第十七話 Sunny side up/太陽の方を向いて①

 錆釘海月の母は、彼女の姉だった。

 妹も同様に、父親が自分の娘に産ませた子供だった。

 父親は独占欲の強い男だった。家族を自分の所有物だと考えていた。

 元より異常な男だったが、末の妹の父親が自分ではなく、彼の妻が外で知り合った別の男の種から生まれたものだとわかってからは、更に病的な偏執さを見せるようになった。

 父親は娘たちを一歩も外に出さずに育てた。家族の絆は何よりも強く、血は水よりも濃く、尊いものだと繰り返し口にし、娘が自分の意に沿わない行動を取るたびに殴りつけた。

 家庭は父のための王国だった。生まれながらに外部からの刺激に鈍感な茫漠とした次女の蠍は恰好の憂さ晴らしの的だったし、自分の子ではない末の妹の蜜蜂は、いつも理由もなく殴られた。

 父のお気に入りだった海月は暴力を振るわれることはなかったが、成長するにつれて、父の自分を見る目が娘に向けるものから、女を見るそれに変わっていくのを感じていた。自分もいつか、この父の妻になるのだろうと思っていた。

 錆釘海月にとって、それが当然の日常だった。

 それだけが、彼女の信じられる法だった。


 父は弱い人だった。この世で最も信じた最愛の妻であり娘でもある女に裏切られた屈辱に耐えられないほど。

 その暴力性が行きつくところまで行ったその時……父が自分の娘を殺そうとしたその時に、それは起こった。

 父が父としての在り方を決定的に異なるものに変質させたのと時を同じくして、母も同様に人間とは全く別のものに変質していた。


 その時のことを海月はよく覚えている。

 末の妹を手にかけようとナイフを振り下ろしたその背後から、母親が父の喉笛に噛みついていた。

 父のナイフは狙いを逸れ、蜜蜂の頬を深く裂いた。


 最愛の妻に再び裏切られた驚愕と失意に顔を歪めながら、頸動脈を食いちぎられた父はほどなく息絶えた。

 母親は、父の亡骸から血をすすっていた。一心不乱に。時折それを呑み込めずえづいていたが、本人はそれにすら気づいていないようだった。


 なにをしているの、と聞いた。

 それは、純粋な興味だった。


『血を飲んでいるのよ』


 と、母は言った。返り血と自分の血で染め上げられた部屋で、その笑顔だけが日常のままだった。


『血は、水よりも濃い……血は水にならない、ふふ、ふふふ……』


 父の繰り返した言葉を口にした母の事を、覚えている。

 忘れる事はなかった。

 父の取り落したナイフを拾って、海月は母の首にそれを突き立てた。

 致命傷を負ってなお、母は血を飲めば失った分のそれを取り返せると思い込んでいるかのように吸血を続けたが、そうはならなかった。

 そんなことができるはずはないと知っていたが、海月は何も言わなかった。ただ、母親が血をすすって死んでいくのを見ていた。


 そうして、姉妹は生まれ育って一歩も出たことのなかった外の世界へ放逐された。

 海月は、母を憎んでいる。


 自らを育み、唯一信じられる法だったものを壊した母。

 なによりも濃い血の絆を裏切り、家族を破滅させた母。


 外へ出た姉妹には寄る辺が必要だった。出生報告すらなされていない彼女たちを受け入れる、あの部屋と同様に、淀んだ寄る辺が。

 それが『勇者同盟ブレイブ・リーグ』だった。

 彼らの理念においては彼女たちの母親は死すべき異形者であり、それを手にかけた海月は勇者だった。

 正しい、と感じた。

 

 だから、今も彼女たちはこうして正しい行いを続けている。

 自らを育んだ法の正しさを証明するために。


「人間は何故、こんなものを造ったのでしょうね」

 

 エンブリオ第七区画。

 死にゆく巨竜が暴れ狂い、その命の限りに吐き出した呪詛によって破壊された街を眺めながら、錆釘海月はそう口にした。


「『人間以外のなにか』になってしまったものの治療のために──そんな理由でこんな大量破壊兵器が造られただなんて、そんな話、誰も信じませんわよね」


 口元を手で隠すように、優雅な仕草で笑う。

 その笑みは火の手を上げる戦場の如き街の景色とはあまりに不釣り合いで、かえって彼女の纏う気配を不吉なものに見せていた。


「救った者の数と、殺めた者の数が釣り合いませんわ。──貴女も、そうなのでしょう?」


 海月の視線の先に立つ者は──天使の羽を持つ女は、答える代わりに、その一点の汚れもない白い翼を打ち振った。


「聞かせていただけませんこと? 天使さま──貴女が一体、何のために造られたのか」


 天使は──アンジュ・キャロルは口を開く。


「『壊れていないと使えないものはなんだ?』」


 歌うような声音で紡がれた言葉は、質問への回答ではなかった。

 自らこそが全ての謎の出題者であり、その全ての支配者であるというかの如き傲岸なまでの潔白さがその身を鎧うようだった。


「言葉遊びですの? 優雅なご趣味ですわね」

なぞなぞリドルさ。ただの、幼稚な」


 戦場に等しいありさまで火の手を上げる街を背景にして、二人の少女は微笑みを交わした。

 どこか親しげでさえあるその様子と彼女たち自身を取り巻く環境のミスマッチが、その対峙をひどく不吉なものに見せていた。


「ふふ、ありがちな問題ですわね──答えは卵。殻を割らないと、卵料理は作れませんもの」

「残念、不正解だ」


 ──正解は、お前の頭だ。


 "絶滅者スローター"の口にした答え──天使は笑う。


「あら、引っ掛け問題ですの? 意地悪ですわね」

「壊れていないと使えないものなんて、いくらでもある。それこそ、君たちが今まさにそうしようとしたように」


 微笑みの向こうから、海月の刺すような視線が天使を見た。

 アンジュは言葉を続けた。


「この事件の動機だよ。君たちが何故ドラゴンを利用してテロを起こし、そのために人魚を殺したのか」


 海月は答えず、ただ首を傾げて続きを促す。


「それはまさしく、この事件こそが世界への問いかけに他ならないからだ。『こんな事件を起こし得る危険な転生者を野放しにして良いのか』という問いに」


 炎上する都市の一角。

 『人間の居ない街』で、人間ではない者を襲った脅威。

 人間ではない者が、それを為した。それを為す為の力を与えた存在が居たからだ。


「ドラゴンを使ったのも、そのために人魚を攫ったのも、全ては企業複合体アカシアに対する抗議運動の一環というわけだ──君の目的は、卵料理を作ることじゃなく、卵の殻を割ることだった。──なぞなぞリドルの答えは、だ」


 ──エンブリオは腐った卵だ。

 その内側で悪徳を醸成し、"なにか"を産み落とそうとしている。

 それが何かを知る者は、誰も居ない。

 産み落とされるべきものを除いては、誰も。


「正解ですわ。わたくしたちの目的は、人魚を殺す事そのものであり、ロゾロ=ラジーンを運用して都市内で破壊行為を起こす事そのものであり、同時にそれを広く世間に知らしめ、そしてその責任の全てを|企業複合体≪アカシア≫に着せること」

「『死病に侵された転生者が錯乱し、人魚の屍肉を貪った』、そういう筋書きで転生者の危険性とそれに特殊な義体を与える|企業複合体≪アカシア≫を糾弾する筋書きというわけか」


 海月は肯定するように笑みを深める。


「この街は腐った卵ですわ」

 

 誰もがその言葉を口にする。

 海上にぽつりと浮かぶこの人工島は、企業複合体アカシアという怪物に産み落とされた卵に似ている。

 鋼の卵殻の中で醸成され、孵化すべきものが何なのかは、誰も知らない。


「その卵の中から産まれるものが何なのかだなんて、知る必要がありまして? 何かがそこから産まれるより先に、わたくしがその殻を割って、美味しく料理して差し上げます」


 勇者同盟ブレイブ・リーグの基本理念は反アカシアであり、その根幹にあるのは転生者への差別意識である。

 『転生者は異形の怪物であり、それを排斥する自分たちこそが勇者である』というのが、彼らがそう名乗る所以である。

 錆釘海月もまた同様だった。その思想に忠実に、この都市そのものを破壊し、自らの思想のために利用しようとしていた。

 腐った卵壊れていないと使えないものを、その存在の限りに使い切るために。


「君の母親は、吸血鬼の転生者だった」


 全く唐突に、アンジュは言った。

 海月は驚愕に目を見開く。


「吸血鬼の転生者は、自分が吸血によって栄養を摂取する存在になったと強く思い込む。そのため、サキュバス等と同様に人間の食事に対して忌避感を抱くようになり、適切な治療を受けられない場合、多くは深刻な栄養障害を引き起こす」


 アンジュの微笑──仮面のように揺るがず。


「君の母親の遺体には栄養失調の痕跡があった。そして、胃の中からは同時にその場で死亡していた男性の──彼女の父親の血液が発見された。状況的に、彼女が吸血鬼の転生を患っていた可能性は高い」

「なぜ、それを──」


 この場で初めて、海月が初めてその表情に動揺を浮かべた。

 彼女が抱え続けた大いなる謎を、なぜ目の前の天使が知っているのかは、彼女には理解できなかった。

 アンジュは喉の奥でくつくつと笑った。


「全知全能なんだと言ったら、どうする?」


 冗談めかした口調だったが、同時にそれを事実だと思わせるような説得力を孕んでも居た。

 海月の背筋に冷たいものが這った。


「それが天使の転生を患ったが故の権能だと?」

「転生者の死亡事故のデータは、発覚したものは全て企業複合体アカシアに集積される。ただその中から該当する事件ケースを見つけ出しただけさ。趣味のようなものだよ」


 歌うように、天使は言った。

 該当する事件がこの世にどれだけ存在するだろう?


「仮にその情報にアクセスすることが出来たとして、わたくしたちとその事件を紐づける痕跡は何一つ無いはず……!」

「仙舟という人魚を殺害した現場には君の妹の血液が残されていた。企業複合体アカシアのデータベースには、現場から回収された君たちの母親の……あるいは、姉の生体情報も記録されていた。まさに水よりも濃い血の絆が、手がかりになったというわけだ」


 海月は、ひび割れた仮面を被りなおすように、再びその表情に笑みを取り戻した。


「……仮に、そんなことが解ったからと言って、だからなんだと? そんな事を持ち出して、なにか優位に立ったおつもりで?」

「彼女の栄養失調の状態から、吸血鬼の転生を発症したのは父親を殺害するよりも前だったことが窺える。彼女の胃からは、父親の血液以外に食べ物は見つからなかったようだからね」

「それがどう……」

「彼女の直接の死因となったのは、ナイフで頸動脈を切り裂かれた事による失血だ。そしてそのナイフには、君の母親の血とは別に、もう一人の血液が僅かに検出されている。今回仙舟殺害の現場から回収されたものと同じ──君の妹の血液だ。以上の事から、事件当時の状況が推測できる。彼女は、自らが吸血鬼の転生を患いながら、極限の飢餓感の中で家族の血を啜ることなく生活し、同時に、娘を守るために自らの父であり夫でもある男を殺した」


 ──『血を飲んでいるのよ』

 海月と妹たちから全てを奪った、狂ってしまった母親が口にした言葉。


「だから、わたくしたちは間違っていると? わたくしたちが反転生者思想に傾倒する様を愚かだと言いたいのですか?」

「いいや」


 街は火の手を挙げている。

 だが、その被害規模は二体のドラゴンがその性能の限りに争った結果としては、極めて小さなものではあった。

 防ごうとしたからだ。そうしようと、戦った者が居るからだ。


「君の言う通り、エンブリオは腐った卵だ。企業複合体は邪悪だし、転生者の犯罪はひどく残酷で、その悲劇が消え去る事はない。エデンは、そうしてその中から別の腐った何かを生み出そうとしている」


 だから、と天使は言う。

 ただ、真実だけを口にするために。


「だから、君は正しさに敗北するわけじゃあない。ただ、より大きな力によって敗北するんだ」

「敗ける? わたくしが? 既にこれだけの被害が出ている時点で、目的は達成されている」

「ロゾロは敗北した。バックス福祉局が、ミハエル・岩動・オーランドの身柄を確保した。君が事前に用意した段取りでは、君は妹たちと合流できない」


 今度こそ、海月の微笑の仮面が砕け散った。


「貴様、私の妹に何をした!」

「まだ何もしていない。私はただ、現場を離脱した棺屋からの情報提供を受けてここに来ただけだ。君は彼女に売られたんだよ」

「わたくしの妹たちが、わたくしの家族が、敗けるわけがない!」

「敗けるんだよ」


 断言──神の言葉を宣告するような天使の言葉。


「あそこに、カブトが居るからだ」


 かつての相棒。共に戦い、背中を預けた者への信頼が、彼女にそう断言させた。


絶滅者スローター……!」

「君の妹たちとミハエルが確保されれば、ロゾロの事件と人魚の失踪事件が表立って関連づけられる事は無いし、一連の失踪事件を一つの事件として紐づける証拠を提示することも難しいだろう。ロゾロが犯行に及んだ理由も、明らかになることはない。企業複合体アカシアは一連の被害に対する補填を行って、単なる転生者の人事不詳として事件の発表を最小限に留めるだろう。皮肉にも、被害を受けたのは『人間の居ない街』だった。この都市の外に居る人間は、そんなものがどんな目に会っていたって、きっと興味も持たないのだろう──だから以上を以て、この事件は迷宮入りだ」


 アンジュは、淡々とそう口にした。その内容が持つ腐敗を、せめてありのままに伝えようとするかのように。


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