一九九二年、春。

 あちこちで緑が芽吹き、淡い色の花々が風景を彩る山笑う季節に、僕は三一歳になった。

 ぬるめの水門も開き、水路には少し温められた北アルプスの水が走り出す。

 両親からは未だに何の連絡もないが、あの二人のことだからきっと無事でいることだろう。

 そうであるから、今の僕は不安よりも、米作りを改めて学び直し、全てを一から始めたいという意欲で構成されている。

 三郎さんご夫妻のことは若干気がかりだが、二人とも僕への態度が特に変わったということもない。あの夜の話は整理がつくことではないが、三郎さんの心のほとんどはまだ満州に在って、できることならツバメになって飛んでいきたいと願っているのだと、僕は一人で納得することにした。

 ツバメと言えば、今年も軒先にやってきている。盛んに飛び回っては、口の中に何かを含み、古い巣を直しているようだった。

 そのとき、家の前の道に自動車が停まる音がした。

 振り返れば、一台のタクシーがあり、男女が荷物を抱えて慌ただしくこちらに向ってくる。

「今帰ったぞ、響一郎! そして結婚おめでとう! 信子さんはどこだ? 早く父ちゃんたちに紹介してくれ!」


 嗚呼、今の僕は、きっと土や虫を喰ったみたいに渋い顔をしていることだろう。



『ぬるめ』 ― 完 ―

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ぬるめ 津多 時ロウ @tsuda_jiro

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