第十八話 Sunny side up/太陽の方を向いて②

「まだだ……!」


 海月が腰に帯びたナイフを抜いた。

 吸血鬼になった母親を殺したのもナイフだった。

 銀の弾丸や白木の杭を用いるまでもなく、母親は死んだ。

 とても簡単なことだった。ただそれを繰り返すだけだ。


「お前を殺して、妹たちを迎えに行く。そうして、この事件を何もかも白日のもとに晒して、この街をひっくりかえしてやる……!」

「やってみろよ」


 アンジュは、両手を広げて海月に相対した。なにも恐れてはいなかった。


「君が本当に正しいなら、それができるかもしれない」

「────ッ!」


 海月とアンジュの間にある距離は、三歩程度だった。

 ナイフの届く距離まで詰め寄るのに、一秒とかからない。

 海月には蜜蜂や蠍のような戦闘能力はなかったが、それでも、この距離ならばこのナイフをアンジュの胸に突き立てるのは造作もない。

 とても簡単なことだ。

 この街を覆う不実の殻を打ち砕いて、その中身を焼き尽くすよりは、よほど。

 一歩目を踏み出す。


「あっ──」


 踏み出した足が、二歩目を刻む事はなかった。

 視界は天地を失って、地面が起き上がってきた。

 倒れたのだと理解したのは、額付いた地面に血溜まりが出来ていたからだ。

 撃たれたのだ、と思った。


<標的の沈黙を確認しました。ご無事ですか? アンジュさん>

「ああ、問題ないよ真島さん」


 引き金を引いたのは、アンジュの立つ隣のビルに待機しているエデン職員、真島だった。


「……犯人は生かして捕えるって話じゃなかったの?」

<状況が変わりました。既にカブトさんが実行犯二名を拘束したという報告が上がっていますし、棺屋からのリークもあります。何より、無傷での確保を前提としていたのは彼らが当局の認知していない義体を所持している可能性があったからです。見たところ彼女は非転生者のようですから、問題はないでしょう>

「主犯格は彼女だった。勇者同盟ブレイブ・リーグの後方支援係は、捕虜としては有用なのでは?」

<無論です。ただそれ以上に、あなたの身の安全が優先度の高い事柄だったというだけです>


 アンジュが肩をすくめると、それはどこか自嘲めいた、乾いた笑いに変わった。

 何かを諦めるような、そんな笑いだった。


<くれぐれも我儘は控えてください。あなたの命と釣り合うものは、この都市には一つもありません>

「ああ、わかったよ」


 アンジュは血溜まりを踏んで、錆釘海月の傍らに膝をついた。

 弾丸は胸を貫いていた。助からないことが、すぐにわかった。

 海月は、水よりも濃いぬかるみから天使を見上げた。

 それはあるいは、御使いが死者を迎えに来るかのような光景にも見えたかもしれない。


「エンブリオは腐った卵だと言ったね」


 囁く言葉が、薄れゆく海月の意識に届いた。


「この都市は、鋼の卵殻の中で何かを醸成し、産み落とそうとしていると。それがなんなのか」


 それは、"出題者"による解答の告知だった。


 なぞなぞリドルの答え合わせができるのは、それを出題する者だけだ。


「天使の転生者に何ができるか、わかるかい?」


 この街には、あらゆる生き物が存在する。オーク、ゴブリン、ヴァンパイアにリビングデッド……誰もがそう思い込んだだけだ。

 企業複合体は、彼らに適した拡張義体を与える事で、彼らを本当の意味で人ではないものに転生させる。転生させられた者は、その精神に宿った異形のままに、拡張された人体を操る能力を得る。

 ならば、天使の転生が齎す意識の拡張とは。


「拡張義体研究の根本にあるのは、月破砕以後に見出された未明粒子アーカーシャの解明とその応用だ。企業複合体アカシアは、未明粒子アーカーシャの特性と転生病との因果関係に、一つの仮説を見た」


 とめどなく血が溢れる。

 海月は、出題者の口にする答えを待った。

 それは、死の恐怖を上回る得体の知れない怖気を生じさせた。


「それによれば、未明粒子アーカーシャはすべての始まりからこの宇宙のどこにでも存在して、月が割れた影響で人類にもそれが観測できるようになったとされている。転生者は、未明粒子アーカーシャに強く干渉するための新たな知覚能力を獲得した進化した人類であるという仮説だ」


 くだらぬオカルトだと思った。

 死にゆく意識の中で、錆釘海月は理解できぬ言葉の数々を、そう思おうとした。


「すべての始まりからこの宇宙に存在し、その終わりまで存在し続けるこの世界の根源たる粒子……その挙動を観測し、予測することができれば、未来さえ予知できる。この世の終わりまでの、全ての情報と知識を手にする事ができる──彼らの目的は、世界記憶アカシック・レコードの掌握だ」


 馬鹿げた妄想だと思った。

 声を上げてアンジュの言葉を遮ろうとしたが、そうするだけの体力は、海月には残されていなかった。


企業複合体アカシアには、その仮説を検証するための知覚を持った転生者が必要だった。未明粒子アーカーシャの挙動を観測し、計算する膨大な処理能力を持った機械を自らの肉体の延長として操る事のできる存在。それはあるいは、自分自身を全知の存在からの啓示を受けて、人間にそれを伝えるための御使いであると思い込んでいるような……それは例えば、そんな類の精神異常者だ」


 この都市には、無数の異常者が存在する。

 企業複合体は、それらに異形を与え、肯定する。

 だがその全てが、ある目的を果たすための実験に過ぎないのだとしたら。それを生み出すための実験台に過ぎないとするのなら。

 彼らの目的とするものが、その先にある全く別のなにかだったのなら。


「──エンブリオという腐った卵が、を産み落とすために造られたのだとしたら?」


 海月は手を伸ばした。

 何の意味があるのかは、彼女自身にさえもわからなかった。

 ただ、触れようとした。

 彼女が憎み、破壊しようとしたものに。

 そのすべての行き着く先に──この都市で醸成される腐り果てた何かの、その正体に。


「お、お前……が…………?」


 天使は、困ったように微笑した。

 錆釘海月の伸ばした手は何にも触れる事はなく、やがて血溜まりに落ちた。

 錆釘海月は死んだ。


「もっとも、まだ完成に至ってはいないのだけれどね」


 カブトと相棒関係にあった時から、アンジュは『エデン』の試作した未明粒子アーカーシャ加速器を用いた予知実験を行っていた。

 その技術自体が秘匿業務司令アカシック・コード:000の名のもとに行使される完全なる秘密である以上、アンジュの捜査活動は、既に予知によって見知った未来をもとに、そこへ至る推理をこじつけるようなものになる。


 見通せる未来は至近の未来に留まり、その未来像も絶えず変化する不確かなものだ。

 あの日、実験施設から脱走したキメラの転生者に対して、企業複合体が秘匿業務司令アカシック・コード:000による事件の封じ込みを発令したその時。

 アンジュには、カブトが|絶滅者≪スローター≫となる未来が見えていた。

 自らの複合義体を完璧なものとするためにドラゴンの義体を取り込もうとしたキメラ達が要を攫ったその時に、彼は要を助けるために、そうするのだとわかっていた。

 だから言わなかった。折れかけのペンで、未来を変えようとした。

 そうして、失敗した。

 要は助かったが、情報を故意に秘匿しようとしたアンジュはカブトからの信用を失い、カブトは絶滅者スローターになって、そして、何もかもが変わった。

 例え心が読めても、未来が見えても、この世から後悔が消える事はない。

 物理的に発生する事象を粒子の挙動から予知できたとしても、人の心から生じた問題を常に正解に導く事は出来ない。

 まさしく、人生は|なぞなぞ≪リドル≫のようなもの。

 彼女の目をしても見通せぬからこそ、彼女はそれを愛するのだろうか。


「ああ」


 天使は空を見上げて呟いた。

 嘆くように、歌うように。

 太陽の方を向いて。


「やっぱり、外で見る空は綺麗だな」


 錆釘海月は死んだ。

 今彼女の口にした事を知る者は、楽園エデンの外には誰も居ない。

 そうして、全ては迷宮入りとなった。

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