くまで昼寝をしていただろうバロンの黒曜石に似た吸い込まれそうな深い黒の瞳と視線が交わった。とたん、バロンの尻尾が勢いよく左右に振られる。
「ぅにゃっ!?」
バロンの尻尾に足のすね辺りを思いきりくすぐられたらしく、突っ伏して寝ていただろうフィランゼが奇妙な声を上げて飛び起きた。
「なになになになにっ?!」
慌てて辺りを見回す動きに合わせて腰まである亜麻色の髪が左右に大きく波打つ。彼女自身はくすんだように見える亜麻色よりも金髪が良かったとよくぼやいていたが、俺はフィランゼの髪の優しい色合いとしなやかな手触りが好きだと思っていた。
「フィル、久しぶり。すまない、驚かしたか?」
一呼吸の間をおいてから、ゆっくりと声をかけてみる。
勢いよくこちらを振り向いて、視線を合わせて数秒、俺が誰かを確認しているような眼差し。その間にバロンは受付台の奥から走りて出てきて俺にじゃれついてきていた。
「バロンも久しぶりだな。相変わらずいたずらしているのか?」
「わふっ!」
軽く身を屈めて手を伸ばし、バロンの頭と額を撫でてやる。バッサバッサと音がしそうなほどの勢いでバロンの尻尾が左右に振られる。
数度バロンを撫でた後に身を起こして、改めて目の前のフィランゼを見る。
二年前に比べて少し背が伸びて、全体的に女の子から少女へと成長したように感じた。
「レッ、レオン?!」
それでも記憶の中と変わらぬくりんとした深い緑色の瞳をさらに大きくさせて、こちらをほわっと見ている。
ふっくらと柔らかそうな頬の輪郭を記憶よりも伸びた亜麻色の髪が包んでいて、軽く首をかしげる仕草が可愛らしい。
「あぁ、久しぶりだな」
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