第二十話 Sunny side up/太陽の方を向いて④

 どうやら、事件は解決したようだった。

 外の物音が止んで、『エデン』の職員が大勢やってきた。

 彼らはひどく衰弱した老爺と、拘束された二人の女性を連行していった。

 きっと、この事件の首謀者たちなのだろう。

 ノエル・"ノイズィ"・トランペットは、ただその光景をぼんやりと眺めることしかできなかった。


 『エデン』の職員が大勢やってきて、老人と二人の女を連れて行くのが見えた。

 カブト自身は、まだ現れない。無事なのだろうか、と考えて、すぐに無駄な事だと思った。

 二人の女はきっとこの事件の実行犯で、彼女たちが拘束されたのなら、それを実行したのはカブト以外にあり得ない。

 ならば、無事なはずだ。

 元より、戦って敗ける姿など想像できない男だった。心配する必要はないと思った。


 ノエル自身も『エデン』職員が連れ帰る筈だったが、ロゾロ・ラジーンのドラゴン義体の処理が難航していて、今少しその場での待機を余儀なくされていた。


 かつて棺屋のセーフハウスだったこの場所は、安全が確保された今なお、虚無の匂いに満ちていた。

 人魚の連続失踪という事件を知った時、ノエルはただ恐ろしいと感じた。

 誰が、どんな目的でそんなことをするのだろうと。そして、そう思うだけで、実のところは他人事のように感じてもいた。『エデン』の施設で半ば保護されて生活している自分には関係のない事だろうと。

 だから、その中の一人に自分の知り合いが混じっている事を知った時にも、特段危機感を覚えたわけでもなかった。

 以前に参加した同じ転生を患った者同士のカウンセリングで知り合った、人魚の女性。生体拡張義肢を使用してすっかり人魚の体になった彼女は、第四地区のバーで踊っているのだと言っていた。店に備え付けの大きな水槽の中で、その美しいひれを舞わせて、踊っているのだと。

 いつか、結婚するのだと言っていた。相手は人間の男だという。種族の異なる者との結婚への不安を口にしていた。それは、この都市に生きる多くの転生者の抱える、恐らくは決して消える事のない悩みだった。だが、同時に未来への期待に満ちてもいた。転生によってかつての生活や家族までも失ってしまった者が、新たに幸せを掴む事ができるのだという、驚きに満ちた、幸福への期待。

 それが、失われた。

 恐らくはこの事件で死亡した多くの者が彼女と同様の苦悩の中で、それでも未来の幸福を夢見ていたはずだった。それらは全て死を恐れる男の、狂った妄念のために無為に消費され、何の価値もなく無機質な血肉に変わった。


 その惨状を想像した。

 失われたものの膨大さに思いを馳せた。

 そして、そうして失われたものが、きっとこの世のほとんどの人間にとっては取るに足らない として忘却される事を思った。


 その時、声が聞こえた。


『彼女の悲しみに報いることが出来るのはお前だ』


『彼女の怒りを知らしめられるのはお前だ』


『この世から永遠に失われてしまったものを消し去らずに居られるのはお前だけだ』


『お前だけがそう出来るのだ』


『お前にそれが出来ないのなら』


『パパとママも消えてしまうぞ』


 脅迫的な声の導くままに、ノエルは施設を飛び出した。

 どうして、自分がなんとかしなくてはならないなんて思ったのだろう。

 どうして、自分が彼女たちを助けなければならないと思ったのだろう。

 どうして、自分にそれができるなどと、思ってしまったのだろう。


 そんなものは、言うまでもなくただの勘違いだ。この街で自分を人間ではない何かだと思い込んでしまった者達と同様の、あるいはそれ以上に救いのない思い込み。

 施設を抜け出して都市に出て、自分は人魚だと吹聴した。生体拡張義肢は用いていなかったが、『エデン』の発行した手帳を使えば、それを証明することは容易かった。

 そうすれば、いつか向こうから接触して来るだろうと考えた。

 その考えは正しかったが、間違っていた。相手は、ノエルの想像よりも遥かに巨大な存在だった。そうして犯人に接触しても、ノエルには彼らを捕まえる力も権限も無かったし、機転を利かせてどうにか助けを呼ぶのが精一杯だった。

 カブトとギギが間に合ったのは、ただの偶然だった。何かが少しでも違っていれば、ノエルも食われていたのだろう。

 彼女たちと同じく、どんな期待も苦悩も関係なく、なんの価値もなく食われ、死んだのだろう。

 あとに残ったのは、そこにあったはずの痕跡のみ──膨大な虚無の爪痕。


 ひどい勘違いだった。自分に、誰かを助けることができるなどと。

 けれど、そうせずにはいられなかったのだ。

 そうしてくれた人が居たから。自分が悪運と悲劇の中で無為に死にゆくだけだったその時に、助けてくれた人が居たから。

 だから、そうしたのだ。

 ノエルは、彼女のようになりたかったから。


「しかし、ひどい場所だね」


 声がして、ノエルははっと顔を上げた。

 気づけばあたりはすっかり暗くなって、明かりの消えた部屋の中ではそこに立つ人物の表情さえ容易にはうかがい知れなかったが、それでもノエルにはそこに居るのが誰かがわかった。

 けれど、信じられなかった。ここに居るはずのない、居るべきではない人物だった。


「羽がすすけてしまいそうだよ。外というのは、存外落ち着かないものだな」

「アンジュ……」


 薄暗がりの中でも、ノエルには彼女の表情がわかった。

 いたずらを思いついた子供のような、どこか幼くて可憐な笑み。


「どうして……」


 彼女がこんなところに居るはずがなかった。

 天使の転生は『エデン』でもほとんど前例を確認できていない非常に稀な症例で、故に彼女は『エデン』から厳重にその存在を秘匿され、保護されている。

 ノエルとは扱いが違う。間違っても、脱走なんてできるはずがない。


「もちろん、許可を得て出てきたんだよ。君のように無断で外出するというのも冒険心をくすぐられて素敵だが、このほうが幾分優雅だろう?」


 微笑みながら、アンジュが歩み寄ってきた。

 自分がひどく薄汚れているような気がして、ノエルは目を逸らした。


「けがは無いかい? ノエル」


 アンジュはノエルの前に座り込んで、俯いた彼女の表情を覗き込んだ。

 この世のどんなエメラルドよりも深い色をした、大きな碧色の瞳。

 その目には初めて会ったその日から変わらず、慈しみが込められていた。

 どうして自分のことをそんな風に見ていられるのか、不思議に思うほどに。


「なんで……なんで来たんだよ、アンジュ」

「心配だったんだ。君のことが」

「くそっ……」


 ノエルは何かを言おうとした。

 だが、言葉は出なかった。自分の惨めさを怒りに変えて彼女にぶつけようとした。その目で見た悪徳を伝えようとした。自分の無力さを伝えようとした。その屈辱と、後悔を言葉にしようとした。

 だがそれらは言葉にならずに、ただ涙になって流れた。

 アンジュの白い無垢な翼が、流れ落ちた涙を拭った。

 ノエルは、アンジュの目を見た。天使は囁くように言った。


「わかったんだ、ノエル。私にも、私のなぞなぞリドルの答えが」


 "出題者クエスチョナー"自らによる、自身の抱えた謎の答え合わせ。

 ノエルは、その声に耳を澄ませた。


「事件屋になろう、ノエル。私と一緒に」


 ノエルは驚愕に目を見開いた。彼女の言葉の意味を、理解しようとした。


「君は外に出るべきだ。君の声は、君自身の失くしてしまったものよりも沢山の人を救えるはずなんだ」


 ノエルが『エデン』を抜け出す前にも、彼女はそう言った。

 ノエルは外に出るべきで、自分とは離れるべきだと。

 ふざけるな、と思った。

 カブトもアンジュもギギも、誰も彼もが自分を置いて行こうとする。そうして、自分だけを危険から遠ざけようとする。

 冗談じゃないと思った。だから、反抗した。


 結果はこの通りだ。ひどく惨めな気分だった。

 また、涙が溢れた。


「君は外に居るべきで、そのための助けをするのが、私にできる事だったんだ……けど……」


 アンジュが言い淀んだ。

 珍しい事だった。アンジュはどんな時も自分の口にすべき答えを知っているように話す。ノエルも、無意識のうちにそう信じていた。彼女は全知全能の存在なのだと、どこかで錯覚していた。

 まるで人間のように言葉を詰まらせるアンジュから、目が離せなくなる。


「夢を見るんだ、いつも」


 躊躇うように、天使は言った。

 発せられる言葉それ自体が、痛みを伴うかのように。


「大切な人が居て、その二人に、同時に危険が迫った。トロッコの問題と同じだ。私に出来るのは、を決める事だけだった。それだけだったが、それを出来るのは私だけだった。私は、捧げられる一人と、救われるべき一人を選んだ。選んでしまった」


 過去の話をしているのだ、と思った。

 カブトとアンジュの間にあった過去。彼らが決して口にはしない、決別の記憶。

 人口転生者の脱走事件と、その封じ込めのために発令された秘匿業務司令。

 ノエルにそれを知る術はない。

 ただ、アンジュの口にする言葉から、強い悲痛を感じるだけだった。


「私が選んだ選択は、結果としてその二人ともを死なせなかった。だが、間違っていた。私の手が血で汚れることはなかったが、そのために、私の大切な人が煽りを食うことになった。彼の手は十分すぎるほどに血で汚れてしまった。……彼はきっと、自分のことを怪物になったと思っている。私のせいで」


 殺戮者スローター──事件を経て染み付いた、カブトの異名/悪名。

 彼がそうなるきっかけを作ったのは自分だと、天使は懺悔を捧げるように言った。


「……後悔しているんだ。夢に見るのは、いつも、あの日違う選択をした自分の姿だ」

 

 陳腐な言葉だった。

 普段の彼女なら、決して口にはしないだろうと思えるほど。

 だから、聞かずにはいられなかった。


「どうして……?」


 どうして、それを自分に話してくれたのだろう?

 カブトを、大切な人を傷つけてしまった事を。

 その事で、自分が深く傷ついてしまったことを。


 ──どうして話してくれたの?


 幼稚ななぞなぞリドル

 相手が自分の望む答えを口にすることを期待して。

 それでも、ノエルにはその答えが必要だった。夜に怯える幼子のように震える声で問いを口にして、ノエルは天使の答えを待った。


「……人間と人間の間に生じる問題は、なぞなぞリドルのようなものだ」


 "出題者"からの回答──言葉を選ぶように、慎重に。


「解いても解いても次から次へ新たに湧き出す悪問の連続。答えは問いを口にした者の気まぐれで容易く変わるが……どんな時も決まって、答えは笑えるほど幼稚だ」


 ──人生は絶え間ない悪問のリドルである。

 天使の語る人生観。彼女の瞳に映る世界。その悪徳さえもを、彼女は愛していた。愛そうと努めてきた。

 唯一解を持たない悪問のなぞなぞリドルの大原則──答え合わせができるのは、それを口にした"出題者"ただ一人であるということ。


 ──どうして?


 ノエルの口にした問い。

 アンジュが答えを口にする。


「君が大切だからだ。大切な人と共に在る為に問われる悪問のなぞなぞリドルを、もう二度と、決して間違えたくないからだ」


 答え合わせが出来るのは、問いを口にした者だけだった。

 天使は、彼女の望んだ答えを口にした。


「私は……」


 ノエルもまた、それに応えようとした。そのための言葉が自分の中に残っているのかはわからなかったが、少なくともそうするための声は、天使がくれたものだった。


「もっと、やれると思ったんだ。居なくなった人魚を見つけて、助けてさ。犯人を捕まえて……そうできると思ったんだ。そうしたら、きっと……一緒に居られるって……思ったから……」


 だが、現実は違った。

 実際にはノエルは誰も助けられず、それどころか助けられ、この都市の最も焦げついた悪徳の片鱗を見た。そのせいで、何が正しいのかもわからなくなった。

 企業複合体アカシアは最悪だ。それに連なる『エデン』も、等しく人でなしだ。彼らはこの都市を支配して転生者を治療するが、その命を守ることには頓着しない。

 『勇者同盟ブレイブリーグ』は最低だ。彼らはそんな企業複合体を憎んでいるが、アカシアの下に憩う獣達のことも等しく厭悪している。この都市に生きる誰が、いつどうやって死んでも構わないと考えている。

 企業複合体は紛れもなく邪悪だが、転生者を保護し、治療を施しているのは事実だ。

 企業複合体の打倒はある意味では正当だが、多くの民間人を巻き込むテロ行為によってそれを成し遂げるのは決して容認されるべき行いではない。

 混じり合って何色かもわからなくなった善悪のまだらマーブル模様。

 答えなき混沌が、ノエルの足を……異形の認知を持ちながら、天使と共に歩くために痛みを選んだ足を、絡め取っていた。


「わからなくなったんだ。何が正しくて、間違ってるのか……自分が、何をするべきなのか」


 企業複合体は転生者を実験動物のように扱う。『勇者同盟』はそれを正そうとするが、そのために無関係な人間がいくら血を流そうが気に留めない。そして企業複合体は、曲がりなりにも転生者を治療している。

 ノエルにはこの世の全てが悪に見えていたが、同時に他ならぬ自分自身がその悪徳の恩恵を享受していることにも気づいていた。

 だから、わからなくなった。自分が何をするべきなのか、何をしなくてはならないのか。

 答えを教えて欲しい、と思った。それを知っている人が、自分の目の前に居たから。


「なぞなぞの禁忌タブーがなんだか知ってるかい?」


 諭すような問いかけ──"出題者"の口ぶり。

 どこまでも残酷で悪意に満ちて複雑に絡まった世界では、きっと誰もが彼女の口にする答えを知りたがるだろう。

 ノエルは、アンジュの唇から答えが溢れるのを待った。


「それはね、悩むことだよ。人間はあらゆる難問に対して苦悩するが、苦悩は問題の本質を歪めてしまう。無意識のうちに、そのなぞなぞリドルの答えが自らの苦悩に等しいものであることを期待するようになる。実際は違う。どんな答えも、その苦悩を慰めるに値する価値を持たない」


 天使はタバコを咥えて火をつけた。

 自らの誤った選択を悪夢に見続ける天使の言葉。

 アンジュは口の中にためた煙を、冗談めかして輪のように吐き出した。有害物質を孕んだ吐息はまるで天使の輪ヘイローのように宙を彷徨った。

 ノエルはその煙の行方を目で追った。それが、彼女の決して表層化される事のない苦悩が形になったもののような気がして。


「どうしたら良いのか、なにをするべきなのか、という苦悩は、やがて自らの外に客観的な答えをくだしてくれる存在を期待するようになる。私は君に何をするべきなのかをもっともらしく語って聞かせられるだろう。それは君の苦悩を終わらせる福音のように聞こえるだろうが、実際には違う。自分自身に向けて問われたなぞなぞリドルの答えは、最初からもう自分の中にあるんだよ。例えそれがどれだけばかばかしくて非合理的に見えても、君がしたいと思う事以上に正しい答えは、この世界のどこにも無い」


 どこか突き放すような調子で、天使は言った。

 孤独と、自由を孕んだ言葉だった。楽園に繋がれた彼女が決して逃れられないものと、手に入れられないもの。


「自らの悔いなき選択だけが、答えのないなぞなぞリドルの答えになり得る」


 彼女にも、眠れない夜があるのだろうか、と思った。

 悪夢に怯えて眠れない夜に、彼女は何を思うのだろうか。


「……怖くない?」

「怖いよ」


 天使は、まっすぐにノエルの目を見た。

 どこまでも透き通った、遠い国の海のような瞳。


「……自分が間違ってるかもしれないって思うことはある?」

「思うよ」

「自分のしたいと思ったことがもしかしたらとんでもなく愚かなことで、失敗するしかないことかもしれないって?」

「うん」


 どうしてそんな風に頷けるのだろう、と思った。

 ノエルは、毒を呷る天使の姿を想像した。苦悩の毒に蝕まれる、天使の姿を。

 彼女にも苦悩があったのだろうか。彼女も同じだったのだろうか。自分と同じ、どうしようもない感情に、振り回されていたのだろうか。


「私は──」


 なぞなぞリドルの答えは、問われる前に決まっていた。自分が何をしたいのかは、いつも自分自身が知っていた。

 ノエルは、アンジュの手を取った。


「私も、事件屋になる……なりたいんだ。この世は最悪でクソでどうしようもないけど──負けたくない」


 心には炎があった。アンジュが拾い上げてくれた器に、怒りが火をつけた。

 この都市を支配するものに負けたくなかった。罪なき者の死を願うものに負けたくなかった。どうしようもなく歪んでしまった悲しい命に負けたくなかった。歩くことを選んだその日から、この身を苛み続ける痛みに負けたくなかった。

 悲しみが怒りを生み、怒りが炎を生んだ。そうすることが痛み続ける足を動かす原動力になることを、教えてくれた人が居た。

 だから、答えを出すことができた。


「エンブリオは腐った卵だ」


 誰もがそう口にする。

 この都市の、お約束の決まり文句。

 天使は、いたずらを思いついたように口の端を歪めて言う。


「鋼の殻の中で、誰かがろくでもない何かを作り出そうとしている。そのは、いつかこの都市という分厚い殻を自ら破って、ろくでもないものをこの世界に撒き散らすに違いない──だれもがそう考えている」


 産まれ落ちるべき腐り果てた『何か』が、アンジュ自身であるということを、彼女だけが知っている。

 彼女こそが、この都市の全ての不浄の行き着く果てであることを、他ならぬ彼女だけが知っている。

 だから、天使は笑った。


「腐った卵から産まれるのが腐った『何か』だと、誰が決めた」


 天使の提案──何もかもを悪ふざけに代えて笑い飛ばす、馬鹿げたなぞなぞリドルの出題。


「私たちこそがこの都市に蔓延る腐敗を除き、殻を破って産まれ落ちるんだ。腐った卵の中で育まれたものの全てが、汚れきってはいないと証明してやるんだ」


 天使は羽を広げて、天に拳を掲げた。

 冗談じみた所作──笑みを浮かべた唇の端に、タバコの火が揺れる。


「──私たちこそが、この都市の太陽を浴びる者サニーサイド・アップになるんだ」


 馬鹿げた大望だった。

 都市を支配するあらゆる悪徳と救済のまだら模様マーブルを潜り抜けて、太陽の下に産まれ落ちるという誓い。

 きっと、彼女ならどうにかするのだろうと思えた。

 そのための力になりたいと、思った。


「ひっくり返すってこと? この都市そのものを?」

「きっととても簡単なことオーバー・イージーなんだよ、ノエル。本当はね」


 アンジュがそう口にすると、まるで本当にそうだという気がしてくる。勇気が湧いてくる。

 天使の誘い──答えは最初から決まっている。初めから、自分の中にある。


 仙舟の末期の言葉を思った──『正しく怒れ』


 汚れ切った分岐路を、迷わずに進むために遺された言葉。

 そうしようと思った。心から、そうしたいと願った。


「私もそうしたい、信じたいんだ。私も……太陽の方を向いていたい」


 アンジュは微笑んで、ノエルを抱きしめた。

 穢れない白い翼と、漂う紫炎が二人を包んだ。


「……出来るかな、私たちに」

「きっと出来るさ」


 アンジュは笑っていた。

 それが、何よりも心強かった。


「私には翼があって、君には前へ進むための足がある。きっと、どんな悲惨も私たちに追いつけやしないさ」


 自らを天使だと思い込んだ者の、飛べない翼で。

 自らを人魚だと受け入れられない者の、走れない足で。

 きっとどこかへ辿り着けると信じた。

 正しく産まれ落ちるべき何処かへ──太陽の当たる場所へ。

 

「なんだ、仲直りしたのか?」


 施設の下層から続く階段を登って、カブトが戻ってきていた。

 その姿を見て、ノエルはぎくりとした。


「カブト兄、け、怪我……」

「あ?……ああ、ちょっとな。なかなかしぶとくてよ」


 その負傷のために、今の今まで彼が動けずにいた事を理解して、言葉を失った。

 事件屋稼業──その過酷な現実を前に、しかしノエルは決意を新たにする。


「カブト兄……私も、事件屋になる。なることにした」

「はあ?」


 カブトは呆れたような声を上げた。怒っているようでもあった。もしかすると、いつもそうなのかもしれない。


「何言ってんだ、お前……つーかノエルまでなんでここに……止めろよ! こいつなんかめちゃくちゃバカみたいなこと言ってるぞ!」

「私が誘ったんだよ」

「はあ?」


 尚更意味がわからないというように、カブトは肩をすくめた。


「お前……ノエルが不良になるとかなんとか俺に散々文句言ってたくせに……いや、そんなの『エデン』が許可するわけ……」


 アンジュが無言で微笑み返す。

 許可が降りないなら、もぎ取るまでだという戦意に満ちた笑み。

 きっと事実として、そうするのだろう。その事を、他ならぬカブト自身が誰よりも理解していた。かつて二人は相棒だったからだ。


 何もかも馬鹿馬鹿しくなったというように、カブトは天を仰いだ。


「……もう仲直りしたってワケか?」

「別に喧嘩してないし」

「私たちが喧嘩なんかするわけないだろう。何もわかってないな君は」


 すっかり結託した二人を見て、カブトは最後に大きくため息をついた。


「もう知らねえ。勝手にしろ」

「言われなくてもそうする」


 『エデン』随一の問題児──泣き虫ノエルの宣戦布告。

 一度決めたらテコでも動かない頑固者。他ならぬ自分自身と同じ類のその性質に、カブトは諦めを抱く他になかった。


「お前ら、昔はずっとそんな調子だったよな。なんでもいいからもう喧嘩すんなよ」

「誰のせいだと思ってるんだい?」


 アンジュが咎めるようにカブトを睨む。


「あ?」

「それ、カブト兄にだけは言われたくないんだけど」

「なんだそれ、俺のせいかよ?」


 カブトのくれた言葉で、歩く事ができるようになった。

 アンジュのくれた言葉で、声を取り戻すことが出来た。

 その恩に報いたかった。

 自分がそう出来るだけの力があると示す為に、自分もまた彼らと並び立つことが出来ると示したかった。

 だから対抗した。

 

 ための意地だった。

 する事が、アンジュと並び立つ事でもあった。

 為に、足が必要だった。


「……教えてあげない」


 ──



「……意味わかんねえ」


 彼らのやり取りを、要だけが茫洋と眺めていた。

 あらゆる世界の面倒事と切り離された彼女のことが、ひどく羨ましく思えた。


 カブトは要の隣に腰を下ろして、深く息を吐いた。


「帰ろうぜ、相棒」


 要は答えずに、壁の向こうの沈みかけた太陽の方を向いていた。

 カブトも同じ方を向いていた。ただ、そうしたいと思った。

 

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