四
冬。
高く、青く、どこまでも透明な空の下、周りの山々も、遠くに横たわる雄大な北アルプスも、そしてぬるめさえも、もうすっかりと雪に覆われ、ひたすらに真っ白な世界で、全てが眠っているようだった。
両親はまだ帰ってこない。手紙も無ければ黒電話も鳴らない。噂も入ってこない。
たまに信子のことを思い出し、どさりと落ちる雪の音で僕は
今の時期は、新米どころか稲作農家のスタートラインに立っているかどうかも判然としない自分には、やることがない。
それでも、何をやっているのか何でもいいから答えよと言われれば、夏の終わり頃から少しずつ作った野沢菜漬けや、分けてもらったり自分で買い込んだ凍り餅などを食べることくらいしかなかった。
それだけしか知らないのであれば、それがなくなると飢えてしまうのではないかと誤解されるかもしれないが、雪深い町ながらも除雪は丁寧に行われ、僕の住んでいる地区でも、皆で自発的に雪かきを行なっているので、市街地への買い物にも困ることはなかった。貯金もしっかりしていたから、お金も問題はない。
ただ、東京ではお目に掛かれない真っ白な世界を前にして、生き延びることや過去以外に考えが及びにくくなっていたことだけは確かだった。
ある日、家の前の道路の雪かきをしていたとき、通りかかった福子さんにその話をしてみたら、「藁でも編めば気も紛れるよ。草履なら響一郎さんにもできるんじゃないかな」と返ってきた。
それから僕は、藁草履の作り方を習う用事でも、三郎さん宅にお邪魔するようになった。もともと週に一度は昼でも夜でもご飯に呼ばれていたところで、今さらそこに藁草履作りが加わったところで問題はない。
そうして始めた草履作りも、むしろ藁を
そんな白く静かな日々が続き、雪の高さも低くなる三月になってすぐの頃、僕の姿は三郎さんの家の居間にあった。いつもは福子さんにお呼ばれしてご飯をご馳走になっていたのだが、この日は珍しく三郎さんに声を掛けられ、晩御飯を共にしているところだった。
いつもよりも晩酌のペースが早いことから、お酒を呑む相手でも欲しかったのかも知れない。そうであれば、一二月から月に一度はあったことなので、さして気にすることでもないのだが、今日はいつにも増して
やがて福子さんが指で小さくばってんを作る頃には、焦点も定まっていないように思えたのだが、そんなときに三郎さんが僕の顔をじっと見て言ったのだ。
「和夫、お前、いつ帰ってきたんだ」
僕の名前は響一郎であり、和夫という名前になったこともなければ、この近隣にもそのような名前の人物はいない。ちらりとお勝手の福子さんを見ると、酷く驚いた顔をして、黙って顔を横に振るだけだった。
「三郎さん、僕は近所の響一郎ですよ」
はっきりとそう答えたのだが、三郎さんはどこ吹く風で「丁度いい。俺はお前に話さなけりゃあいけないことがある」などと真剣な表情で言ったのだ。普段は儂と言っているくせに、さっきは俺と言うなど、こいつはどうにもおかしいと思って、再び福子さんの顔を見ると、小声で「最後まで聞いてあげて」などと言う。
これはきっと、
「俺はよ、昔は満州にいたんだ。まだお前の母さんと出会う前だ。満州で何をやっていたかといえば、新京に駐屯している下っ端の兵士をやっていた」
僕にとっては教科書の中のことでも、そうだ、そこで確かに三郎さんは生きていたのだ。
「和夫、俺は兵士をやっていたが、鉄砲を構えるよりは人と話すのが好きでな、満州人も日本の開拓団も、周りにいたのはいい奴ばかりだった。皆、本当にいい人だった。だというのに……。今ぐらいの季節だったか、軍の中にソ連が攻めてくるという噂が広がり始めた。俺は日ソ中立条約があるんだから、急に攻めてくるはずはないだろうと思っていた。だけど、どこでどうやったか知らないが、ソ連軍は満州に攻めてきて、満州にいた日本軍は上も下もなく、壊走するように撤退を始めたんだ。俺も上官に命じられて、深夜にトラックに飛び乗った。日本の民間人にも日本に協力してくれた満州人にも何も言わずにこっそりとな。でも、誰かが気付いた。下っ端に噂が聞こえるくらいだから、新京市内にも広まっていたんだろう。だから、兵隊を満載して走り始めたばかりのトラックに、民間人が何人も何人も、乗り込もうとして掴まってきたんだ。俺は最初、その手を掴もうとした。だけど上官は言った。振り落とせと。迷った。だけど軍の中で上官の命令は絶対だ。俺はできるだけ顔を見ないようにして、トラックの縁を握る手を銃床で叩いたんだ。何度も何度も。相手も必死だからな。手が血だらけになったってしがみついているのもいたんだ。だけど俺も上官の命令だから、なんとかして落とさなけりゃあいけない。だから、いっそう力を込めてその真っ赤な手を叩いた。何度も何度も何度も。そうして俺は佐世保まで逃げのびた。だが、親切にしてくれた人たちがどうなったのかは、今も分からない。だから、俺は戦争が憎い。戦争を始めた奴が憎い。ソ連が憎い。だけど、あのとき手を掴めなかった自分がもっと憎い。憎くて憎くて情けなくてたまらない。あのとき上官の命令に逆らって、手を掴むべきだったんじゃないかと今でも思う。絵空事かも知れないが、全員は無理でも、もっと沢山の民間人を逃がすことができたんじゃないかと思う。ああ、自分が憎くてしょうがない。……だから、恐くてしょうがないんだ。和夫、この地区はな、戦後大陸から引き揚げてきた人間が開拓したんだ。もしかしたら、その中に俺が振り落とした奴がいるんじゃないか、いつかバレるんじゃないか、いつか復讐されるんじゃないか。恐くて恐くてどうしようもないんだ。だから、だから……」
ふらふらしながら話していた三郎さんは、いよいよ眠くなったのか、ゆっくりと机に突っ伏して寝息を立て始めた。
そこへようやく福子さんがやってきて、コタツにあたりながら、少し小さな声で僕に話しかける。
「和夫はね、いないんだ。だから、あなたに話せてこの人も満足だったろうね」
「いない? 自分で所帯を持って遠くで暮らしているんですね」
「いいや、違う。もうこの世にいないんだよ。もう随分と前に死んでしまって」
戦争の音とぬるめで遊ぶ子供の声が頭でぐちゃぐちゃに混ざり、けれど、それも雪に吸い込まれて、夜は静かに更けていった。
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